物と自らの存在を対立したものとして捉えるのではなく、物と自らの関わりかたや自らと人との関わりかたを通じて、人が生きることとは如何なることかを問うているのかもしれません。
自らが生きていくためには、寒さをしのぐ為の衣を纏い、雨露をしのぐ為の住まいを構え、力を蓄える為には喉を潤し食する他はなし。つまり、自らが生きるためには、何らかの物を、何かしら使わざるをえない。そこに所有する概念が生まれ、自らの物という認知にいたるもの。その認知の仕方は人それぞれであるからこそ、自らが自由であるということは、他の人も自由である以上、その巡り合いや関わり方も偶然なのかもしれません。
木に登ろうとする子どもを、ひろいあげて木の枝にあがらせてしまうとき。ひょっとして、子どもが望んでいたのは、木の枝の上にいることだけでなく、自らで登ることを望んでいたのかもしれません。
逆に、木に昇る気がない子どもを、ひろいあげて木の枝にあがらせてしまうとき、選ぶ、選ばざるに関わりなく、木の枝から臨む光景を見てしまいます。たとえ、相手の為によかれと思ってとった行為は、必ずしも、相手が望んでいたとは限らないはずなので、まずは、相手が何を目的としているのかを知ることでも、相手が何も目的を持っていないことももはや、それも自由であることなのかもしれません。
初稿 2015/03/21
校正 2020/01/04
写真 「大空に」桑原巨守, 1996.
撮影 2015/03/21(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
自らが生きていくためには、寒さをしのぐ為の衣を纏い、雨露をしのぐ為の住まいを構え、力を蓄える為には喉を潤し食する他はなし。つまり、自らが生きるためには、何らかの物を、何かしら使わざるをえない。そこに所有する概念が生まれ、自らの物という認知にいたるもの。その認知の仕方は人それぞれであるからこそ、自らが自由であるということは、他の人も自由である以上、その巡り合いや関わり方も偶然なのかもしれません。
木に登ろうとする子どもを、ひろいあげて木の枝にあがらせてしまうとき。ひょっとして、子どもが望んでいたのは、木の枝の上にいることだけでなく、自らで登ることを望んでいたのかもしれません。
逆に、木に昇る気がない子どもを、ひろいあげて木の枝にあがらせてしまうとき、選ぶ、選ばざるに関わりなく、木の枝から臨む光景を見てしまいます。たとえ、相手の為によかれと思ってとった行為は、必ずしも、相手が望んでいたとは限らないはずなので、まずは、相手が何を目的としているのかを知ることでも、相手が何も目的を持っていないことももはや、それも自由であることなのかもしれません。
初稿 2015/03/21
校正 2020/01/04
写真 「大空に」桑原巨守, 1996.
撮影 2015/03/21(大阪・御堂筋彫刻ストリート)
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