この映画は、公開年2020年となっていて実際に去年英語記事もいくつか見ました。が、ボウイというスーパースターの伝記映画にしてはあまりにも話題にならないことが気になってました。去年といえば世界中がコロナ禍真っ只中・・・というだけでなく、人気ミュージシャンの伝記映画といえばクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」やエルトン・ジョンの「ロケットマン」に続く話題作ではないのか?
その疑問も解くためにも映画館に行き自分の目で確認しないではいられない、私はそれなりのボウイファンなのです。
見て、そしてちょっと調べて、「話題にならない理由」はわかりました。
まず、主に家族で構成されるボウイ亡き後の権利団体が、ボウイの曲の使用を認めていない映画だったので、当ミュージシャンの曲が聞けないミュージシャンの伝記映画だったのです。
それがデビュー前の時期を描くならヒット曲が出る前ですからまだ自然ですが、描かれたのはボウイが3枚目のアルバムを発売、そのプロモーション中という時期なので、すでに「スペース・オディティ」というヒット曲も一応あり、プロモーションしているレコードは出てくるのにその曲を劇中で歌わないというのは、なんとも主役のいない劇を見せられているようなわかりにくさではないでしょうか。
アメリカで無名の新人ミュージシャンとして意味のないドサ廻りをさせられながらも、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのライブに行ったりウォーホールに会ったりと、アメリカに来なければ受けられない刺激があったのですが、それの何がどうボウイにアピールしたのかもわかりにくかった。
反対に、ボウイの知られていない内面として、統合失調症で入院した兄と親族の存在が、自分も精神を病むのではないかという恐怖を生んでいたことがアメリカの旅に挟まれて度々出てきます。おそらくその辺アーティストとしてではない個人的なことを描くにあたり遺族の同意が得られなかったのではと推測します。
でも伝記映画としては、ボウイのアーティストとしての覚醒にその精神的な悩みは必須要素ですので、そこは映画を作る価値、見る価値のあるところで、そこを公式許可がされないまま制作されたというのが、残念な部分の大きな理由でしょう。
あと、もう一つ、一般人としてわからなかったのは、音楽業界の有名な人が数名ボウイの周りに現れているのですが、それが誰でどんな仕事の人なのか描写がなかったか、私がわからなかったところです。一般人でも名前を知っている超有名プロデューサーのトニー・ヴィスコンティも出てきたと後で知りました。音楽に詳しい人にはわかったのでしょうけれど、やはり表現というのは、それに詳しい人たちだけでなく、知らない人にもわかるポイントも押さえて世に出さないと話題にする人もそりゃあ少ないでしょうよ、という勉強になりました。
それから、ボウイ役のジョニー・フリンが役不足だったと思います。伝記映画でも何もそっくりさんである必要はないですが、映画を見ていて顔は似ていないけどその本人にだんだん見えて来るものではないでしょうか。平たく言うと、たいていの伝記映画は主役は本物より美形なことも多いですが、その類には入ってなかったのです。