つれづれおもふ

思えば遠くに来たもんだ~ぼつぼつ語る日々の出来事

あっぱれ!マツジュン

2011年12月01日 | 徒然に、

日テレ系音楽の祭典!』を観た。

末っ子は「なんだファンモンは出ないんだ」といいながら“いきものがかり”を待ち、
私は“堅ちゃん”をじっくり聞いた後、最後の“”を待ち、JKは“関ジャニ”を観た後は部屋にこもり勉強しながら“”を待った。
このごろ“TOKIO”が5人そろっているところをあまり観たことなくて、「TOKIOって、やっぱりかっこいいよねえ」と旦那と末っ子と3人で意見があった。いささか疲れた表情を垣間見せる“福くん” 子役の宿命だけれどこういう子どもって、普通に育てるのと違い大変だろうなあと、どうも親目線で眺めていた。

親目線と言えば、本題。

最後に出て来た” おばさんは妙なところが気になって気になって仕方がなかった。

昨日の“”はタキシード(?)に飾りをつけた、いわゆるスーツ姿だった。
若いころと違い、骨格ががっしりしてきてなかなか着こなして“男の魅力”だった。
だけど目が離れなかったのが、大野君の袖。大きなふりをすると、上着の袖があがってしまいシャツが飛び出てくる。これは仕方がないことだが、それが度を超えてはみ出していた。あいにくと真っ白なシャツで、それがカフスをこえて出たままになってしまうため、目立っていた。大野君も気にして、時折袖口に手をやっている様子が見えた。上着が下りると丈は足りているようだし、どうしてあんなにシャツが出てしまうのか不思議だった。
はじめは包帯をしているのかと勘違いして「あれ、おーちゃん怪我しているのかな?」と思った。
観ている私が気が気でないせいか、踊りにいつもの精彩を欠いたように感じた。

そんな感想を持って一晩過ごしたのだが、朝、時計代わりにつけていた『ZIP』で、昨日の祭典後インタビューを受けている様子を観て感心した。何にってマツジュンに!

嵐5人が歌った衣装そのままで出て来たのだが、大野君は上着を脱いでいた。
「やっぱり変だったんだよな」と思ったら、マツジュンも上着を脱いだ姿になっている。
だれがそういう手はずをしたのか想像でしかものを言えないが、
“アイドル”というものをストイックに追い続けているマツジュンだったら、おーちゃんのあの姿は「いかん」と思ったに違いない。
私のように気になって集中できなかったファンのことを気にするに違いない。着るものにそれほど興味を持たないおーちゃんでも、あれはまずいと感じただろう。他のメンバーも思っただろうが、マツジュンはもっと厳しく考えただろう。
そして、塩梅の悪い上着を脱いだほうがいいとなって、大野君一人脱いでいてはバランスが悪いと考えたに違いない。
上着を脱いだ姿を、自然に受け止めてもらえるようにしたいと彼なら考えるだろう。それで自分も脱いだ。
もしかしたら 「リーダー脱いだ方がいいよ!」 ときつく言ったかもしれない。
「一人じゃおかしいから、おれが脱ぐ」 とやったかもしれない。

あっぱれ マツジュン!!  

一人マツジュンの仕業と決め込んで、でも、なんかプロの心意気のようなものが感じられて、嬉しかった。

生の舞台 というのは、こういう機転のだいご味があるもんだ!

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続けてのお誘い

2011年12月01日 | 子育て

昨日、末っ子の友達のおかあさんからメールが来た。
「今日、休みなの・・・お茶しに来ない?お昼も一緒しようよ!」
こういう時に外職でない身の上は、気軽にほいほいと出かけられるからラッキーと思う。

三々五々、都合に合わせて同じ学年のお母さんが集まった。
話題は、最近、ちょっと素行の怪しくなってきたクラスメイト達のことから始まった。
末っ子の中学校は近隣に大型のスーパーが2軒、小規模のショッピングモールが1軒ある。
そこがたまり場になっているようで、眉をしかめる様子が話された。

10月末にあった“合唱コンクール”
1年生に対する私の感想は「あんなもんでしょう」というのと「もう少しできてもおかしくない」で、どうも一抹の不安があった。
今までの学年の様子をみていると、合唱コンクールで苦労の末なんとかまとめ上げられると、その後クラスががっしりとして落ち着く。それで中学生らしい芯ができるように感じて来た。それが足りない。
教育とは……と思う。

小学校から一緒にきた女のお子さんで、親御さんのありようにどうもわからないものがある子がいる。
それは小学校入学以来ずっとずっと続いてきて、話を聞くと、お父さんのありようもお母さんのありようもテレビドラマよりも生々しく、結論として「あの子はよくやっている」というのが、周りの母親達の一致した意見で、でもその子の素行に問題が無いかというと、それは大ありで頭を抱えることも多い。
女の子の母親たちは、わが子がその子の苦労している部分ではなく、自由に楽しく過ごしている部分だけに惹かれてしまうのではないかと神経をぴりぴりさせている。中学生、性の問題も前よりも身近なものになってきている。

それは女の子だけでなく、男の子にしても考えてしまう。

幸いにしてうちの上の子どもたちは惚れたはれただけでなく、自分の夢を描き、それに向かうこともしてくれている。
その姿をみているから末っ子も踏みとどまるだろうと親は期待しているが、いざとなったらわかりゃしない。
そうなったとき、親として凛として、逃げずに向かうことだけができることだろうと覚悟している。
だが、男の子と女の子では、社会から貼られるレッテルが違う。
そこのところ、女の子の親御さんははっきりとお子さんに伝えるべきだと思う。

我が家の娘二人は部活にいれあげていたので中学の時はそんな心配もせず、高校に上がるときにそれぞれそんな話をしたように覚えている。まだ、末っ子に手がかかる時期だった。
「好きになってそうなったというのなら、それは仕方がない場合もあるでしょう。でもね、何が悔しいって、○○(末っ子)がようやくここまで大きくなって、ようやく私一人の時間が持てるときになって、私に断りもなく勝手にやったことで孫の世話なんか絶対しない!親がかりの時に好き勝手やってできた始末は、相手のお母さんに頼んでちょうだい!●●(長男)がやってしまってというのなら、それはあいつも責任をとるべきと思うから、相手が困ってるのに助けないなんてしないけれど、あんたがたのそんな出来事は面倒見ないからね!」といささか自分本位に娘たちには宣言した。

とはいえ、娘への心配、これは尽きるものがない。

話は、その後、「上の子どもと下の子どもを平等に扱うには、」というようなものに進んだ。
大抵、今、お子さん二人の家庭が多いのではなかろうか、そうすると、子どもたちが「エコひいきされてる」と親に訴えるそうだ。
手のかかる子どもと手のかからない子どもがいるというのは、親の都合らしい。
だが、それも4人いる我が家では話題にもならないから、二人きょうだいという特別な状況で生まれる悩みなんだろう。

前にも書いたが、うちの4人の子どもで長女が一番手こずっている。
手もかかっているし、気持ちもかかっているし、親が悪戦苦闘しているのを他のきょうだいはみてきている。
それに対して「父も母も、大変だね」ということはあっても、自分にも手をかけてくれとは言わない。
また、別な立場から言うと、そうやって苦労かけている長女を特別扱いもしない。ほかのきょうだいと同じように、きょうだいと扱う。「◎◎(長女)も偉いよ」という。きょうだいが多いと、親は何もせずにこういう育ちをしてくれる。感謝しかない。

“物”も“手”も“気持ち”も平等に扱うこと等、できるはずがない。
「平等」を、見える量で測るか、必要としている量で測るかでもかわってくる。うちのように子どもが多いと、見える量を平等にするのはいささか至難の業だ。必然としてより必要としている子に向くという体制が、家庭の中で確立することになる。だから、お子さんが少ない家庭は、意識的にそういう部分を育てていくしかないのだろう。

でも、わが子たちは時折いう。
「一人っ子だったらなあ…」 その気持ち、よーく分かる。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする