お盆休みを挟んで1週間、夏休みをとった。それが終わりに近づいた8月15日、かつて高級ブティックと呼ばれた「レディス専門店」を経営する叔父貴が亡くなった。
戦争中に宮崎の航空兵学校に入学し、戦後、20代の若さで専門店を創業した。兄弟が呉服や寝具の商売をしていた影響もあって独立願望が強く、これからは「ファッションの時代が来る」という読みもあったと思う。
ただ、最初は衣料品が揃わず、インポートを仕入れるにも外貨の持ち出し制限があり、止む終えず毛糸を売っていた時期もあった。その後、高度成長と共に専門店系アパレルが企画した商品を仕入れ、商店街に店を構える高級レディス専門店として、成長軌道に乗った。
東京、大阪、神戸と仕入れに出かけ、福岡に営業所があるメーカーに来たときは、叔父貴と同行した叔母がよくうちに寄ってくれた。
イトキンの福岡営業所が博多区の奈良屋町にあった時のことだ。展示会では商品の卸値やデザインの修正、別注などについて深夜まで、担当営業と喧々囂々のやり取りをして、つい最終列車を乗り逃がしてしまい、うちに泊まることもあった。
朝起きると、叔父貴、叔母が布団に寝ていて、親父とお袋が起きて朝の支度をしていたのは驚いた。言い換えれば、それほど専門店の経営に情熱を注いでいたということだ。
それはリスクを踏んで商品を仕入れ、一生懸命売り切ることである。また、顧客を育てていく中では、「掛け売り」することもあったと思う。それでも、叔父貴は自店は損しても、メーカーには必ず取り決め通りに支払う責任感を失わなかったと聞く。
専門店の中には、メーカーが集金に行くと、露骨にレジの中を見せて、「今、お金が無いのよ」と、開き直る経営者もいる。バブル景気が崩壊すると特に酷くなっていった。それがアパレル側の卸先選別やSPA化を促した。
ビームスやユナイテッドアローズはインポートを軸に自主編集を進め、セレクトショップという新たな業態とブランド力を確立した。しかし、地域の専門店の中には仕入れ先を失い、経営に行き詰まるところも少なくなかった。
それでもアパレルと共存共栄でやっていく専門店は存在する。今では有名セレクトショップでさえ中間業者が介在し、「バイヤー」なんて職種が名ばかりになる中、叔父貴は強い販売力を背景にバイヤーを育て、頑に暖簾を守り続けてきた。
しかし、時代の変化は有無を言わせず、地域専門店にのしかかっている。多くが顧客の高齢化でMDをスライドさせ、ますますばあさん臭い店になっている。一方、若返りを図って、新しい市場開拓に挑んでも、競争激化ですぐに顧客はつかない。
さらに専門店を取り巻く環境も、大店法の改正、郊外型SCの乱立、価格デフレ、Eコマースの普及と激変した。叔父貴の店がある商店街も、経営体力がないところは次々と閉店し、シャッター通りと化している。
それを何とかしようと、後継ぎとして渦中に飛び込んだのが、叔父貴の長男である従兄だ。大学卒業後にアパレルメーカーのローマ岩島に勤務していたが、親の背中を見て育っただけにその卓越した営業センスには、内外の評価も高かった。
メーカーを辞めて、店長修業をしている頃、業界誌チャネラーの「地域専門店の新時代戦略」で取材をした。叔父貴が会長職に退き、社長に就任すると、今度はファッション販売の「地域一番店・有力店の反撃策を探る」にも登場してもらった。
お客はいくつになってもきれいで若々しく、スッキリ見えたいと思っている。従兄がとった戦略はお客が高齢化したからこそ、きれいに若く見せる工夫が必要で、そのための商品とスタイリング提案だった。
2年の歳月をかけてじっくりコンセプトを詰め、50代から20代までに対応するブランド編集を具現化した。顧客の感度を刺激する商品を品揃えに落とし込しこみ、需要を若いエージにまで広げて掘り起こすというもの。これで見事に新規顧客を捉えた。
また、商店街の活性化政策では、仲間の商店主らと“お笑い劇団”を旗揚げし、空き店舗での公演活動からイベントまで積極的に行っていた。
しかし、店の経営と商店街の活性化で辣腕を振るっていた矢先、従兄はガンでこの世を去った。店にとっても、商店街にとっても大黒柱を失った。叔父貴も叔母も相当辛かったと思うが、そんな素振りは少しも見せなかった。
そして、コロネット商会に勤務していた筆者と同じ歳の弟がその代役を買って出た。経営が傾き伊藤忠の元で再生を図っていた同社とは言え、弟にすれば東京での楽なサラリーマン暮らしを捨てるのは、本意ではなかったと思う。
家族を残しての単身赴任だったが、子供二人の就職にも目処がたち、父親である叔父貴の死去によって、「これからは自分がやる」との踏ん切りもついたと思う。義理の姉である従兄の妻も文化服装学院出で、ファッション業界の知識は豊富である。その下には三人の息子がいて、三男は三共生興で目下、営業について勉強中の身だ。
三陽商会がバーバリーとのライセンス契約終了で、「ダックスには追い風じゃん」との話を振ると、「この1年が勝負です」と頼もしい答えが返ってきた。
地域専門店が厳しい環境にある中、高齢の叔母も家族が力を合わせれば、「これからも何とかやっていける」と、手応えを感じたに違いない。
だらだらと私事を書いてきたが、似たようなことは多くの地域専門店が抱えている。経営者が代わった途端にうまくいかず、倒産に追い込まれる店もあれば、後継ぎがいなくて経営権を手放す店もある。だから、あえてコラムにした。
これから地域で専門店の暖簾を守るのは容易ではない。しかし、いくら時代が進化しようと、お客は店でしかファッションを手に取って見ることはできない。オンラインが普及すればするほど、オフラインへの揺り戻しは強いとのデータもある。
「地域専門店の灯を消してはいけいない」という気概が、日本のファッション産業を下支えすることも、決して忘れてはならない。
戦争中に宮崎の航空兵学校に入学し、戦後、20代の若さで専門店を創業した。兄弟が呉服や寝具の商売をしていた影響もあって独立願望が強く、これからは「ファッションの時代が来る」という読みもあったと思う。
ただ、最初は衣料品が揃わず、インポートを仕入れるにも外貨の持ち出し制限があり、止む終えず毛糸を売っていた時期もあった。その後、高度成長と共に専門店系アパレルが企画した商品を仕入れ、商店街に店を構える高級レディス専門店として、成長軌道に乗った。
東京、大阪、神戸と仕入れに出かけ、福岡に営業所があるメーカーに来たときは、叔父貴と同行した叔母がよくうちに寄ってくれた。
イトキンの福岡営業所が博多区の奈良屋町にあった時のことだ。展示会では商品の卸値やデザインの修正、別注などについて深夜まで、担当営業と喧々囂々のやり取りをして、つい最終列車を乗り逃がしてしまい、うちに泊まることもあった。
朝起きると、叔父貴、叔母が布団に寝ていて、親父とお袋が起きて朝の支度をしていたのは驚いた。言い換えれば、それほど専門店の経営に情熱を注いでいたということだ。
それはリスクを踏んで商品を仕入れ、一生懸命売り切ることである。また、顧客を育てていく中では、「掛け売り」することもあったと思う。それでも、叔父貴は自店は損しても、メーカーには必ず取り決め通りに支払う責任感を失わなかったと聞く。
専門店の中には、メーカーが集金に行くと、露骨にレジの中を見せて、「今、お金が無いのよ」と、開き直る経営者もいる。バブル景気が崩壊すると特に酷くなっていった。それがアパレル側の卸先選別やSPA化を促した。
ビームスやユナイテッドアローズはインポートを軸に自主編集を進め、セレクトショップという新たな業態とブランド力を確立した。しかし、地域の専門店の中には仕入れ先を失い、経営に行き詰まるところも少なくなかった。
それでもアパレルと共存共栄でやっていく専門店は存在する。今では有名セレクトショップでさえ中間業者が介在し、「バイヤー」なんて職種が名ばかりになる中、叔父貴は強い販売力を背景にバイヤーを育て、頑に暖簾を守り続けてきた。
しかし、時代の変化は有無を言わせず、地域専門店にのしかかっている。多くが顧客の高齢化でMDをスライドさせ、ますますばあさん臭い店になっている。一方、若返りを図って、新しい市場開拓に挑んでも、競争激化ですぐに顧客はつかない。
さらに専門店を取り巻く環境も、大店法の改正、郊外型SCの乱立、価格デフレ、Eコマースの普及と激変した。叔父貴の店がある商店街も、経営体力がないところは次々と閉店し、シャッター通りと化している。
それを何とかしようと、後継ぎとして渦中に飛び込んだのが、叔父貴の長男である従兄だ。大学卒業後にアパレルメーカーのローマ岩島に勤務していたが、親の背中を見て育っただけにその卓越した営業センスには、内外の評価も高かった。
メーカーを辞めて、店長修業をしている頃、業界誌チャネラーの「地域専門店の新時代戦略」で取材をした。叔父貴が会長職に退き、社長に就任すると、今度はファッション販売の「地域一番店・有力店の反撃策を探る」にも登場してもらった。
お客はいくつになってもきれいで若々しく、スッキリ見えたいと思っている。従兄がとった戦略はお客が高齢化したからこそ、きれいに若く見せる工夫が必要で、そのための商品とスタイリング提案だった。
2年の歳月をかけてじっくりコンセプトを詰め、50代から20代までに対応するブランド編集を具現化した。顧客の感度を刺激する商品を品揃えに落とし込しこみ、需要を若いエージにまで広げて掘り起こすというもの。これで見事に新規顧客を捉えた。
また、商店街の活性化政策では、仲間の商店主らと“お笑い劇団”を旗揚げし、空き店舗での公演活動からイベントまで積極的に行っていた。
しかし、店の経営と商店街の活性化で辣腕を振るっていた矢先、従兄はガンでこの世を去った。店にとっても、商店街にとっても大黒柱を失った。叔父貴も叔母も相当辛かったと思うが、そんな素振りは少しも見せなかった。
そして、コロネット商会に勤務していた筆者と同じ歳の弟がその代役を買って出た。経営が傾き伊藤忠の元で再生を図っていた同社とは言え、弟にすれば東京での楽なサラリーマン暮らしを捨てるのは、本意ではなかったと思う。
家族を残しての単身赴任だったが、子供二人の就職にも目処がたち、父親である叔父貴の死去によって、「これからは自分がやる」との踏ん切りもついたと思う。義理の姉である従兄の妻も文化服装学院出で、ファッション業界の知識は豊富である。その下には三人の息子がいて、三男は三共生興で目下、営業について勉強中の身だ。
三陽商会がバーバリーとのライセンス契約終了で、「ダックスには追い風じゃん」との話を振ると、「この1年が勝負です」と頼もしい答えが返ってきた。
地域専門店が厳しい環境にある中、高齢の叔母も家族が力を合わせれば、「これからも何とかやっていける」と、手応えを感じたに違いない。
だらだらと私事を書いてきたが、似たようなことは多くの地域専門店が抱えている。経営者が代わった途端にうまくいかず、倒産に追い込まれる店もあれば、後継ぎがいなくて経営権を手放す店もある。だから、あえてコラムにした。
これから地域で専門店の暖簾を守るのは容易ではない。しかし、いくら時代が進化しようと、お客は店でしかファッションを手に取って見ることはできない。オンラインが普及すればするほど、オフラインへの揺り戻しは強いとのデータもある。
「地域専門店の灯を消してはいけいない」という気概が、日本のファッション産業を下支えすることも、決して忘れてはならない。