HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

すべては模倣から始まるのだが。

2015-08-19 06:49:54 | Weblog
 このテーマは業界人として、論じなければならないだろう。渦中のアートディレクター、佐野研二郎氏と本人に湧いたパクリ疑惑である。

 でも、このコラムはファッションについて評論している。だから、パクリについてはファッションとグラフィックとの異なる部分から触れよう。そして、グラフィックデザイン業界の構造にも切り込んでみたい。

 まず、ファッションデザインについて。こちらはロゴマークやキャラクターといったアイキャッチャー的なものと違い、糸、生地、染めや色、シルエットやディテール、加工といった条件の組み合わせで生まれている。

 生地や染めには「意匠権」があるものもあるが、それは材料としてそのまま使用され、服が量産されて市場に出まわる。生地が同じなら似たような服になるが、コピーしたという認識にはならない。当然だ。

 「流行は繰り返す」の言葉通り、モードには周期があり、数年後、数十年後にはまた同じデザインが登場する。それは首があり、胴体があり、腕も脚も2本という人間の骨格が変わらないのだから、身に纏う服の構造変化に限りがある以上、しかたないことだ。

 だから、欧米のコレクションで発表されるアイテムやディテールの中から、売れ筋を探りコピーして量産し、ヒットアイテムにしようと仕掛けていくのは枚挙に暇がない。

 つまり、デザインが繰り返され、焼き直されてトレンドとしてリボーンするのがファッションなのである。あからさまにパクリということで、グラフィックのように問題視されることは、あまり無いと言っていいだろう。

 ただ、例外もある。ファッションデザインを文化、歴史、遺産ととらえ、侵害されることを嫌うフランスのケースだ。意匠権を侵害し、コピー商品を販売した場合、法的には「死刑」になることもあるという話を聞いたことがある。

 代表的なものは、「シャネル・ジャケット」、また共地のスカートやパンツを揃えたシャネル・スーツだろう。

 シャネル・ジャケットはデザイナーのシャネルが「考案」したもので、「シャネル・ツイード」と呼ばれるミックス調のファンシーツィードを使った襟無しで短めの上着。ヘム全体をリボンやブレードで飾ったデザインが特徴だ。

 マンションアパレル時代、取引先の専門店では「似た感じのアイテムはあっても、シャネルブランドでなければ呼称しない。似たものはシャネル風スーツと呼ぶ」と。それだけ社員教育を徹底しているという感じだった。

 つまり、シャネルがデザインしたものでないと、シャネルジャケットとは呼ばないのが業界の不文律だったのである。

 ただ、10年ほど前、エレガンスファッションが流行した時には、ヘムをカットオフにしたデザインの“シャネル風”ジャケットが登場した。でも、このときはシャネルもシャネル風も、ネーミングにはなかったと思う。

 まあ、シャネルブランドに価値を見いだすのは、ある程度年齢がいった層だから、ヤング向けにパクっても、わざわざシャネルを強調する意味は無さそうだ。

 パクリの本家、中国でさえ、シャネルならバッグやアクセサリー、サングラスの方がはるかに売れるので、パクるならそちらの方が効率がいいだろう。それでも、本国ではファッション文化を守るために、コピーは由々しき問題だということである。

 もっとも、ファッションの場合は糸があり、染めあがって色が生まれ、それを織り上げて生地になる。ディテールや加工を真似すれば似たようなデザインは生まれるが、もとの生地が違えば質感や風合いは異なる。

 そっくりそのままコピーするには糸から真似しなければならないわけで、いくら中国と言えど、コストと手間を考えると割に合わない。

 結果、「猿のキャラクター」や「ブランドロゴ」をそのままパクってプリントしたTシャツやバッグといったカジュアルアイテムが出回るという構図だ。

 一方、グラフィックデザインはどうか。今でこそ、PCを使ってデジタルデザインするのが一般的だが、かつてはデザイン作業は紙と鉛筆と定規、それにロットリング、ポスターカラーなどを使っていた。

 筆者もマンションアパレル時代には、ブランドロゴのデザインを何度かしたことがある。この時は欧文書体を集めた「モンセン」という「清刷り」(印刷物につかう元本)を使うこともあった。

 この中からブランドイメージにあった書体を選んでコピーする。紙の裏側にスプレーボンドで糊をつけ、カッターマットに貼って、 これから大文字、小文字の書体をカッターで切りとって、スペルに合わせて組み合わせると、出来上がる。

 字間の調整など細かなテクニックもいるが、あとは作る人間のセンスだ。これもブランドデザイン、ディレクションの一環として行い、この程度なら、パクリという認識は全くなかった。

 それにヘルベチカやフーツラ、ローマンといったありふれた書体なら、写植屋さんにQ数、字間を指定すればそのまま「清刷りもどき」ができ上がった。後は織りネームやタグ、キャリーバッグの業者に渡して指示すれば、済んだのである。

 だが、グラフィックの領域まで入っていくと、当時はロゴマークにしてもキャラクターにしても、パクるにはある程度の技術と道具を使いこなす技能が不可欠だった。

 ところが、デジタルが普及すると、写植はデジタルフォントに変わり、定規やロットリング、ポスターカラーはソフトのツールに置き換わった。元画像をスキャニングすれば、トレースしなくても、模倣する下絵は整う。

 PCとソフトさえあれば、デザインの巧拙はあれど、専門学校卒程度の技能で、誰もがグラフィックデザインに携われる。色も印刷物はCMYKの掛け合わせだから、何でも再現できる。元画像の色調をそっくり真似するのは、いとも簡単になったのである。

 筆者がプレスプロモーションの仕事を始めた頃は、デザイン資料である東京アートディレクターズクラブ年鑑やデザインアワード集は1冊1万円以上だった。毎月刊行されていたアドフラッシュになると、年間契約で5万円以上もしていた。

 模倣に必要な資料収集だけでも、相当のコストがかかったのである。それが今はどうだろう。グーグルの画像検索をすれば、デザイン画像はいくらでも出てくる。

 それらはスナップ写真の域を出ないが、Pinterestを検索すれば、ご丁寧に「Art」「Design」「Video」とジャンル分けで、ふんだんにデザインソースが蓄積されている。

 イメージ写真、タイプフェイスやディテール処理、レイアウトパターン、カラリングなど旬のデザインモチーフが豊富に揃っている。しかも、どう使おうと、料金は一切かからない。

 ファッションの場合、イラストレーションやスタイル画は、あくまでアパレル内部のもので、営業までつなげるには現物の「サンプル」を作らなければならない。そこでは生地、服資材、パターンを揃えることが不可欠で、ある程度のコストはかかってしまう。

 ところが、グラフィックはネットを駆使し、PCとデザインソフトさえあれば、ロゴマークはもちろん、レイアウトパターンが決まったフライヤーやポスターまで、ローコストでできてしまう。

 クライアントには、ファッションのようにサンプルではなく、完成予想図の「カンプ」データでプレゼンテーション、営業ができるのだから、楽といえば楽だ。

 ファッションデザインでも模倣は少なくない。だから、グラフィックデザインだけを糾弾することは控えたい。しかし、今のグラフィック環境、作業の楽さ加減がデザイナーに模倣を超えて、パクリに走らせている点は否めないだろう。

 一方、佐野氏はサントリーのパクリ疑惑について、「スタッフのデザイナーがやったこと」と釈明した。こうした発言の背景には、グラフィック環境というよりも、昔から根強く残るプロダクション構造、バーチカルなビジネスシステムがある。

 それは佐野氏がこれまで歩んでいた業界人生と、関連は少なくない。

 佐野氏は自らの肩書きを「アートディレクター」と名乗っている。デザインを行うのになぜ、「グラフィックデザイナー」ではないのか。ここにグラフィックデザイン業界のビジネス構造を垣間みることができるのだ。

 一般に大企業のVI(ビジュアルアイデンティティ)、CI(コーポレートアイデンティティ)やオリンピックのような一大イベントのロゴマークデザインの仕事は、「広告代理店」が一手に請け負うケースが多い。

 その後に発生するCMや印刷物、パブリシティ、フォトセッションなど、いろんな制作物と媒体管理を考えると、メディア支配が専売特許の代理店に任せた方が好都合だからだ。発注者側としても、分離発注する手間が省ける。

 大手の代理店には「クリエイティブ部」というセクションがあり、そこがこうした制作物の企画から制作までを手がけることになっている。

 ただ、ここではアイデア出しからデザイン構想、コンセプトづくりまでは担当するが、実際の「制作作業」や「フィニッシュワーク」は、下請けの「デザイン会社」に任せるケースが一般的だ。

 佐野氏も出身は代理店の「博報堂」である。そこでの仕事はアイデアからデザイン構想、平たく言えば、鉛筆でロゴマークのスケッチ(サムネイルやラフデザイン)を行う程度が大半だったはずだ。

 それを正式にデザイン化して、清刷りや元本まで作るのは、下請けのデザイン会社の「グラフィックデザイナー」である。そこにいる黒子のデザイナーが最終的なデザインを担当するのだ。

 だから、業界ではアイデアを出す人間をアートディレクター、実際にフィニッシュワークに携わる人間をグラフィックデザイナーと区別している場合が多い。必然的に代理店のデザイン担当者は、アートディレクターとなる。

 とすれば、佐野氏が2020年東京五輪のエンブレムをデザイン?したと言っても、それは鉛筆書きのサムネイルやラフスケッチだったのか、フィニッシュして清刷りまで作ったのかという程度問題が重要になってくるわけだ。

 現在、佐野氏は独立し、自分のデザイン事務所を持っている。でも、サントリーのパクリ疑惑で「スタッフのデザイナーがやったこと」と釈明した以上、仕事内容は博報堂時代と大して変わっていないとも解釈できる。

 じゃあ、東京五輪のエンブレムでは、自らどこまでデザインに携わったのかと、突っ込まれてもしかたない。本人はあくまでデザインしたと言い張っているが、それがラフなのか、フィニッシュなのかで、「デザインした」の解釈も分かれるだろう。

 佐野氏が言う「スタッフがやったこと」を額面通りに解釈すれば、通常のクリエイティブワークでは、「フィニッシュまで管理していない」ことになるわけだから、デザインに対する責任がどうしても曖昧になっていると言わざるを得ない。

 またスタッフのグラフィックデザイナーをスケープゴートにしようとすることも、こうしたビジネス構造や事務所のメンツを考えると当然だろう。そこにどうしても開き直りとも言える、釈明の余地を与えてしまうわけだ。

 今回の一件では、もしかしたら佐野氏の事務所スタッフには箝口令が敷かれているかもしれない。また、担当デザイナーには「肩たたき」を匂わせ、すでに引導を渡していることも考えられる。

 そうでなくても、今回のパクリ疑惑で佐野氏は図らずも博報堂時代の仕事のツケを露呈した。それは元請けの下に下請けがぶら下がるというバーチカルなプロダクションシステムゆえに生まれたのは否めない。

 こうしたグラフィックデザイン業界の仕組みは、これからも変わることはないだろう。しかし、今はネット時代である。自分の模倣デザインがあまりに露骨で、衆人環視されないと思っていたとすれば、佐野氏は大たわけとしか言いようがない。

 これではクリエイティビティどころか、想像力の欠片もないということだ。博報堂出身という名声だけで、仕事に参画できる。企業側がそんな人間の作品をプレゼンで、いとも簡単に受け入れている等々。双方が抱える問題は尽きない。

 東京オリンピックのエンブレム問題を含め、グラフィックデザイン業界側だけでなく、宣伝、広報、マーケティングといった部署の人間が甚だ情報音痴だということも、白日のもとに晒した。ネット時代なのに何とも皮肉な話というべきだ。

 ファッションも、グラフィックもデザイナーなら、誰しもオリジナルで勝負したいと考える。クリエーターとしての血が滾る一方、ストイックさが創造性を生み出すという「過信」「うぬぼれ」みたいなものがあるからだ。

 しかし、ひと度ビジネスの世界に入ると、スケジュールやら量産やら売上げやら、どうしても効率やスピードを追わなければならない。しかも、デザインの環境はパクリ促進をするように整備され、自制心を奪う「悪魔」がいくらでも潜んでいる。

 ファッション業界も模倣は当たり前だが、流行のサイクルが免罪符になっている。中国のパクリまで行けば言語道断だが、東コレをはじめ、有名セレクトショップのODMでも、模倣デザインは少なくない。

 あから様なコピーが叩かれないというもの、何かおかしい気がする。

 そう言えば、一時期言われていた「個性」という言葉も、最近ではほとんど聞かなくなった。企画デザイン側が「他と同じデザインはしたくない」というのは、ファッションビジネスの否定につながるからだろうか。

 お盆休みにそんなことをあれこれ考えたが、自分もデザインに携わっているだけに、何とも結論は出せそうにない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする