■御知らせ■
軍艦松島・奉慰顕彰祭
時:4月30日 祭事:14時から 直会:祭事終了後
場所:摩文仁霊域 台湾之塔敷地内
*服装は礼服にこだわりなく、祭礼に適したものであれば可とさせて頂きます。
主催:一般社団法人日本台湾平和基金会
4月30日(月)は、軍艦松島が爆発事故で沈んでから110周年になります。
日本が敗戦し台湾を去って以来、台湾人による供養が年に4回も行われていますが、現地の島民は夜になると日本兵(日本語で号令)が数百人で訓練する様子を見るとの事です。
今年の9月24日に現地の馬公港にて表題の奉慰顕彰祭が神道・仏教・道教によって行われます。澎湖島知事の参列も決まっており、現時点で日本から70名余りが参加することになっております。大山禰宜からは、順序として110周年とる日(4月30日)に日本で奉慰顕彰祭を行うべきとの提案があり、今回台湾と最も縁のある摩文仁の台湾之塔の敷地内に於いて祭礼を執り行うこととなりました。
ご多忙の中とは思いますが、殉国の御霊を慰霊顕彰することにより昇天頂けるよう皆様の参列をお願い申し上げます。
軍艦松島は、日清戦争(1894年)及び日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦であり、初代連合艦隊旗艦(司令官の艦)で、黄海海戦では先頭艦で戦死者を一番多く出しました。(勇敢なる水平の歌が有名)
明治41年(1908年)4月30日 海軍兵学校を第35期で卒業した少尉候補生を乗せた遠洋航海の途中、練習航海中に台湾澎湖諸島・馬公港で火薬庫爆発のため沈没。殉職者は乗組員370名中207名にのぼった。艦長は、矢代由徳 大佐(殉職)。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある
4月21日付世界日報に掲載の上原正稔著「歪められた沖縄戦史」第三回の引用です。
米兵が記した惨劇、阿波連で100人以上が自決
上原 正稔 (3)
グレン・シアレス伍長は、手記でこう綴(つづ)る。
<1945年4月27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。(中略)
山を下りて「阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした(阿波連のウフガー上流)。川は干上がり、幅10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて100人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦(ごうかん)され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。
年配の男たちがちっちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にした大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。
狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるので、こちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。
医療班が駆け付け、全力を尽くして生き残った者を手当てしたが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。>
この集団自決については一切表に出たことがなかった。だが、海上挺進第3戦隊陣中日誌は記す。
<3月29日―悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したる者約200名(阿波連においても百数十名自決、後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部(けいぶ)を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽くし得ない情景であった。>
シアレス伍長の手記を見事に裏付けている。第3戦隊陣中日誌は後、詳しく紹介することにしよう。
☆
【おまけ】
再論・集団自決
アリバイ作りの県議団調査 結論は決まっていた!2007-11-06
■順序が後先の県議調査団■
2007年、沖縄県議会は教科書の記述をを変えるような重要案件を決議をした。
ならば、議決の前に調査・検証をして、その後に議決を計るのが順序だろう。
だが、「11万人」集会に至る端緒となった県議会の「教科書検定意見書撤回決議」の採択には、奇妙な「アリバイ工作」が有った事を知る人は少ない。
事は歴史教科書の記述に関わる重要案件だ。
歴史の素人である県会議員が安易に多数決で決める問題ではない。
だが、県議会は検証をする前に決議採択をしてしまった。
そして、その後アリバイ作りの為の現地聞き取り調査をしたのである。
結局、このマスコミ向けの「現地調査」が、狂乱騒動の発端となった。
「県議会採決」と議員団による現地聞き取り調査の順序が後先になった事実。
この後先実施の不自然さを報道するマスコミは一つもない。
議決採択の後の現地調査では「後の祭り」ではないのか。
当日記はこの県議文教厚生委員の聞き取り調査が、
デタラメナなアリバイ工作だった事を再三指摘してきた。
調査なんて今更どうでも良かったのだ。
だがマスコミの大々的報道で、デタラメな調査も信憑性を帯びてくるから、メディアの印象操作は恐ろしい。
県議団の調査となると、天下の文科大臣も態度が揺れ動かされるものらしい。
渡海紀三朗文部科学相(当時)は「検定後に新たな事実や証言が出ている。新事実が少し増えた状況で、どのように考えていくかだ」と語り、
教科書記述に「強制」の文言を復活させることもあり得るとの考えを示した。
渡海文科相が再修正の根拠として指摘した「新事実」というのは、
沖縄県議会議員団が行った、デタラメな聞き取り調査を実施した際の証言のことだろう。
そこで、座間味村の上洲幸子さん(84)が、旧日本軍隊長による直接命令があったと証言した。
ところが、上洲証言を報道した沖縄タイムスは、二度、「隊長」ではなかったとの訂正記事を掲載している。
だが、これが誤報だったことを伝える新聞はタイムス以外に一つも無かった
ちなみにこの沖縄タイムスの捏造記事はそのまま朝日新聞の社説に引用され全国を一人歩きし始める。(朝日の“捏造記事”タライ回し 沖縄タイムスが“捏造写真” )
県議会文厚委 検定撤回へ現地調査 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。 (7/6 16:05)全文 >>> |
「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村
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上記写真で調査団を先頭で案内している当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に封殺されている。
一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。
■デタラメだった聞き取り調査■
島の人によると、聞き取り調査は実に酷いものだった。
金城さんが「軍の命令は無かった」と証言すると、
議員団のK女史(社民党)は、金城さんの発言を封じるように次のように決め付けたという。
「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」
当時15歳で生き残ってきた証言者に対して、このような「決め付け」発言がこの調査団の左翼的性格を物語っている。
体験者の証言を封じるなら何のための聞き取り調査だったのか。
そう、議会決議に合致する証言だけを聞けばよかったのだ。
「不都合な証言」を聞く耳など最初から持ち合わせてはいなかった。
社会科の教師をしていたら証言を聞かなくとも全てをお見通しだとは驚きだ。
ちなみにこの元教師の社民党議員、集団自決の行われた1945年には4歳で渡嘉敷には居なかったはず。 当時15歳で渡嘉敷に居た金城さんより記憶が確かだとでもいうのだろうか。 社会科教師はそんなに偉いのであろうか。
又調査団の団長で、後に「県民大会実行委員長」となる仲里県議会議長は、調査現場で驚くべき発言をしている。
あの「毒おにぎり」証言の仲里議長である。
「みんなで既に決めたこと(採択したこと)だから、早く話をまとめましょう」
もう既に決まった結論のアリバイ造りの調査だったことが、この議長の一言で、語るに落ちてしまっている。
この調査団の左翼偏向的性格は今更説明を要しないが、この一連の県議団の動きがマスコミのセンセーショナルな報道と相まって、その後県民を狂乱の渦に巻き込んでいく。
沖縄タイムスは恥知らずにも、
「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。
そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、
重要証人の証言などどうでも良かったのだ。
沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。
デタラメな調査で「県民の総意」を捏造される県民もたまったものではない。
■平和学習の語り部が証言者■
沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】
証言者・吉川嘉勝氏(68)は調査団に対し、
「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」
と語った。
吉川氏は最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm
このように沖教組関連の「平和教育」でどっぷりツカッタ文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。
ちなみにこの吉川氏、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。
そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。
いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。
参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 (7/5 )
この吉川氏が証言するのは今回が始めてではない。今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。
だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも、吉川氏は一言も「軍の命令」とは証言していない。
http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB
200706230011html
62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分
沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。
62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。
那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。
「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。
吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。
母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。
母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。
その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。
富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。
沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。
子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 )
◇
これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)
■【動画と“新聞証言”の違い】
いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)
琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。
【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o
連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。
確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。
だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。
最近では「命令の有無ではなく、強制性が問題だ」なんて言い変えだしているようが・・・。
そのうち「強制性の有無ではなく、軍隊がいたことが問題だ」なんて言い出すと思う。
まともな研究者、そして良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている。