「屈辱はいまも積み重ねられている」。米軍施政下で青春時代を過ごし、復帰運動の中心を担った沖縄県青年団協議会(沖青協)のOB、仲本安一さん(82)=那覇市、東武さん(71)=うるま市=はそう語る。サンフランシスコ条約発効で沖縄が日本から切り離された1952年4月28日から66年。さまざまな「屈辱」に直面しながら本土復帰に向けて奔走した2人にとっての「4・28」を聞いた。(社会部・松田麗香)
52年当時、うるま市平敷屋出身の東さんは5歳。「屈辱」を実感するどころか、苦しい生活の中で物資や食料を恵んでくれる米軍に恩を感じていた。
しかし、小学5年生の時、近隣の旧石川市の宮森小周辺に米軍機が墜落。近所では女性が米兵に暴行された。県民の人権がないがしろにされる状況に違和感が芽生えた。
東さんは20歳の頃、ホワイトビーチ近くで若い米兵の車にひかれ、大けがを負った。基地内に逃げ戻った米兵は捕まらず、ベトナムに出兵後、沖縄には戻らなかった。「今でこそ52年4月28日を『屈辱の日』と呼ぶが、県民は何度も屈辱を味わい、いまも繰り返されている」と話す。
75年に沖青協会長となった東さんは76年4月28日、国頭・辺戸岬で、祖国復帰協議会の活動の象徴である「復帰闘争碑」の建立に立ち会った。4月28日が近づくと毎年のように闘争碑を訪ねる。「闘争碑は県民が味わった屈辱や、復帰に傾けた情熱を忘れさせないための象徴」と話した。
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仲本さんも52年当時は「屈辱」の意識はなく「沖縄にもいつか、本土のように平穏な時代がくる」と期待さえした。
しかし、本土に行くと出自をばかにされることもあり、県民が米軍の圧政に苦しむ現状を知られていなかった。「『4・28』で沖縄は捨て子になったんだと思い知らされた。矛盾するようだが何としても祖国に復帰したいという思いも強まった」と振り返る。
60年4月28日、沖青協の副会長だった25歳の時、復帰協の結成大会で司会として舞台に立った。「屈辱の時代は終わる。新しい歴史が始まる」と興奮した。
66年たった今も、沖縄が「捨て石」のように扱われる状況は変わらない。「復帰運動の時のように県民が日本や米軍に対し声を上げ続けることでしか、これまでの屈辱を跳ね返せない」。そう力を込めた。
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例年に比較して妙に大人しい記事に拍子抜けしたが、試しに一昨年のブログから沖タイの一面、社会面のトップを検証してみた。
今朝(2016年4月29日)の沖縄タイムスの発狂見出しの紹介。
■一面トップ
沖縄先住民見直し探る
外務副大臣 国連認定に見解
きょう 4・28県民大会
「屈辱の日」国との認識いまだ乖離
■社会面トップ
屈辱の歴史 今なお
「4・28」 3氏に聞く
沖縄の視点で学び直す時
琉球大学大学院博士後期過程 親川志奈子さん(35)
差別の構図 解消目指す
県ロック協会会長 宮永永一さん(64)
誇り失われ奄美も「痛恨」
辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会 大津幸夫共同代表(83)
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【おまけ】
本日はオスプレイの被災地支援について、一歩踏み込んで考えてみる予定だったが、見出し紹介でも承知の通り、どうやら今日は「屈辱の日」らしい。
例年、この日は発狂するのが沖縄2紙の年中行事だったことをつい失念していた。(笑)
「屈辱の日」お意味が分からない読者のために、急遽予定を変更して、「屈辱の日」にお付き合いする。
「屈辱の日」のバカバカしさは、過去に何度も書いているので、それをサルベージして紹介しておく。
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1952年4月28日わが国が独立を果たした講和発効の日、当時の沖縄タイムスと琉球新報は紙面を祖国の独立を祝う慶賀の記事で埋め尽くした。
祖国日本が独立することにより沖縄の祖国復帰の日が一歩近づいたと実感したからだ。 このときの両紙の論調はまぎれもなく沖縄の民意を反映していた。
これは米軍政府から日の丸の掲揚を認められたときの喜びと同じ種類の喜びだった。
昨今の両紙が示す「沖縄の民意は我々が作る」といった傲慢不遜な態度は微塵もない。
1昨年、安倍内閣が講和発効の日の主権回復を祝賀する式典を開くと言い出したとき、沖縄2紙が「突発性発狂」の症状を示した。
「沖縄を米軍政府統治下に置いたまま独立したの日は『屈辱の日』」というのだ。
沖縄2紙の突発性発狂に対して、当日記は複数回反論のエントリーをした。
その一部かこれだ。
4・28主権回復の日」に賛否両論 2013-04-27
昨日の沖縄タイムスは「屈辱の日」についての発狂はそれほど激しい症状を示さなかったので、スルーしようかと思った。
だが、琉球新報の発狂症状は相変わらず激しいものだったらしい。コメント欄にもその余波を感じものがあるので紹介する。
Unknownさん
「屈辱の日」とか難癖にも程があるだろ。
当時、そんな事を考えてた人が県民に本当にいたのかね(笑)
いつか、日本にってのが当時の沖縄県民の願いだったと思うんだが、沖縄マスゴミや左巻きの基地外どもときたら、数年前の造語を、さも当時の真実みたいに歴史を捏造するんだから(笑)
マジで死んでくれないかな。
凛さん
いつまでウダウダ恨み節垂れ流してるんだ、って話で、自分達が差別されてる、虐げられてるって言うなら、なおさら「負けるか、見てろよ」って相手を見返すぐらいの気概を見せて欲しいのですが、その気配すら見せず、唯々恨み節を垂れ流すだけ。前に進む気も、そもそも前を向く気すらも無い、そんな事で「未来志向」なんて夢のまた夢ですね。
沖縄2紙のダブルスタンダードは翁長知事の報道で実証済みだが、「屈辱の日」についての二枚舌を検証する意味で当時の両紙の紙面を再現してみよう。
当時の両紙の紙面はこの通りだ。
1952年4月28日・29日の沖縄タイムスと琉球新報の新聞記事である。
※画像をクリックすると拡大。
1952年4月28日の琉球新報の記事。
念のため両紙の翌29日の社説を検証しても「屈辱の日」どころか祝福の気持ちのあふれた内容である。
2016年4月28日 05:04
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効してから28日で64年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。沖縄が日本復帰するまで米施政権下にあった27年間、本土から沖縄へ基地が移転。日本国憲法が適用されず、人権が蹂躙(じゅうりん)された。過重な基地負担など現在の沖縄差別の源流ともなったこの日は「屈辱の日」と呼ばれる。
日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。
2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。
28日午後6時15分から、沖縄平和運動センターが県民集会とデモ行進を県庁前で開く。
【おまけ】61年前、沖縄がお祝いしてた件
1952年4月28日
沖縄タイムズ
2013年04月30日08:03 | カテゴリ:
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61年前、沖縄がお祝いしてた件
1952年4月28日
沖縄タイムズ
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