狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「チャンネル桜」でオオボケの弁明、「屈辱の日と天皇メッセージ」

2018-05-06 05:57:01 | 未分類

 

 

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5月4日(金)のチャンネル桜「沖縄の声」に出演した際、トンでもないオオボケをかましてしまいました。(汗)

 それがこれ。

【沖縄の声】「屈辱の日」と天皇メッセージ~沖縄近代史の3つの誤解・終戦直後の時代背景・「屈辱の日」と講和発効[H30/5/5]- 。チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」

 

               ☆

 

連休の中日の5月2日。

チャンネル桜のスタッフのN君から突然連絡が入った。

5月4日(金)の出演者がドタキャン。

番組に穴が開きそうなので、急遽特集番組を組んでくれという話だ。

連休の中日に家でゴロゴロしている人物。

暇を持て余しているヤツということで筆者に白羽の矢が立ったのだろう。

スタッフの特集番組の提案には、こんな伏線があった。

最近沖縄の怪人・上原正稔さんが世界日報に「沖縄戦史」の連載記事を書き始めた。 そこで上原さんをゲストに招き「沖縄戦の特集番組」を組みたいという提案をスタッフに伝えてあった。

もう一つは、火曜日のレギュラー番組で「屈辱の日と天皇メッセージ」について述べたが、時間の都合上軽く触れた程度に終わった。 機会を設けて特集番組を組んだら深く切り込んだ話が可能。 これもスタッフに伝えていた。

スタッフのN君として緊急のピンチヒッターとして筆者を思い浮かべたのだろう。

テーマは「沖縄戦」、「屈辱の日」のどちらでも良いとのこと。 

上原さんは最近携帯を持たなくなり連絡が付かない。それでも行き先は大方見当が付く。 

だが宜野湾市在住で車を持たない筆者が、那覇の上原さんを探し回ることは大事(おおごと)だ。 それに時間がない。

時期的には「屈辱の日」か。

屈辱の日の4月28日を終えてまだ一週間も経っていない。

結局、テーマは「屈辱の日と天皇メッセージ」ということに決めた。

早速資料集めに掛かった。

だが、「屈辱の日と天皇メッセージ」を一回の番組に凝縮するにはテーマが重過ぎる。 関連してサンフランシスコ講和条約、米軍統治下の沖縄、信託統治、信任統治、憲法発効、共産主義の脅威等など個別に取り上げても特集が組める大きなテーマだ。

結局資料を未消化のままオンエアに臨んだ。

 

【沖縄の声】「屈辱の日」と天皇メッセージ~沖縄近代史の3つの誤解・終戦直後の時代背景・「屈辱の日」と講和発効[H30/5/5]-チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」

 

そして、とんでもないオオボケをかましてしまった。

番組はこんな調子で始まった。

≪4月28日は「屈辱の日と沖縄2紙は例年大騒ぎします。≫

そこで屈辱の日を報じる沖縄タイムスの一面を画面に提示して見せる予定だった。

だが、予定はあくまで予定であり決定にあらず・・・と誰かが言ったかどうか。

そんなことはどうでもよい。

準備したはずの新聞が無い!

動揺を必死に隠してカメラスタッフに目で合図したが、そ知らぬ顔

そこでこのように続けた。

≪屈辱の日とは1952年4月28日、サンフランシスコ条約が発効し、日本が独立した日です。日本の主権が回復した日です。本来だったら日本国民はこぞってお祝いする日のはずです。≫

 

そして冒頭からこんな問題提起をした。

ここで、最初に沖縄の戦後史における、大きな間違いを三つ上げておきます。

1)1972年の祖国復帰・沖縄返還は「戦争で奪われた領土を一滴の血も流さず返還した世界でも珍しい例」と言われている。

2)米軍統治下の沖縄は米国の信託統治であった。

3)沖縄が米軍統治になった原因の一つは、昭和天皇が「天皇メッセージ」で、命乞いのため沖縄を米国に売り渡したから。≫

はその日の放映で目玉となる映像を資料として準備していた。

昭和天皇の「第二の玉音放送」の映像だ。

 

【公開】食糧問題に関するお言葉 原盤音声 2015年8月1日

 https://www.youtube.com/watch?v=CJuHnTvheqs

 

玉音放送といえば誰でも思い浮かぶのが、昭和20年8月15日の終戦の詔勅だろう。

ところが、終戦翌年の昭和21年、深刻な食糧危機に瀕した国民に向けて昭和天皇は第二の玉音放送をしていたのだ。

誰にも知られぬ第二の玉音放送を効果的に使うため、終戦直後の1946年、1947年の時代背景の説明に時間を取られ過ぎた。

上記三つの間違いは①③は次のように軽く流した。

≪1)ですが、確かに戦争のため沖縄は本土と分断され米軍統治という特殊な政治形態になりましたが、アメリカの領土になったわけでは有りません。 これは、3)の天皇メッセージと関連しますが、沖縄は戦前戦後終始一貫日本であり、沖縄県民は日本人だったのです。これは後で説明します。

2)沖縄は潜在主権という特殊形態でしたたが、主権は日本が有していました。≫

 

最後の③でマッカーサー回顧録からの挿話を述べ、最後に歌舞伎役者が大見得を切るつもりで、こう述べた。

≪天皇が命乞いなどするはず有りません。 マッカーサー回顧録やその他の資料によると、天皇はマッカーサーに「私はどんな処分を受けてもかまわないが、戦争犯罪人とされる重臣達をを穏便に取り計らって欲しい」(概略)とむしろ戦犯の命乞いをしているくらいです。昭和天皇が命乞いするはずは無いという決定的証明をしてみせます。

天皇メッセージの日付けが重要です。 1947年9月20日です。 その4ヶ月前には日本国憲法が発効し、その約半年前には発布されています。 

天皇メッセージの日付に注目し、昭和天皇がマッカーサーに命乞いするはずは無い、という決定的証明をしてみます。 

だがこの証明は最後のお楽しみ。>

ところが、その間筆者の学生時代のパスポートの紹介などで時間を取られ、結局時間切れ。

肝心な「決定的証拠」をすっかり忘れてしまった。

               ☆

■以下は、4日の「特別番組」で説明しなかった「決定的証拠」である。

 天皇メッセージの日付けは1947年9月20日。 その4ヶ月前の1947年5月3日に憲法は発効している。 

マッカーサーが作ったといわれる日本国憲法には天皇は国民の象徴と謡われている。

既に憲法にその存在を記された昭和天皇が命乞いなどする必要は無かった。

従がって命乞いの為わざわざ沖縄をアメリカに売り渡すはずはない。

では何故昭和天皇は天皇メッセージで沖縄を、米軍統治に委ねたのか。

理由は二つ考えられる。

一つは終戦直後の深刻な食糧事情。

そして天皇メッセージにも記されている共産党への脅威、ソ連への抑止力である。

1946年3月5日、チャーチルの「鉄のカーテン」の演説した。

終戦直後の共産主義の脅威はものすごく、ソ連崩壊でベルリンの壁崩れたが朝鮮の分断は現在も進行形だ。

先ず昭和天皇が一番心を傷めたのが、1946年の戦後日本を直撃した前代未聞の食糧不足。

その年(1946年)から昭和天皇は全国行幸を開始する。

「民のかまど」の仁徳天皇の神話を髣髴させるのが「第2の玉音放送」だ。

46年5月には食糧メーデーが起き、約25万人が皇居に押しかけた。 3月には「食べ物の恨み」が原因の歌舞伎役者・片岡仁左衛門一家惨殺事件が起きており、翌年には違法な闇米を拒否した山口裁判官が餓死する事件が発生して食糧難の深刻さを表している。

そんな時代背景で発せられた俗に「天皇の沖縄メッセージ」と呼ばれる「メモ」の原文は沖縄公文書館のホームページに掲げられ、以下のように丁寧な解説が付されている。

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