首都直下型地震の事が頻繁に話題になってます。
首都直下型地震を広義に解釈して、関東大震災や房総半島南方沖などを指すケースもあるようですが、筆者は「首都直下型地震」と「首都圏直下型地震」は分けていて、首都圏直下型地震は元禄大地震や関東大震災のように相模トラフ周辺のプレート境界型で比較的浅い震源の地震を言い、首都直下型地震は安政江戸地震や明治東京地震のように、本当に東京の直下か或いは隣接する周辺の地下で起きるもの、と見ています。
理由は次の引用から判断できるからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
安政江戸地震
地震の概要
近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレートによるプレート境界地震、フィリピン海プレート内部のスラブ内地震、北米プレートに沈み込む太平洋プレートによるプレート境界地震などと推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。
震源の深さ・位置についても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの[6]、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震[7]、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度[8]、などである。
中村亮一(2007)らの研究では、東京湾北部の市川市付近で深さ70kmのフィリピン海プレートに関係するものだとされた[9]。
引用終了
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
1853年3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震) - M 6.7±0.1、死者約20~100人。
1854年
7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M 7 1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海・東南海地震) - M 8.4、死者2,000~3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4、死者1,000~3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。
安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)。
12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M 7.3~7.5。12月24日の地震の約40時間後に発生、スラブ内地震とされている。
1855年
3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M 6 3⁄4±1⁄4又はM 6.9[91]、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。
9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4。
11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M 7.0~7.5、安政東海地震の余震。津波有り。
11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震(安政の大地震) - M 7.0~7.1、死者4,700~1万1,000人。
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M 7.5~8.0(Mw 8.3)、三陸および北海道に津波。死者29人。三陸沖北部の固有地震[76]。
引用終了
このように、震源を深いと見る研究者もいる事、東京か隣接地域の直下である事、南海トラフ地震や東海、東南海トラフのプレート型大地震の発生後に起きたからです。
もう一つ、三陸沖などのプレート境界型大地震の数年後で南海トラフ地震が起きるとは限らないわけでもあります。
ただ安政の大地震多発の例では、安政東海地震の前に、より東で小田原地震と言う「相模トラフ周辺の延長上」でも地震があるにはありました。
次は東日本大震災の隣接南側か北側と言う近い順番のパターンで来るか、それとも安政パターンで来るのかはまだわかりません。
首都直下型地震を広義に解釈して、関東大震災や房総半島南方沖などを指すケースもあるようですが、筆者は「首都直下型地震」と「首都圏直下型地震」は分けていて、首都圏直下型地震は元禄大地震や関東大震災のように相模トラフ周辺のプレート境界型で比較的浅い震源の地震を言い、首都直下型地震は安政江戸地震や明治東京地震のように、本当に東京の直下か或いは隣接する周辺の地下で起きるもの、と見ています。
理由は次の引用から判断できるからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
安政江戸地震
地震の概要
近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレートによるプレート境界地震、フィリピン海プレート内部のスラブ内地震、北米プレートに沈み込む太平洋プレートによるプレート境界地震などと推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部と考えられている。
震源の深さ・位置についても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの[6]、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震[7]、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度[8]、などである。
中村亮一(2007)らの研究では、東京湾北部の市川市付近で深さ70kmのフィリピン海プレートに関係するものだとされた[9]。
引用終了
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
1853年3月11日(嘉永6年2月2日) 小田原地震(嘉永小田原地震) - M 6.7±0.1、死者約20~100人。
1854年
7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M 7 1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海・東南海地震) - M 8.4、死者2,000~3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4、死者1,000~3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。
安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)。
12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M 7.3~7.5。12月24日の地震の約40時間後に発生、スラブ内地震とされている。
1855年
3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M 6 3⁄4±1⁄4又はM 6.9[91]、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。
9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4。
11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M 7.0~7.5、安政東海地震の余震。津波有り。
11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震(安政の大地震) - M 7.0~7.1、死者4,700~1万1,000人。
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M 7.5~8.0(Mw 8.3)、三陸および北海道に津波。死者29人。三陸沖北部の固有地震[76]。
引用終了
このように、震源を深いと見る研究者もいる事、東京か隣接地域の直下である事、南海トラフ地震や東海、東南海トラフのプレート型大地震の発生後に起きたからです。
もう一つ、三陸沖などのプレート境界型大地震の数年後で南海トラフ地震が起きるとは限らないわけでもあります。
ただ安政の大地震多発の例では、安政東海地震の前に、より東で小田原地震と言う「相模トラフ周辺の延長上」でも地震があるにはありました。
次は東日本大震災の隣接南側か北側と言う近い順番のパターンで来るか、それとも安政パターンで来るのかはまだわかりません。