爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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償いの書(14)

2011年01月02日 | 償いの書
償いの書(14)

 土曜日に帰省して、日曜に結婚式があり、あと2日は有給をつかって休暇を楽しんだ。それも終わってしまい、いつもどおり出勤した。朝のコンビニエンス・ストアでは裕紀に会う。もう、ぼくらは他人ではないのだという満足感がその日にはあった。

 だが、社内で業務をして、合間にコーヒーを飲みながら思い浮かべるのは、雪代の膨らんでいたお腹のことだった。自分の思考すら自分で制御できない悲しみを知った。ぼくは、裕紀のことだけを考え続けるべきなのだ。そう思っても、自分ではどうにもならなかった。

 ぼくは、空想のなかでは16歳でいる。目の前に表れたひとりの女性に対して、どうしようもない衝動があった。自分に見合う存在でもないと思っていた。その頃の3歳というのは、大きな年の離れがあるものだ。彼女はその姿のまま、ぼくのこころのなかで留まっている。その後、さまざまな服装を身につけた様子や表情が更新され、彼女のたくさんの面を知ったが、その最初のシーンも消えないまま、ぼくの脳には居つづけた。その女性のお腹には新たな命が宿っていた。そのことを、ぼくはうまく変換できずにいた。最初に見たものを親と勘違いしてしまう動物のように、ぼくもその最初の印象を捨て切れないのであった。

 だが、それにも徐々に馴れるのだろうと思ったが、今度、もし会えるのならばもう彼女はその状態ではないはずだ。小さな子を抱き、もしくは手を引き、またはスポーツをするその子に歓声を浴びせているのかもしれない。ぼくの脳は、その瞬間には裕紀のことを排除し、むかしの女性を思い続けていた。

 その考えも外回りのため、外出したときには忘れることができた。ぼくには、会うべきお客さんがいて、語るべきプランもあった。そのことを煮詰めながら歩いている。裕紀が働いている会社が入っているビルの横を通った。ぼくは、彼女に対して正直であろうとずっと考え続けていたことを思い出している。2度も同じ女性を裏切ることは真っ当な人間としてできないはずだ。ぼくは、通り過ぎながら自分の思いに刻み付けている。

 そばには、ウインドウのなかに新婦用のドレスが飾られている。ぼくは、妹のことを思い出した。同時に山下のことも考えている。彼が、最初にラグビー部に表れたときの、まだ若かった顔や考え方を、大事なものが入っている象徴的な引き出しから取り出している。

 また、何人かのドレスを着た女性のことも思い出す。智美のしおらしい姿や、友人だった松田の奥さんの写真を見たときの印象もぼくには残っていた。何人かの友人や先輩たちの妻の格好も頭のなかには保存されていて、自分自身に驚いている。ただ、ショー・ウインドウを見ただけなのに、さまざまなことが連鎖された。

 そして、裕紀もこの窓を見ているのだろうかということを考えている。さらに、彼女がそれらのうちのひとつを着たら、どんなにきれいで清楚に見られることだろうと、ぼくはこころのなかで新たなものが芽生え始めていることを発見する。そのときには、ぼくのなかには雪代はもういなかった。いなかったとしても、永久に消えるはずのものでもなかったが。
 仕事が終わって、同僚の女性たちと食事に行った。

「あさ、近藤さんはきれいな女性と毎日、立ち話をしてるってうわさがありますけど、あれ、ほんとうですか?」
「本当だよ」
「彼女?」
「うん、そうだけど」
「どうやって知り合ったんですか? あさの短い時間に話しかけるだけで、うまくいくんですか? そんなに器用なひとに見えないけど」
「地元が同じで、高校時代につきあった」
「それから、ずっと?」
「いや、ぼくは別のひとと付き合ってた」
「よりが戻ったんだ?」
「まあ、陳腐にいえばその通り」
 彼女らは興味津々にたくさんのことを尋ねたけど、ぼくの軽快さのない会話のことなど忘れ、次の話題から次の話題へと話を順々にかえていった。

 ぼくは彼女らが、さっき見たドレスのうちのどれが好きなのだろうか、と考えている。その後も、何倍かビールをお替りしたが、翌日の仕事のため、早い時間に切り上げた。ぼくは、外に出て裕紀に電話をかけたが、彼女は外出しているのかそれには出なかった。ぼくは、あきらめて地下鉄にのった。

 いままでは気にしたこともなかったが、世の中には妊婦用の雑誌があることを、ぼくは吊り広告で知った。妹にも、もし子どもができたら、ぼくはどうなってほしいのだろうと考えたが、それは当然のこと寄り道に過ぎず、本当は雪代のその小さな存在の未来のことに思いを馳せている。島本さんは優しい父親になるのだろうか? と少しだけ考えているが、本気では彼のことを心配もしていなかったし、そもそも眼中にもなかったのだ。それは、なぜなのだろう。昔はライバル視をしていたのかもしれないが、ぼくと雪代の歴史のなかに彼が立ち入れもしないという自信ももっていたのかもしれない。

 家に着き、カバンを投げ出し、ソファに身を投げた。休日明けの一日は疲れるものだ。ぼくは、少しだけ、ほんの少しだけ地元で働いていたことを思い出したが、もう、ここが自分の存在があり、アピールする場所だと決めている自分もいたことを、そのときに発見するのだ。