償いの書(18)
たまには地元から本社へ、社長が来ることもあった。彼は、ビジネスホテルに泊まり、何日かこちらの仕事ぶりを見て、帰っていった。その間に、自分の息子に会い、社内でいちばん融通の利くぼくを誘い、ホテルのそばの酒場で飲んだ。こっちの支店のために採用した社員を彼は一線を置いて考えているらしい。そして、外から来た自分を情報の提供者にしたかったのかもしれない。でも、もちろん仕事のことばかりを話題にしたのではない。
「近藤にも彼女ができたって、あいつらが言ってた」と、昨日会ったばかりの息子夫妻の話をしたあとに、そのことを付け足した。「本当なのか?」
「本当です」
「むかし交際したひとと再会したとか」
「その通りです。ちょっとイメージが違うかもしれないですけど、ぼくが一方的に別れる原因をつくったもので」
「お前にも、あの河口さんの前の歴史があったとはね」
「あのひと、どうしてます」彼女の店は、ぼくらの会社がオーナーだった。
「子どもを産んで、休んでいたらしいよ」
「そうですか、ついにお母さんですか」
「それも、きれいな」
「どっちだったんですか?」
「何が?」
「男の子か、女の子か」
「女の子だったかな。詳しくは知らない。又聞きの又聞きぐらいだからな」
ぼくは、そのことを考えている。彼女が小さな女の子を抱いている姿や、手をつないで歩いている様子を想像する。ときには、叱り、ときにはなぐさめている格好なども。
「後悔してる?」
「さあ、分かりません。だけど、彼女の選択ですから。また、生まれてくる子どもの運命もありますからね」
「それで、今の子は?」
「優しい子です。雪代と比べても遜色ないぐらいきれいになっていました」
「じゃあ、オレが東京に送ったことを恨んではいない?」
「気にしてたんですか?」
「もちろんだよ、普通の感情をもってる人間だぞ」
「住んでみたら、なかなか良いところですよ」
「そうか」と言って、数杯酒をその後も飲み、社長はホテルに戻った。ぼくは、そこから電車を乗り継ぎ、家に帰った。裕紀に電話をかけ、数分だけしゃべった。それから、シャワーを浴び、明日の仕事の用意をしながら、また缶ビールを開けた。頭のなかには、雪代の表情があって、それは子どものいる姿ではなく、ふたりで海を見に行ったときの潮風に揺られている髪をはらいのけもしない表情だった。
まだ、ぼくらの関係は新鮮なもので、すべてがフレッシュで生まれたてのような状態だった。どのように未来が形成されていくのかなにも心配せず、ただ、その現状に酔っているだけで良かった。そして、思い出が増えていくぶんだけ、ぼくにそれを蘇らせようとする記憶の意思があるような気がした。それは、いまの裕紀との関係よりも、思い出のほうが強く色濃く残っていた。ただ、雪代との思い出は、今後は増えていかないので、裕紀との思い出もいずれは追い越すことになるのだろう。そのことを、ぼくはまた強く願っていた。
翌日も社長は支店に出社し、ぼくが外出する用があったので、ついでに帰りの駅まで車で送った。彼は、そういう職権を使うことを嫌うタイプだったが、ぼくは、引き下がらなかった。
「最短で安全な方法を使うべきなんだよ。この場合は、地下鉄で東京まで」と彼はなおも言っていた。
「でも、そのそばまで行く用が、ぼくにもあるんですから」
実際に、この日は電車に乗るより早く着いたかもしれなかった。
ぼくは、シートから降りて、後部座席の社長の荷物を引っ張り出して、彼に渡した。そして、そこに立ったまま駅の構内に消える社長を見送った。そこから、お客のいる場所まで行き、近くの駐車場に車を停めた。
それから、ひとりで遅い昼食をとるために店に入った。店内には雪代が好きだった曲が流れていた。ぼくは、裕紀のことを愛し続ける決意でいたが、その思いはただ音楽が流れてきただけで、別の思いに変わるぐらい軟弱らしい。そして、小さなベッドに寝ている子どもを上から眺めている雪代のことを想像している自分がいた。その子の名前は、いったいどういう名前なのか? それが分からないとその存在をそれ以上に具体化させることは難しかった。
こうして、地元の人間に会うと、すべてが雪代につながってしまう危険を感じた。ぼくは、それを恐れており、懐かしんでもいた。
その日は、裕紀に会う予定があった。職場に戻る前にガソリンを入れ、レシートを貰った。女性の店員がきびきびと働いており、ぼくはその姿を目で追った。
「社長さん、来ていたんでしょう。上田さんのお父さん」と裕紀は言った。
「来てたよ。見ないとちょっと老けたかなという印象をもった。まあ、いつものようにエネルギッシュなのは間違いないけど。オレの父親もそうなのかな」と言って、裕紀の父がいないことを思い出した。「ごめんね」
「何が? ああ。気にしてないよ。そうだよね、生きていれば、そういうことも経験するんだよね」
そして、ぼくは彼女に家族の大切さを思い出してほしいと考えている。自分がいて、裕紀がいて、雪代と同じように子どもが生まれてと。
「叱られたりしなかった?」と裕紀は尋ねる。
「誰に? 社長に? いや、全然されなかった。帰りに駅まで送ったときに、なんだか感傷的になったぐらいだよ」と、その様子を説明して、またほかの話題に移った。
たまには地元から本社へ、社長が来ることもあった。彼は、ビジネスホテルに泊まり、何日かこちらの仕事ぶりを見て、帰っていった。その間に、自分の息子に会い、社内でいちばん融通の利くぼくを誘い、ホテルのそばの酒場で飲んだ。こっちの支店のために採用した社員を彼は一線を置いて考えているらしい。そして、外から来た自分を情報の提供者にしたかったのかもしれない。でも、もちろん仕事のことばかりを話題にしたのではない。
「近藤にも彼女ができたって、あいつらが言ってた」と、昨日会ったばかりの息子夫妻の話をしたあとに、そのことを付け足した。「本当なのか?」
「本当です」
「むかし交際したひとと再会したとか」
「その通りです。ちょっとイメージが違うかもしれないですけど、ぼくが一方的に別れる原因をつくったもので」
「お前にも、あの河口さんの前の歴史があったとはね」
「あのひと、どうしてます」彼女の店は、ぼくらの会社がオーナーだった。
「子どもを産んで、休んでいたらしいよ」
「そうですか、ついにお母さんですか」
「それも、きれいな」
「どっちだったんですか?」
「何が?」
「男の子か、女の子か」
「女の子だったかな。詳しくは知らない。又聞きの又聞きぐらいだからな」
ぼくは、そのことを考えている。彼女が小さな女の子を抱いている姿や、手をつないで歩いている様子を想像する。ときには、叱り、ときにはなぐさめている格好なども。
「後悔してる?」
「さあ、分かりません。だけど、彼女の選択ですから。また、生まれてくる子どもの運命もありますからね」
「それで、今の子は?」
「優しい子です。雪代と比べても遜色ないぐらいきれいになっていました」
「じゃあ、オレが東京に送ったことを恨んではいない?」
「気にしてたんですか?」
「もちろんだよ、普通の感情をもってる人間だぞ」
「住んでみたら、なかなか良いところですよ」
「そうか」と言って、数杯酒をその後も飲み、社長はホテルに戻った。ぼくは、そこから電車を乗り継ぎ、家に帰った。裕紀に電話をかけ、数分だけしゃべった。それから、シャワーを浴び、明日の仕事の用意をしながら、また缶ビールを開けた。頭のなかには、雪代の表情があって、それは子どものいる姿ではなく、ふたりで海を見に行ったときの潮風に揺られている髪をはらいのけもしない表情だった。
まだ、ぼくらの関係は新鮮なもので、すべてがフレッシュで生まれたてのような状態だった。どのように未来が形成されていくのかなにも心配せず、ただ、その現状に酔っているだけで良かった。そして、思い出が増えていくぶんだけ、ぼくにそれを蘇らせようとする記憶の意思があるような気がした。それは、いまの裕紀との関係よりも、思い出のほうが強く色濃く残っていた。ただ、雪代との思い出は、今後は増えていかないので、裕紀との思い出もいずれは追い越すことになるのだろう。そのことを、ぼくはまた強く願っていた。
翌日も社長は支店に出社し、ぼくが外出する用があったので、ついでに帰りの駅まで車で送った。彼は、そういう職権を使うことを嫌うタイプだったが、ぼくは、引き下がらなかった。
「最短で安全な方法を使うべきなんだよ。この場合は、地下鉄で東京まで」と彼はなおも言っていた。
「でも、そのそばまで行く用が、ぼくにもあるんですから」
実際に、この日は電車に乗るより早く着いたかもしれなかった。
ぼくは、シートから降りて、後部座席の社長の荷物を引っ張り出して、彼に渡した。そして、そこに立ったまま駅の構内に消える社長を見送った。そこから、お客のいる場所まで行き、近くの駐車場に車を停めた。
それから、ひとりで遅い昼食をとるために店に入った。店内には雪代が好きだった曲が流れていた。ぼくは、裕紀のことを愛し続ける決意でいたが、その思いはただ音楽が流れてきただけで、別の思いに変わるぐらい軟弱らしい。そして、小さなベッドに寝ている子どもを上から眺めている雪代のことを想像している自分がいた。その子の名前は、いったいどういう名前なのか? それが分からないとその存在をそれ以上に具体化させることは難しかった。
こうして、地元の人間に会うと、すべてが雪代につながってしまう危険を感じた。ぼくは、それを恐れており、懐かしんでもいた。
その日は、裕紀に会う予定があった。職場に戻る前にガソリンを入れ、レシートを貰った。女性の店員がきびきびと働いており、ぼくはその姿を目で追った。
「社長さん、来ていたんでしょう。上田さんのお父さん」と裕紀は言った。
「来てたよ。見ないとちょっと老けたかなという印象をもった。まあ、いつものようにエネルギッシュなのは間違いないけど。オレの父親もそうなのかな」と言って、裕紀の父がいないことを思い出した。「ごめんね」
「何が? ああ。気にしてないよ。そうだよね、生きていれば、そういうことも経験するんだよね」
そして、ぼくは彼女に家族の大切さを思い出してほしいと考えている。自分がいて、裕紀がいて、雪代と同じように子どもが生まれてと。
「叱られたりしなかった?」と裕紀は尋ねる。
「誰に? 社長に? いや、全然されなかった。帰りに駅まで送ったときに、なんだか感傷的になったぐらいだよ」と、その様子を説明して、またほかの話題に移った。