爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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存在理由(44)

2011年01月04日 | 存在理由
(44)

 家に近づくと、見馴れない車がとまっていた。多分、みどりが乗ってきたのだろうと予測した。案の定、玄関の戸は鍵がかかっていなかった。中に入ると、あきらかにいつもとは様子が違うみどりが、そこにいた。

「どうしたの? 急に」とぼくは声をかけた。なにかに動揺しているような表情をみどりはしていた。

 少しの間隔があって、口を開く。彼女の母親は、今日倒れたという電話があり、とりあえずぼくに連絡したのだが、つかまらなかったので、実家に帰る途中に寄ってみたのだと言う。ぼくは、素直にあやまった。浮かれて過ごしていた間に、彼女はやきもきしていたのだろう。

 彼女は、それで数日の有給をとり、実家のそばの病院で看病にあたるそうである。前にあった時の印象は、元気そうな人だったので、ぼくも心配ですぐに駆けつけたかったのだが、そう予定を急に変更するわけにもいかず、彼女を見送ることしかできそうにない。

 ぼくとのふたりの関係ははじめのときと違い、会う回数など密度が減っていることは確かだった。彼女は、そのことを気にして、いま言うことではないかもしれないが、ごめんなさい、とも言った。ぼくは、
「別に、ふたりとも仕事で成果をあげようとしているのだから、仕方のないことだよ」と、自分にも言い訳しているようなことを言った。彼女はすぐにでも出かけたそうだったが、また逆に、少しの間だけ落ち着いて話していきたいようにも見えた。ぼくも、動揺した気持ちをもって運転しても良くないことが起こりそうなので、熱いコーヒーをいれて、ふたりで飲もうとした。

 彼女は、テーブルの向こうでコーヒーカップを両手でつつんでいる。いつもより薄い化粧だった。何度も見た顔だったが、相変わらずきれいな顔立ちだと思った。そして、彼女がぼくを選んだことや、いままでの楽しかった経験を思い返した。その彼女に悲痛なことが起こってしまったことを、いまは残念に感じている。それとともに、自分の両親のことも考えないわけにはいかなかった。誰しも年をとり、全盛期を自分自身で作ったり、編み出したりして、次の隊列に席を譲らなければならない。彼らはもう、そういう状況をそれほど遠くない未来に待ち構えているのだろう。

 そのようなことをみどりと話した。いつもは、彼女の方が包容力は大きいのだが、今日の彼女は小さく見えた。コーヒーを飲み終えると、彼女は脱いでいたコートをまた着た。そして、ぼくの首に両腕をまわし、抱きついた。いつものみどりの匂いがした。多分、いずれ街のどこかで、この匂いをかいだら、直接ぼくの脳は、みどりの姿を立体的に思い浮かべることになるだろう、と予想した。

 彼女は、玄関から出て行った。ぼくも上着も着ずに、一緒に部屋を出た。車のエンジンがかかる。窓を開け、彼女はにっこりと笑った。

「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて。ぼくも、今度の週末に行くよ」と、考えていた言葉を出した。
「ありがとう。無理しないでね、仕事でも」

 車は出て行った。ぼくは突然、薄着であることを実感した。部屋に入り、暖房を強めた。コーヒーをさらに入れ、すでに酔いは醒めてしまっている頭をさらに、はっきりさせようとした。それから、目をつぶり、圧倒的な存在にすがって祈るように小さく呟いた。今日みたいな日は、誰もが小さな存在だと、力が無いものだと感じてしまうだろう。ふと目を下に向けると、みどりが、ぼくがいない間に書いていたメモが落ちていた。そこには、彼女が自分の母親と過ごした日々がつづられていた。彼女は、考えをまとめるときによくそのような形式をとった。

 ぼんやりとして、みどりの20数年間の人生のことを考える。もちろん、勝手に大きくなったわけではない。彼女の幼少のころは、どんな子だったろうか、と想像してみる。想像より、当事者に直にきいた方が良いことは決まっている。それで、週末にあった時にでも、みどりの母親にきいてみようと決心する。それより、そう大した症状でなければ良いが、と今更ながら人生という薄い塀を落ちないように歩いている人々に同情を寄せた。