償いの書(16)
ぼくらは思い出をひとつひとつ増やしていったとしても、やはり、もう8年も9年も前の人間ではないのだと、それぞれが感じるときもあった。彼女もこれまでさまざまな経験を通して作られたであろうきちんとした人格があり、ぼくにも、自分なりのこだわりや、執着みたいなものもあった。そして、それを同じ時間や長い期間を経て、道路を均すように問題をつぶしていったとしたら、簡単かもしれなかった。また、もし、再会ということではなく、はじめて出会った人間通しだとしたら、それは問題にもならなかったかもしれない。ぼくらには、かつて抱いていた理想みたいなものが、ぼんやりとだがあった。それを捨てた自分だから何も言えなかったかもしれないが、こころはそう簡単には折れてくれなかった。
ただ、問題は単純だったのかもしれない。ぼくらは、もう学生ではなく、自分の時間にゆとりがなかった。会うべき時間に、お互いさまざまな用件が入った。最優先すべき事柄は互いのことではなく、仕事の相手の都合であったり、若かったときには必要ではなかったつまらない用事であったりした。
彼女は、何度かぼくが約束をキャンセルしたときになじった。ぼくは、何度もあやまったがそれでも、数回はそれ以降も断る場面もあった。
「昔は、そうではなかった」と彼女は遠い日々を思い出すように言った。ぼくも、もちろんそんなことはしたくなかったのだが、過去のあの日と同じように時間がいくらでもあるのとは立場も違い、東京での自分の足場を作ることに精一杯だったかもしれない。
そこに嫉妬らしきものも含まれていたのかもしれないと感じるときもあった。それは、時間や仕事に対してのこともあり、ぼくらの間に挟まっている女性へのことかもしれなかった。ぼくは、まだ大学生で時間もあったときには、もうひとりの女性とたくさん時間を使い尽くしたと考えているらしいことも予想できた。実際は、そんなことはなかった。雪代は東京で生活しており、ぼくらはたまにしか会えなかった。裕紀はそれを口に出さず、我慢強さを強いられたひとのように時おり放つニュアンスでしか、ぼくには伝わらなかった。
だが、一面では、ぼくらは時間さえ会えば、お互いを大事に思っており、彼女も優しさの固まりのような性格を発揮した。
秋から冬になり、彼女の服装がシックなものに変わる。
ぼくらは喫茶店で待ち合わせをしている。ぼくが遅れてそこに着くと、彼女は足を組み、テーブルの上に広げた本を読んでいる。それで、ぼくが到着したことにも頓着せず熱心に本のなかに没頭しているようだった。長い髪が彼女の視線をさえぎり、ぼくはその様子を立ち止まってしばらく見た。
「なに、読んでるの?」
「ごめん、気付かなかった」
それは待つことに慣れてしまった彼女の無言の抵抗のようにも思えた。ぼくはそれで意識して快活に振舞い、彼女を笑わせた。ぼくは、その笑い声をもっともっと聞く時間もあったのだと、埋めることのできない時間のことを常に考える。
ぼくらは、たくさんの町を歩き、たくさんのこれから起こるであろう出来事や希望の話をした。いつのまにか、その未来像にはずっと彼女の存在があり続けることをぼくは確認する。彼女の話の端々にも、そのことがでてきた。彼女の、これから起こるさまざまなページにはぼくが入っていて、それは動かせない事実のようだった。
町はイルミネーションで飾られるようになり、それをまた来年も見られるであろうかと話し合った。それは一年後のこともあり、2年や3年も先の話を別の話題ではするようになっていく。ぼくはひとりの女性を愛し続ける意思と義務があり、それを自分が行えることを喜んでもいた。こういったことが、妹がいったまっとうな人間であるということかもしれなかった。
そして、彼女は店先で咲いている冬の赤い花の名前を教えてくれ、ぼくは、テレビでサッカーの試合を見ながら、その戦術の見事さを熱弁した。読み終えた本のストーリーを歩きながら彼女は話し、ぼくはビルを見ながら設計の巧みさを彼女に伝えた。
それは高校生から絶たれたぼくらの時間を埋め尽くす作業であり、また、もう一度それぞれを必要とする存在であることを確認する行為でもあった。自分の中味のなにかが変わることはあるかもしれないが、やはり大事なものの核心は消えないということも知るのだった。
彼女との思い出も5ヶ月、6ヶ月と増えていき、いつか離れていた期間を追い越すこともあるのだろうかと考えるようにもなっていた。それは計算というより願いのようなものだった。ある日、ぼくの部屋には彼女がにこやかに微笑んでいる写真が飾られ、彼女の部屋にもぼくのそれがあった。それを見て、ぼくは電話をした。彼女の声がぼくの左耳から入り、内面を温めてくれていた。東京で彼女がいなかったら、ぼくはどれほど淋しい思いをすることになったのだろうと今更ながら、存在の大きさを感じる。
ぼくらは思い出をひとつひとつ増やしていったとしても、やはり、もう8年も9年も前の人間ではないのだと、それぞれが感じるときもあった。彼女もこれまでさまざまな経験を通して作られたであろうきちんとした人格があり、ぼくにも、自分なりのこだわりや、執着みたいなものもあった。そして、それを同じ時間や長い期間を経て、道路を均すように問題をつぶしていったとしたら、簡単かもしれなかった。また、もし、再会ということではなく、はじめて出会った人間通しだとしたら、それは問題にもならなかったかもしれない。ぼくらには、かつて抱いていた理想みたいなものが、ぼんやりとだがあった。それを捨てた自分だから何も言えなかったかもしれないが、こころはそう簡単には折れてくれなかった。
ただ、問題は単純だったのかもしれない。ぼくらは、もう学生ではなく、自分の時間にゆとりがなかった。会うべき時間に、お互いさまざまな用件が入った。最優先すべき事柄は互いのことではなく、仕事の相手の都合であったり、若かったときには必要ではなかったつまらない用事であったりした。
彼女は、何度かぼくが約束をキャンセルしたときになじった。ぼくは、何度もあやまったがそれでも、数回はそれ以降も断る場面もあった。
「昔は、そうではなかった」と彼女は遠い日々を思い出すように言った。ぼくも、もちろんそんなことはしたくなかったのだが、過去のあの日と同じように時間がいくらでもあるのとは立場も違い、東京での自分の足場を作ることに精一杯だったかもしれない。
そこに嫉妬らしきものも含まれていたのかもしれないと感じるときもあった。それは、時間や仕事に対してのこともあり、ぼくらの間に挟まっている女性へのことかもしれなかった。ぼくは、まだ大学生で時間もあったときには、もうひとりの女性とたくさん時間を使い尽くしたと考えているらしいことも予想できた。実際は、そんなことはなかった。雪代は東京で生活しており、ぼくらはたまにしか会えなかった。裕紀はそれを口に出さず、我慢強さを強いられたひとのように時おり放つニュアンスでしか、ぼくには伝わらなかった。
だが、一面では、ぼくらは時間さえ会えば、お互いを大事に思っており、彼女も優しさの固まりのような性格を発揮した。
秋から冬になり、彼女の服装がシックなものに変わる。
ぼくらは喫茶店で待ち合わせをしている。ぼくが遅れてそこに着くと、彼女は足を組み、テーブルの上に広げた本を読んでいる。それで、ぼくが到着したことにも頓着せず熱心に本のなかに没頭しているようだった。長い髪が彼女の視線をさえぎり、ぼくはその様子を立ち止まってしばらく見た。
「なに、読んでるの?」
「ごめん、気付かなかった」
それは待つことに慣れてしまった彼女の無言の抵抗のようにも思えた。ぼくはそれで意識して快活に振舞い、彼女を笑わせた。ぼくは、その笑い声をもっともっと聞く時間もあったのだと、埋めることのできない時間のことを常に考える。
ぼくらは、たくさんの町を歩き、たくさんのこれから起こるであろう出来事や希望の話をした。いつのまにか、その未来像にはずっと彼女の存在があり続けることをぼくは確認する。彼女の話の端々にも、そのことがでてきた。彼女の、これから起こるさまざまなページにはぼくが入っていて、それは動かせない事実のようだった。
町はイルミネーションで飾られるようになり、それをまた来年も見られるであろうかと話し合った。それは一年後のこともあり、2年や3年も先の話を別の話題ではするようになっていく。ぼくはひとりの女性を愛し続ける意思と義務があり、それを自分が行えることを喜んでもいた。こういったことが、妹がいったまっとうな人間であるということかもしれなかった。
そして、彼女は店先で咲いている冬の赤い花の名前を教えてくれ、ぼくは、テレビでサッカーの試合を見ながら、その戦術の見事さを熱弁した。読み終えた本のストーリーを歩きながら彼女は話し、ぼくはビルを見ながら設計の巧みさを彼女に伝えた。
それは高校生から絶たれたぼくらの時間を埋め尽くす作業であり、また、もう一度それぞれを必要とする存在であることを確認する行為でもあった。自分の中味のなにかが変わることはあるかもしれないが、やはり大事なものの核心は消えないということも知るのだった。
彼女との思い出も5ヶ月、6ヶ月と増えていき、いつか離れていた期間を追い越すこともあるのだろうかと考えるようにもなっていた。それは計算というより願いのようなものだった。ある日、ぼくの部屋には彼女がにこやかに微笑んでいる写真が飾られ、彼女の部屋にもぼくのそれがあった。それを見て、ぼくは電話をした。彼女の声がぼくの左耳から入り、内面を温めてくれていた。東京で彼女がいなかったら、ぼくはどれほど淋しい思いをすることになったのだろうと今更ながら、存在の大きさを感じる。