(47)
子供が、なんでも手に取るものを欲しがったりする。そこには、道徳観もモラルもない。ただ、性急な解決したい気持ちがあるだけだ。大人は、そうはいかないだろう。こうすれば、結果はどう転ぶか、簡単な計算をする。計算をして、それでも進んだり、計算の結末をおそれ、躊躇してしまうこともあるだろう。
目の前に素敵な女性があらわれる。ただ、順番の問題だけは考えなければならない。もう片手には、離せないものをつかんでいる。さらに別の手が空いているからといって、その両方を所有することは無理だろう。
さゆりさんという、今までに会ったことのないタイプの女性があらわれた。彼女は、自分の内面をすぐにさらけ出すようなことはしない。だから、彼女が自分のことを、どう思っているかは分からない。分からないので、そこには焦燥の気持ちが付け込んでくる。それに捕らわれると、逃げられなくなる感情がある。うまく切り出すこともできない。
自然と、何度か会社への往復で会うことがあった。未知なる人ではなくなったので、話しかけたり、また話しかけられたりする。彼女も、単純にそのことを嬉しがっているような気もする。3度目に帰りが一緒になったときに、駅前の飲食店にさそった。それで、彼女も同意した。普段は、こまめに料理も作るそうだ。性格的にいっても、栄養のバランスのことを熱心に考えたり、カロリーの計算のことも念頭にいれてするそうだ。そういうことに無頓着である自分は、そのことを告げると軽く注意される。そこが、また彼女らしかった。
今日も、お互いが手持ちの笑える話をもちあって話すということはなかった。職場の昼休みには、そうしたブームがあって、いくらかは人に話せるような話を収集していた。しかし、彼女の前で話して、気に入られようというような気持にはならなかった。
それでも、気まずさみたいなものは一切なかった。かえって、言葉に頼らないところに緊密さのようなものが生まれる。不思議なものだ。しかし、そう思っているのはもしかして、ぼくだけだったかもしれない。
ご飯を済ませ、別の店でお茶を飲んだ。彼女も甘いものが好きだった。ぼくは、それにはつきあわずアルコールを飲んだ。
「おいしそうだね?」と、ケーキを食べる彼女を前にして話す。
「食べる?」
「いや」
「ほんとにお酒が、すきなんだね」
と、言われて今更ながら否定のしようがなかった。
彼女は、最近あつかっている仕事の話をした。それを聞くと、彼女のもつ勤勉さや、まわりと調和した関係のことも見えるような気がする。それで、このような会話はとても、ぼくに満足感をあたえ、それを永続させたいような気分にもさせる。そのことが、確信を先延ばしにさせる余裕をあたえるのかもしれない。
このようなことがあって、ある日、駅前のスーパーの前で袋を抱える彼女を目にした。声をかけようかと近付くと、彼女の前に同じ袋をかかえている男性が寄り、親しげに話し合いだした。その会話は聞こえなかったが、さゆりさんの暖かい笑い声と、うきうきした気持ちのあらわれが聞こえるような気がした。それで、ぼくは自然と後ずさり、声をかけるのをためらった。
その様子をみてから、なんとなく顔を合わす機会が減ってしまった。わざと、自分で時間をかえてしまったのか、今になると覚えていないが、もし、みどりという存在がなかったら、どのように変化していたのだろう、と空想する時もある。しかし、失った以上のものが絶えず見つかるわけでもない。それでも、ならなかった自分ということが考えから離れずにつきまとってしまうこともある。さゆりさんのことも、こころの中のそのような引出しのひとつにしまってある。時間が経てば、自分がそのような経験をしたのか、それとも、自分の脳が勝手に作りだした空想の女性か判別できなくなってしまうような誤解もあるが、不図似ている女性にあうと、やはりたくさんの言葉を費やしても理解できない関係の虚しさを思い、磁力のように結びつきあう関係があっても良いかとも感じだす。恋愛という土俵にはあがらなかったが、自分では、ささやかな失恋のような軽いうずきと甘酢っぽさを思い出させる不思議なひとだった。それ以来、会うこともなくなってしまったが、同期からさゆりさんのこと好きだったろう? あの子、結婚したよ、と何年後かに言われた時はすぐに思い出せない自分がいて、自分自身の気持ち自体に戸惑ったことを思い出す。
子供が、なんでも手に取るものを欲しがったりする。そこには、道徳観もモラルもない。ただ、性急な解決したい気持ちがあるだけだ。大人は、そうはいかないだろう。こうすれば、結果はどう転ぶか、簡単な計算をする。計算をして、それでも進んだり、計算の結末をおそれ、躊躇してしまうこともあるだろう。
目の前に素敵な女性があらわれる。ただ、順番の問題だけは考えなければならない。もう片手には、離せないものをつかんでいる。さらに別の手が空いているからといって、その両方を所有することは無理だろう。
さゆりさんという、今までに会ったことのないタイプの女性があらわれた。彼女は、自分の内面をすぐにさらけ出すようなことはしない。だから、彼女が自分のことを、どう思っているかは分からない。分からないので、そこには焦燥の気持ちが付け込んでくる。それに捕らわれると、逃げられなくなる感情がある。うまく切り出すこともできない。
自然と、何度か会社への往復で会うことがあった。未知なる人ではなくなったので、話しかけたり、また話しかけられたりする。彼女も、単純にそのことを嬉しがっているような気もする。3度目に帰りが一緒になったときに、駅前の飲食店にさそった。それで、彼女も同意した。普段は、こまめに料理も作るそうだ。性格的にいっても、栄養のバランスのことを熱心に考えたり、カロリーの計算のことも念頭にいれてするそうだ。そういうことに無頓着である自分は、そのことを告げると軽く注意される。そこが、また彼女らしかった。
今日も、お互いが手持ちの笑える話をもちあって話すということはなかった。職場の昼休みには、そうしたブームがあって、いくらかは人に話せるような話を収集していた。しかし、彼女の前で話して、気に入られようというような気持にはならなかった。
それでも、気まずさみたいなものは一切なかった。かえって、言葉に頼らないところに緊密さのようなものが生まれる。不思議なものだ。しかし、そう思っているのはもしかして、ぼくだけだったかもしれない。
ご飯を済ませ、別の店でお茶を飲んだ。彼女も甘いものが好きだった。ぼくは、それにはつきあわずアルコールを飲んだ。
「おいしそうだね?」と、ケーキを食べる彼女を前にして話す。
「食べる?」
「いや」
「ほんとにお酒が、すきなんだね」
と、言われて今更ながら否定のしようがなかった。
彼女は、最近あつかっている仕事の話をした。それを聞くと、彼女のもつ勤勉さや、まわりと調和した関係のことも見えるような気がする。それで、このような会話はとても、ぼくに満足感をあたえ、それを永続させたいような気分にもさせる。そのことが、確信を先延ばしにさせる余裕をあたえるのかもしれない。
このようなことがあって、ある日、駅前のスーパーの前で袋を抱える彼女を目にした。声をかけようかと近付くと、彼女の前に同じ袋をかかえている男性が寄り、親しげに話し合いだした。その会話は聞こえなかったが、さゆりさんの暖かい笑い声と、うきうきした気持ちのあらわれが聞こえるような気がした。それで、ぼくは自然と後ずさり、声をかけるのをためらった。
その様子をみてから、なんとなく顔を合わす機会が減ってしまった。わざと、自分で時間をかえてしまったのか、今になると覚えていないが、もし、みどりという存在がなかったら、どのように変化していたのだろう、と空想する時もある。しかし、失った以上のものが絶えず見つかるわけでもない。それでも、ならなかった自分ということが考えから離れずにつきまとってしまうこともある。さゆりさんのことも、こころの中のそのような引出しのひとつにしまってある。時間が経てば、自分がそのような経験をしたのか、それとも、自分の脳が勝手に作りだした空想の女性か判別できなくなってしまうような誤解もあるが、不図似ている女性にあうと、やはりたくさんの言葉を費やしても理解できない関係の虚しさを思い、磁力のように結びつきあう関係があっても良いかとも感じだす。恋愛という土俵にはあがらなかったが、自分では、ささやかな失恋のような軽いうずきと甘酢っぽさを思い出させる不思議なひとだった。それ以来、会うこともなくなってしまったが、同期からさゆりさんのこと好きだったろう? あの子、結婚したよ、と何年後かに言われた時はすぐに思い出せない自分がいて、自分自身の気持ち自体に戸惑ったことを思い出す。