償いの書(17)
妹の美紀が妊娠したと、山下から電話があった。
それは、いつか来ることは分かっていたが、思ったより早かった。だが、それを聞きながらもぼくに生まれた感情は、ぼくと裕紀が育んでいる愛の象徴として、それが芽生えたのだと思っている。それが形あるものとして妹の体内に宿ったのだ。そのようなことを頭のなかでもてあそんでいる。でも、実際のところは、その子どもはぼくらとは関係のない意思のもとで育っていくのだろう。
そして、もし生まれたら、ぼくはどれほど可愛がってしまうのだろうとも考えている。小さな彼や彼女は、すこしだけ大きくなり、親のもとから離れてぼくの家にはじめて泊まりにくる。不安になって泣いてしまうかもしれない。その情景には、裕紀も当然のように入っていた。彼女は、その子を懸命になだめている。それで、泣き止んだその子は、つかれて裕紀に抱かれて寝てしまう。
ぼくは、そのようなことを想像しながら、自分の子どもがいる、ということは思い浮かべられなかった。ただ、そこには妹の子どもがいただけだ。
ついでといっては何だが、ぼくは雪代の子どもがこの世界にもう現れているのか、知りたいとも思っていた。だが、その情報は誰もくれなかった。ただ、計算からいったら、もうその子は、雪代と島本さんのもとにいるはずだった。どれほどの愛嬌があり、どれぐらい賢い子になるのか、ぼくは興味があったが、なにをすることもできないのも同時に事実だった。ただ、離れた場所から、その子が不幸から守られていることだけを願っている。そして、同じように雪代も守られることを望んでいる。
ぼくは頼まれてもいないのに、名前のことを考えている。名前を与えられないと、どう対象として愛情をもってよいのか分からなかった。そして、たくさんのひとが今までぼくの名前を呼び、ぼくはそれに答えたり振り向いたり頷いたりしたことを思い出していた。裕紀には裕紀という名前があった。それ以外では、もう彼女を考えられないのは当然のことだった。
そして、名前がそれぞれの人間にぴったり合うことを確認した。
ぼくは、仕事が終わり、裕紀にそのことを告げた。彼女も、とても喜んでくれた。もともと、小さな子どもの世話をするのが好きなタイプの人間なのだ。ぼくは、いままで会ってきたサッカー少年たちの話をして、東京に来る前にみなで撮った写真の話をした。
「今度、それ見たいな」と彼女は言った。
「見せてなかったっけ?」とぼくは返答するも、写真のなかに別の女性がいるかもしれないことも同時に考え、整理が必要なことを知る。そして、即答するタイミングを失ってしまう。
「こっちにあるんだよね?」
「あると思うよ。荷物に入れてきたから」だが、どこにあるのか押入れのなかを透視できるかのようにぼくは話しながら視線をそちらに向けた。
何日か経って、彼女が来たとき、ぼくはそれと数枚の写真をテーブルにだしておいた。やはり、雪代の写真もそこにあった。裕紀じゃなければ、ぼくはそれを隠すこともなく、過去の1ページとして普通に見せたかもしれないが、いまのぼくらにとってもそれはデリケートな話だった。
「人気者みたいに見えるね」
「大体、そこから去るときは人気者になるもんだよ」
「このひとって、高校を辞めてしまった・・・」
「ああ、松田だよ。ぼくが練習を続けられなくなって、彼にゆずった」
「サッカー得意だったもんね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
その記憶の良さにぼくは戸惑うことになる。彼のことを覚えているぐらいなら、もっとさまざまなことを彼女の脳は記憶していることなのだろう。
「今度、裕紀の留学中の写真も見せてよ」
「いいよ、今度」と言って、彼女は大切なものを思い出すかのような視線で宙を見ていた。そこには、いったいどんな良い思い出があるのか、ぼくは計算して掴もうとした。
また、何日か経って、妹がうちに寄った。
「子どものこと聞いたでしょう?」
「聞いたよ。良かったじゃない。おめでとう」
「まだ、出てからじゃないと」と、その状態になったことに馴れない様子で彼女は言った。ぼくは裕紀や幼馴染の智美にも伝え、彼女らも喜んでいることを告げた。彼女は、それらの言葉にも戸惑っているようなふりをしていた。
ぼくは、孫をみている両親のことをあたまに描き、それを美紀に伝える。自分の子どもより、彼らが妹のこどもを先に抱くことを考え、もし、自分が結婚するなら、もう裕紀以外は考えられないことも、そのときに知ったのかもしれない。
「仲良くやってる?」
「誰と?」
「裕紀ちゃんと」
「そうだね。なんの問題もないよ」
「ずっと、大切にしないと」
「そうだよね、分かってるけど」
「雪代さんの赤ちゃんも生まれたのかな」
「さあ、分からない。誰も教えてくれないし」
ぼくは、雪代の名前を出すことを後ろめたく感じ、あるときは警戒して話していることを知っている。また、そうした状態に置いていることを申し訳なくも感じている。だが、ぼくのなかに少しでも彼女への好意が残っているかもしれないことを、周りの人間がもっと警戒し、その芽を消そうとしていることを薄々とだが感じていて、ぼくは前科のある人間のように、多少、やりきれない思いもしている。
妹の美紀が妊娠したと、山下から電話があった。
それは、いつか来ることは分かっていたが、思ったより早かった。だが、それを聞きながらもぼくに生まれた感情は、ぼくと裕紀が育んでいる愛の象徴として、それが芽生えたのだと思っている。それが形あるものとして妹の体内に宿ったのだ。そのようなことを頭のなかでもてあそんでいる。でも、実際のところは、その子どもはぼくらとは関係のない意思のもとで育っていくのだろう。
そして、もし生まれたら、ぼくはどれほど可愛がってしまうのだろうとも考えている。小さな彼や彼女は、すこしだけ大きくなり、親のもとから離れてぼくの家にはじめて泊まりにくる。不安になって泣いてしまうかもしれない。その情景には、裕紀も当然のように入っていた。彼女は、その子を懸命になだめている。それで、泣き止んだその子は、つかれて裕紀に抱かれて寝てしまう。
ぼくは、そのようなことを想像しながら、自分の子どもがいる、ということは思い浮かべられなかった。ただ、そこには妹の子どもがいただけだ。
ついでといっては何だが、ぼくは雪代の子どもがこの世界にもう現れているのか、知りたいとも思っていた。だが、その情報は誰もくれなかった。ただ、計算からいったら、もうその子は、雪代と島本さんのもとにいるはずだった。どれほどの愛嬌があり、どれぐらい賢い子になるのか、ぼくは興味があったが、なにをすることもできないのも同時に事実だった。ただ、離れた場所から、その子が不幸から守られていることだけを願っている。そして、同じように雪代も守られることを望んでいる。
ぼくは頼まれてもいないのに、名前のことを考えている。名前を与えられないと、どう対象として愛情をもってよいのか分からなかった。そして、たくさんのひとが今までぼくの名前を呼び、ぼくはそれに答えたり振り向いたり頷いたりしたことを思い出していた。裕紀には裕紀という名前があった。それ以外では、もう彼女を考えられないのは当然のことだった。
そして、名前がそれぞれの人間にぴったり合うことを確認した。
ぼくは、仕事が終わり、裕紀にそのことを告げた。彼女も、とても喜んでくれた。もともと、小さな子どもの世話をするのが好きなタイプの人間なのだ。ぼくは、いままで会ってきたサッカー少年たちの話をして、東京に来る前にみなで撮った写真の話をした。
「今度、それ見たいな」と彼女は言った。
「見せてなかったっけ?」とぼくは返答するも、写真のなかに別の女性がいるかもしれないことも同時に考え、整理が必要なことを知る。そして、即答するタイミングを失ってしまう。
「こっちにあるんだよね?」
「あると思うよ。荷物に入れてきたから」だが、どこにあるのか押入れのなかを透視できるかのようにぼくは話しながら視線をそちらに向けた。
何日か経って、彼女が来たとき、ぼくはそれと数枚の写真をテーブルにだしておいた。やはり、雪代の写真もそこにあった。裕紀じゃなければ、ぼくはそれを隠すこともなく、過去の1ページとして普通に見せたかもしれないが、いまのぼくらにとってもそれはデリケートな話だった。
「人気者みたいに見えるね」
「大体、そこから去るときは人気者になるもんだよ」
「このひとって、高校を辞めてしまった・・・」
「ああ、松田だよ。ぼくが練習を続けられなくなって、彼にゆずった」
「サッカー得意だったもんね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
その記憶の良さにぼくは戸惑うことになる。彼のことを覚えているぐらいなら、もっとさまざまなことを彼女の脳は記憶していることなのだろう。
「今度、裕紀の留学中の写真も見せてよ」
「いいよ、今度」と言って、彼女は大切なものを思い出すかのような視線で宙を見ていた。そこには、いったいどんな良い思い出があるのか、ぼくは計算して掴もうとした。
また、何日か経って、妹がうちに寄った。
「子どものこと聞いたでしょう?」
「聞いたよ。良かったじゃない。おめでとう」
「まだ、出てからじゃないと」と、その状態になったことに馴れない様子で彼女は言った。ぼくは裕紀や幼馴染の智美にも伝え、彼女らも喜んでいることを告げた。彼女は、それらの言葉にも戸惑っているようなふりをしていた。
ぼくは、孫をみている両親のことをあたまに描き、それを美紀に伝える。自分の子どもより、彼らが妹のこどもを先に抱くことを考え、もし、自分が結婚するなら、もう裕紀以外は考えられないことも、そのときに知ったのかもしれない。
「仲良くやってる?」
「誰と?」
「裕紀ちゃんと」
「そうだね。なんの問題もないよ」
「ずっと、大切にしないと」
「そうだよね、分かってるけど」
「雪代さんの赤ちゃんも生まれたのかな」
「さあ、分からない。誰も教えてくれないし」
ぼくは、雪代の名前を出すことを後ろめたく感じ、あるときは警戒して話していることを知っている。また、そうした状態に置いていることを申し訳なくも感じている。だが、ぼくのなかに少しでも彼女への好意が残っているかもしれないことを、周りの人間がもっと警戒し、その芽を消そうとしていることを薄々とだが感じていて、ぼくは前科のある人間のように、多少、やりきれない思いもしている。