償いの書(19)
「智美ちゃんと旅行をすることになった」と、裕紀は告げる。
彼女たちは、同じ高校に通っていた。しかし、裕紀はその後、外国で生活することになり、縁は切れた。そして、ぼくを媒介にして再び仲が戻ったようだった。ぼくは、裕紀が楽しそうにしており、そのこと自体に期待を持っていることが嬉しかった。関係を終わらすきっかけを作ったのが自分ならば、それを修復させたのも自分だった。だが、今後はぼくがいるとかいないのとかに関わらず、ずっと友情を暖めてほしいものだと思った。
「その間、上田さんは?」
「さあ、出張にいくのと重なったとか言ってたと思うけど」
ぼくらは、毎日のように話したが、2日間の空白のことを考えている。それは短いようでいて、長いようでもあった。しかし、ぼくは長い間、裕紀を失っていたことを確認する。あの時期に比べれば、どんなものでも長いとは感じることはないのだろう。
その後、予定のいくつかを聞いたけど、とてもおぼろげで、趣旨としてはただ温泉に入って、部屋でたくさん話をしたいようだった。その話題のなかに自分や上田さんが入り込んでいることを想像する。裕紀は気の置けないひとに対して、ぼくへの評価や好悪をどう告げるのだろう? とそれを知りたく感じた。
そして、ぼくも同じように誰かに裕紀のことを、根本的にどう思っているかを話すことをしてきたのだろうかと思い出している。ぼくは、それを上田さんに話し、山下にも語った。だが、ぼくが誉めたりする前に、彼らの方が、ぼくより一層彼女の優しさやこころの美しさを評価していた。自分は、それに頷いているだけで良かったのだった。
ぼくは旅行前に智美に電話をして、いろいろとよろしくという漠然としたお願いをした。それに答えてくれたかどうかはもう憶えていないが、話はころころと別のものに変わり、最初の用件を電話を切る時点では忘れてしまっていた。智美と話していると、楽しいからなのか、そういうことが多かった。
ぼくは、その間も普通に仕事をしている。温泉でのんびりするひとときも悪くないだろうな、と考えている。冬の冷たい木枯らしが外出先から戻った同僚の頬に痕跡として残っていた。彼らは赤い顔をして、直ぐに暖かいコーヒーを飲んだ。ぼくは、電話を応対しながら、その様子を眺めていた。
それが終われば、ぼくも同じように外出する予定があった。こんな日は、外に出るのが億劫だったが、約束がある以上、仕方がないことなのだ。ぼくは上着を着て、ドアを開けた。
外には服を着た小さな犬を散歩させている女性がいた。見るからに高級な服装に包まれ、寒さを避けるためのコートがはじめて着たかのように輝いて見えた。何度か見かけたことがあるので、軽く会釈すると、向こうも自然とそうした。
「忙しそうですね?」と、意外にも声をかけてきた。
「ええ、まあ、なんとか」と、答えになっていない発言が自分からでた。そのひとは、ぼくのことをどこかで見ているのだろうか。そのビルのそばに住んでいれば、ぼくが外出する姿も見たのかもしれない。
少し、呆気にとられながら、ぼくはカバンを抱え込み、体温が寒さに負けないように工夫した。しかし、もう直き春に変化する予兆もあった。
1泊の予定だったので、翌日の夜には裕紀たちはそれぞれの家に戻って来ていた。ぼくは、電話でそれを知り、楽しかったかどうかを尋ねた。裕紀は、また交友がそれも段々と深まっていく交友がもてたことを喜んでいた。ぼくと裕紀との関係が途中で中断されたのならば、智美とも同じことだったのだ。たくさんの会話をして、たくさん笑い合ったと言った。ぼくは、その様子を想像していた。彼女たちはテーブルに向かって座り、宿の浴衣なんかを着ながら、口を休めずに語らっている。いつまでも眠らず、布団にはいっても話は終わらない。それは、修学旅行の夜のようなものだった。
翌日の夜には智美からも電話がかかってきた。
「あの子を、大切にしないと駄目だよ」
「充分すぎるぐらい、している積もりだけど」
「どこがいいんだろう、あの子、ひろしのことがとても好きみたい。あんたの良いところというのか、長所というのか、たくさんのもをあげつらっていた」
「そう、そう言われると恥ずかしいね」
「だから、もっとそれ以上に大切に思わないと」
しかし、自分にはそれ以上愛することなどできないぐらいだと思っていたのだ。その限界を女性たちは不確かな要望で求めて来ていた。そこには、理論や理屈はなかった。ただ、情緒だけがあるらしかった。
それ以降も会話は続き、上田さんのことや、彼の仕事のことなどを話した。ぼくは、直接訊けないが確かに発せられた裕紀のぼくへの思いがどのようなものかを、ぼんやりと反芻している。ぼくが過去に裏切ったことなど、もう憶えてもいないのだろうか。それとも、忘れるために必死にぼくを愛すると決めたのだろうか。ぼくは、愛されている事実というものが、目に見えない分だけ逆に不安になった。それを、丁寧に扱おうと願えば願うほど、壊れてしまう存在なのかもしれないと、愛情というものの無防備さを悲しく感じた。
「智美ちゃんと旅行をすることになった」と、裕紀は告げる。
彼女たちは、同じ高校に通っていた。しかし、裕紀はその後、外国で生活することになり、縁は切れた。そして、ぼくを媒介にして再び仲が戻ったようだった。ぼくは、裕紀が楽しそうにしており、そのこと自体に期待を持っていることが嬉しかった。関係を終わらすきっかけを作ったのが自分ならば、それを修復させたのも自分だった。だが、今後はぼくがいるとかいないのとかに関わらず、ずっと友情を暖めてほしいものだと思った。
「その間、上田さんは?」
「さあ、出張にいくのと重なったとか言ってたと思うけど」
ぼくらは、毎日のように話したが、2日間の空白のことを考えている。それは短いようでいて、長いようでもあった。しかし、ぼくは長い間、裕紀を失っていたことを確認する。あの時期に比べれば、どんなものでも長いとは感じることはないのだろう。
その後、予定のいくつかを聞いたけど、とてもおぼろげで、趣旨としてはただ温泉に入って、部屋でたくさん話をしたいようだった。その話題のなかに自分や上田さんが入り込んでいることを想像する。裕紀は気の置けないひとに対して、ぼくへの評価や好悪をどう告げるのだろう? とそれを知りたく感じた。
そして、ぼくも同じように誰かに裕紀のことを、根本的にどう思っているかを話すことをしてきたのだろうかと思い出している。ぼくは、それを上田さんに話し、山下にも語った。だが、ぼくが誉めたりする前に、彼らの方が、ぼくより一層彼女の優しさやこころの美しさを評価していた。自分は、それに頷いているだけで良かったのだった。
ぼくは旅行前に智美に電話をして、いろいろとよろしくという漠然としたお願いをした。それに答えてくれたかどうかはもう憶えていないが、話はころころと別のものに変わり、最初の用件を電話を切る時点では忘れてしまっていた。智美と話していると、楽しいからなのか、そういうことが多かった。
ぼくは、その間も普通に仕事をしている。温泉でのんびりするひとときも悪くないだろうな、と考えている。冬の冷たい木枯らしが外出先から戻った同僚の頬に痕跡として残っていた。彼らは赤い顔をして、直ぐに暖かいコーヒーを飲んだ。ぼくは、電話を応対しながら、その様子を眺めていた。
それが終われば、ぼくも同じように外出する予定があった。こんな日は、外に出るのが億劫だったが、約束がある以上、仕方がないことなのだ。ぼくは上着を着て、ドアを開けた。
外には服を着た小さな犬を散歩させている女性がいた。見るからに高級な服装に包まれ、寒さを避けるためのコートがはじめて着たかのように輝いて見えた。何度か見かけたことがあるので、軽く会釈すると、向こうも自然とそうした。
「忙しそうですね?」と、意外にも声をかけてきた。
「ええ、まあ、なんとか」と、答えになっていない発言が自分からでた。そのひとは、ぼくのことをどこかで見ているのだろうか。そのビルのそばに住んでいれば、ぼくが外出する姿も見たのかもしれない。
少し、呆気にとられながら、ぼくはカバンを抱え込み、体温が寒さに負けないように工夫した。しかし、もう直き春に変化する予兆もあった。
1泊の予定だったので、翌日の夜には裕紀たちはそれぞれの家に戻って来ていた。ぼくは、電話でそれを知り、楽しかったかどうかを尋ねた。裕紀は、また交友がそれも段々と深まっていく交友がもてたことを喜んでいた。ぼくと裕紀との関係が途中で中断されたのならば、智美とも同じことだったのだ。たくさんの会話をして、たくさん笑い合ったと言った。ぼくは、その様子を想像していた。彼女たちはテーブルに向かって座り、宿の浴衣なんかを着ながら、口を休めずに語らっている。いつまでも眠らず、布団にはいっても話は終わらない。それは、修学旅行の夜のようなものだった。
翌日の夜には智美からも電話がかかってきた。
「あの子を、大切にしないと駄目だよ」
「充分すぎるぐらい、している積もりだけど」
「どこがいいんだろう、あの子、ひろしのことがとても好きみたい。あんたの良いところというのか、長所というのか、たくさんのもをあげつらっていた」
「そう、そう言われると恥ずかしいね」
「だから、もっとそれ以上に大切に思わないと」
しかし、自分にはそれ以上愛することなどできないぐらいだと思っていたのだ。その限界を女性たちは不確かな要望で求めて来ていた。そこには、理論や理屈はなかった。ただ、情緒だけがあるらしかった。
それ以降も会話は続き、上田さんのことや、彼の仕事のことなどを話した。ぼくは、直接訊けないが確かに発せられた裕紀のぼくへの思いがどのようなものかを、ぼんやりと反芻している。ぼくが過去に裏切ったことなど、もう憶えてもいないのだろうか。それとも、忘れるために必死にぼくを愛すると決めたのだろうか。ぼくは、愛されている事実というものが、目に見えない分だけ逆に不安になった。それを、丁寧に扱おうと願えば願うほど、壊れてしまう存在なのかもしれないと、愛情というものの無防備さを悲しく感じた。