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償いの書(15)

2011年01月03日 | 償いの書
償いの書(15)

 ぼくと裕紀は、毎日のように朝のコンビニエンス・ストアで会った。だが、どちらかの仕事の都合で会わないこともときにはあった。

「今度、海外出張に付き合うことになった」と彼女は告げる。「淋しい?」
「もちろん、淋しいよ」
「だったら、もっと、そういう表現するべきだよ」
「うん、そうだね」と言ったが、それをどのように表現するのか、自分は分からないでいた。過剰なまでのアメリカの映画の主人公の態度のように振舞うべきなのだろうか。自分にはそのイメージができなかった。

 それから、何日か経って、数日彼女に会わない日々があった。ぼくは、そこで彼女の存在がいかに自分にとって大きなものであるかを知るのだった。つまり、こころのなかに空白の部分が作られていったのだった。それをなにかで埋めることなど不可能のような気もした。

 そのときに、ぼくは妹から電話を貰う。彼女は新居として、山下の職場に近い場所に引っ越していた。ぼくの家から、そこは一時間ほどの離れた距離にあった。

「裕紀さんは?」
「彼女は、仕事で海外に行ってるよ」
「お兄ちゃんはいいから、わたし、裕紀さんに会いたいな」
「そう言っておくよ」自分は、ないがしろにされているような気もしたが、なにかの用事で妹にあう必要など、もうないのも事実だった。彼女には彼女の新たな生活があり、自分もそんなに自由な時間があるわけではなかった。そして、さまざまな相談や話をするのも、同性である方が気が楽な部分もあるのだろう。ぼくは、戻ってきた裕紀にそのことを告げた。彼女は、その申し入れを喜んでいた。ふたりは、ある時期、同じ高校に通い、妹は裕紀のことを、とても慕っていた。ぼくが、彼女と別れてしまい、その交友は断絶したが、そのことを妹は口には出さなかったが、惜しんでいた。それを、復活させるのは簡単なことなのだ。

 ある休日、ぼくらは三人で会った。山下は練習があったので来られなかった。

 最初のうちは、とりとめもない話をしていたが、だんだんと二人の親密な関係を取り戻すには、そんなに時間がかからないようだった。ぼくも相槌をうったりはしていたが、徐々にその会話から取り残されていった。そして、用もないのに店にある雑誌をぱらぱらとめくった。

 それは楽しいことだったのだが、ぼくは周りから防波堤を固められているような感じをもっているのも確かだった。裕紀は、ぼくの周りの人間から気に入られ、それを特別に念入りに守らないことには、ぼくの評価が下がる運命なのだ。もちろん、その関係を壊したくないのも当たり前だが、自由な気分が削がれるのも、わずかだが、ぼくのこころにはあったのだ。ぼくは、それを顔には出さないようにした。

 彼女らは、別れ際に電話番号を交換し、ぼくを抜きにした関係を築きあるようだった。妹は、以前そのようにして勉強を教わり、年上の友人をつくった。

「お母さんも喜んでいたよ。お兄ちゃんがまっとうな人間に戻るみたいで」と、その前に妹はぼくを脇に呼び、そう言った。
「いつでも、まっとうだよ」ぼくは、ふて腐れた態度で、その言葉を言った。

 妹を見送ったあと、ぼくは裕紀の家まで送って行った。静かな場所にあるその家は、裕紀の存在にぴったり合っているようだった。東京に半年ぐらい住み、ぼくは町が放つ空気感の違いを理解するようにもなっていった。ぼくのアパートのある場所の近くには場外馬券場がそばにあり、日曜にもなると特有の雰囲気をかもし出した。裕紀がそこを歩いていると、それは不釣合いだが、ぼくにはなぜかそんなに居心地を悪い気分にもさせなかった。

 だが、この閑静な場所に裕紀は似合っており、ぼくも同時にその場所が好きになっている。
 長い階段を登り、ぼくは裕紀の家の前までいっしょに歩いている。その階段がぼくは象徴的なものに思えて仕方がない。それは、ぼくが遠回りして長い期間がかかってしまった裕紀との再会の象徴なのだ。また、彼女の無垢への憧憬の気持ちを表してもいるのだ。それは、簡単にたどり着けないものであるべきなのだ。ぼくは、階段を一段、一段とゆっくりと登りながら、そう考えている。

「この階段、仕事を終えてからの帰りだと、けっこうしんどいんだ」
「うん、でも景色だとか、とてもきれいだし、素敵な坂だよ」
「いっしょに登るひとがいれば、そんなでもないのに」と、彼女はぼくの手を意識してだかは知らないが、強く握ってよこした。

 ぼくは、彼女の横顔を見る。その向こうには大きな樹木が、隣の敷地を隠すように高く生えていた。そこに存在しているのは、ぼくと裕紀だけのようだった。ぼくは、地元にいるころ、このような瞬間が訪れることなどまったく予想だにしていなかった。だが、その反面、いつか、このような場面が自分に来るのではないのかとも同時に期待していたのかもしれない。それでも、実際のところはよく分からなかった。

 ドアの鍵をあけ、彼女の出張に使ったトランクが部屋の隅に置かれていた。その上からひとつの荷物を彼女は取り、「お土産」と言って、ぼくに手渡してくれた。階段の長さも象徴ならば、それを登り切って手渡された品物も、ぼくにとっては限りなく象徴でもあるのだ。
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