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償いの書(20)

2011年01月24日 | 償いの書
償いの書(20)

「この前の旅行のときにね」と、裕紀は語り出す。「ひろし君の大学生時代の話を、智美ちゃんからきいた」
「どんなこと?」
「スポーツ・ショップでバイトをしていたとか」
「言ってなかったっけ?」
「きいてないよ。そんなことやいろいろ空白の期間を埋めるようなことも教えてもらった」
「そうなんだ。それは有意義なことかどうか分からないけど」
「そこには、可愛い小さな女の子がいたとか」

「ああ、まゆみちゃん。ぼくが働いているときに、丁度、小学校にあがる時期だった。いっしょに文房具を買いにいったのをいまでも思い出すな。いま、どうしているだろう」
「自分にも子どもってほしいもの?」
「まゆみちゃんぐらい、利発な子ならばね。そうならば凄くそう思うよ」
「妹さんにも生まれるんだものね」

 ぼくは、その姿を想像してみる。病院に横たわっている妹の美紀。いつかその横には小さな子どもがひとり増え眠っている。それをぼくの両親が眺めている。その様子は、いつの間にか裕紀の姿になった。彼女は病室にいて、父親になる寸前のぼくがいて、なんと声をかけてよいやら、さまざまな新しいことに対して戸惑っている。化粧をしていない姿なのに、ぼくは裕紀に神々しさすら感じている。ぼくはそのひとつのイメージが自分の頭から離れられなくなっていくのを知る。病室の壁の色や、その匂いや揺れるカーテンまでも。

「あのバイトは、ほんとに楽しかった。後輩たちもその店を利用してくれて、なにも買わなくても彼らはそこを自分のいるべき場所のように感じていてくれた。店長も良いひとだったしね」
「そうなんだ。いつか、その女の子にも会ってみたいな」

「うん、どんな女性になるのか、ぼくもずっと興味がある」ぼくに無尽蔵の愛情の宝庫があって、その数十パーセントをまゆみちゃんに出し惜しみもせず、ささげていることを考えてみる。ぼくには、そうした対象が別にも増えていくのだろうかとも考える。
「それが、自分の子どもだったら、いいのにね」

 ぼくらは段々と家庭を作る話を意識し始める。意図的に持ち出すということではなく、いっしょに映画をみたときや、テレビをみているときに家族の論争があれば、それはぼくひとりだけの問題ではなく、裕紀にも首をつっこんでほしかった。彼女の両親がもういないということが、それを考える上で大きな一因になっていることは間違いないだろう。彼女にも安定した土台が必要なのだ。もちろん、彼女以外にとってもだが。

「わたしはお手伝いぐらいで、バイトをしてこなかった。いろいろな経験ができなかったことを悔しく思っている」と、彼女は本音を吐く。ぼくも、バイトをしたことにより得た経験を喜ばしいことだと思い、さらに何人かのかけがえのない知り合いができたことも、ぼくの人生にプラスされたことを思えば、それは限りなく有意義な日々だったことを知る。

「いつか、戻ったときにふたりでその店に行ってみよう」と、ぼくは話の結論をつけるようにそう言った。ぼくらには守るべき予定や約束が徐々にだが増えていった。それをひとつひとつは憶えていないが、不図した拍子に思い出され、実行に移していない自分の迂闊さを思い出すのだ。

「ほかにも、知らないことをひろし君は経験してきたんだよね」
「ぼくも、裕紀のすべてを知っている訳じゃないよ」
「わたしがお母さんになって、ひろし君の成長を見守るという不思議な夢をその旅のときにみた」
「そう? それで」
「でも、悪いことをしそうになっても、わたしは止めることもできないし、ただ傍観しているだけ」
「でも、お母さんなんだ」
「お母さんみたいなものだけど、もっとそこには親密さがありながら、またベールのようなもので遮られている」
「なんか、怖いな」
「怖くないよ。ただ、じっと見守っているだけ。ひろし君にも、その夢を見てもらいたいぐらい。反対の立場になってもいいけど」

「ぼくが父親で?」
「そう、わたしが娘で、すごい悪いことをするの」
「だって、しそうにないじゃん」

「夢の中ではするの。手出しをしたいと思うけど、どんどん悪いほうに娘はすすんでしまう。途方もないぐらいに」
「いやだね。自分の意思が働かないで、夢のなかだけでその情景を見せ付けられるのは」
「しかし、お母さんだし、お父さんだから守ってあげたいと思ってるの」

 それは、何かの象徴なのだろうか。いずれ、ぼくらはそういう関係になるのだろうか。それとも、彼女は両親の愛情を求めているのだろうか、いや、それは、ぼくの愛が少なすぎるという隠れた意思表示なのか。自分にはどれも分からなかった。

 そして、彼女はそのことを頭のなかに描いているかのような表情をして、空をみつめているようだった。

「しかしだけど、意図した夢を見るのって難しそうだね」と、ぼくはしばらくして興ざめなことを言い、彼女のきょとんとした表情を見ることになる。とても愛らしい表情だったが。彼女は自分の言ったことを忘れてしまったかのように、ぼくのさらなる発言を求めた。