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物語の連鎖
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繁栄の外で(15)

2014年05月01日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(15)

 彼女は、自分のものではなくなった。だが、誰かと交際がはじまったわけでもない。ぼくの気持ちは宙ぶらりんでもあった。手紙のリアクションを起しても良かったのかもしれない。それは冷静になればなるほど無様なものだった。そして、その年代のころ(もちろんのように今もだが)の自分は、格好悪くみえることを必要以上に恐れた。

 だが、ある日彼女とふとした機会に遭遇してしまう。

 いつもの馴染みの居酒屋で土曜の夜を過ごしている。ぼくらのたまり場でもあった。それを目にするまでは、ぼくの動揺もすくなかったかもしれない。もしくは、まったく違ったものかもしれない。結論として、彼女はぼくが知っている男性と、その店に入ってきた。ぼくらの目は合わない。彼女の視線のさきからぼくは消えたのだ。

 その男性は、ぼくも知っている。ぼくと三年間、おなじ学校に通っていたのだ。その男性についての分析が必要になる。彼は、その女性にどれほどの好意を有してから、交際に至ったのだろう。彼女に魅力があったということの前提を無視すると、いつもその男性は、ぼくが好意を寄せる女性の後釜を狙ってきた。たぶん、そういう性分なのだろう。誰かの価値観に追随し、それを追いかけることで自分の位置をたしかめる、という風に。しかし、分析がうまくすすんだとしても、自分の傷ついた気持ちは消えることがなかった。彼女は、ぼくにたいしてあのようないたわりの目をもっていたか? などと。ぼくの態度は変わらないように装っていたが、まわりにいた友人たちからすれば豹変したはずだ。

 何年もたって(決して何日とか、何ヶ月とかではなかった)冷静に判断できるようになって、その気持ちをポップ・ソングに重ね合わせることもできるようになる。音楽のもつ効用のひとつである。スモーキー・ロビンソンという人は、誰かと交際し、ぼくが楽しい振りをしているかもしれないが、それは君への気持ちの代用にすぎない、というように歌った。ぼくも、その歌にしっくりすることがあった。彼女の愛の代わりの安っぽいもので生きているのだ。当人には失礼かもしれないが。

 何ヶ月かして、彼らは別れたと思う。相変わらず、ぼくらは同じ町に住んでいる。外を歩いていれば、へんなタイミングで遭遇することになる。彼女は、ある日はスクーターに乗っていた。またある日は、ファミレスの後ろの席に座っていた。バイトから帰ろうと駅からの道を歩いていると、喫茶店から友人と出てくる彼女をみかけた。声をかけられ、ぼくらは少し話した。核心にふれることが出来ない会話。ぼくは、いまだに彼女のことを一部ではひきずっていた。

 数年経って、意を決して、ある公衆電話に入りぼくは彼女の家の電話番号を押す。そして、彼女の声が聞こえる。いくらかの短い世間話があって、それからぼくは長年あたためていた縒りを戻すはなしを持ち出そうとしたが、この時もなぜか出来なかった。共有していない時間が、ぼくらの間に挟まってしまっていたのだ。それを取り除くことは不可能であるように感じてしまった。

 不思議なことだが、そのときの電話ボックスの空気の湿度のようなものも覚えている。感傷的な映画ならば、雨がとめどなく降っていることだろう。しかし、蒸し暑い夏の前触れのような時期だったと思う。

 それで、数ヶ月交際した楽しい思い出のかわりに、ぼくはつらい気持ちをひきずった数年を代償として手に入れてしまった。それで貸借対照表のバランスがあっているならば、メガネの奥の冷酷な視線の会計士は納得がいくだろう。ぼくも、それは自分自身を納得させる以外に方法はない。

 このこともあってか、ほかにもきっとたくさんの要因があるはずだが、投網をなげてその中にはいった魚を一匹、一匹丹念に拾うように女性を征服していく人もいる。若いころの男性の多くは、こころの中の一部ではこのように考えているかもしれない。実行しているかは別だが。だが、自分はひとりの大事な愛を失ってしまった以上、それの埋め合わせとして完璧なるひとりの精神的な愛を手に入れたい、という思いが膨らんでいる。何度か、ヨットが航路をかえるようにかすかに方向転換しながらも、この気持ちだけはぼくにつきまとって離れない。縫った傷がいつまでも消えずに自分の一部になってしまったように、それが僕自身の身体の一部になってしまった。もちろん、誰に責任があるわけでもなく、誰かの胸ぐらをつかんで責任を問うようなことも出来ない。これが、自分である。