爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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繁栄の外で(29)

2014年05月24日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(29)

 近くには銀行もなかったので、手渡しでもらった給料はそのまま引き出しに突っ込んでいた。そんなに使う場所も娯楽もなかったので、だんだんとその無造作におかれたお札は増えていった。その分、自分の肉体もシェイプされた。貯まったお金をどうするかなど、自分の予定に入っていなかった。いつも通りの自分だ。

 たまに寝坊をしてしまうこともあったが、電車に揺られる通勤時間もないので、顔をさっと洗い服を着替えればことは済んだ。そこで、ぼくは何も意図していないが料理長に気に入られ、おいしいまかないを食べさせてもらった。いまでも、自分のどこを見て評価されたのか分かっていない。ひとつのお世辞も自分の口から決して出ることはないのにである。こうして、世間というものが少しは理解でき、だが、大幅には自分の手にあまった。

 仕事が終わり、大きな温泉に入った。そこでは開放感があり、自分の宙ぶらりんな姿も含めて、過去や未来のしがらみから離れることができた。それでも、自分ひとりの存在を今後、どう伸ばすのかどうやりくりするのかは多少は悩んでいたと思う。だが、正式なルートを外れていることは実感し、あとはドラフト外で頑張る野球選手のように地味な努力でしか報われないことをしる。その地味な努力というものこそ、自分からは遠かった。

 また別な日には、この前知り合いになった君江という子と会ったりもした。ぼくらには若さがあり、夜も疲れていたとは思うが、時間を見つけあっては少ないときではあっても立ち話ぐらいはした。

 彼女は、暖かそうなコートを着て、防寒のためかファッションのためか、それとも両方のためか帽子をかぶっていた。それがとても良く似合っていた。いまでも、同じような帽子を見ると、彼女を思い出すということがぼくの頭にインプットされている。

 ある日、彼女がわたしの部屋で飲みなおそう、と言った。

「部屋になにかあるの? そもそも入っても平気なの?」
 と、間の抜けた返事をぼくはした。彼女は、冷蔵庫の中味を思い出していくつか並べた。「それぐらいで大丈夫でしょう」ときかれたのだが、ぼくは、もうそんなにはいらなかった。ただ、ちょっと緊張感があったためそのように言っただけだった。

 そこのホテルに隣接されている宿舎に向かう。あたりは暗く、雪のためか音が消されている。その反面、ぼくらの足音が行進する兵士のような音をたてた。

 そこに着くと、彼女が扉を開け中の様子をうかがった。なんだかなれているような気もしたが、あまり考えないことにした。実際、そんなに考え続けることが出来るような状態でもなかった。だが、ほんの少し多恵子のことを永久に思い続けるであろう自分が消えてしまうことに、愕然とし嫌悪も感じた。きれいには、清潔には生きられないものである。

 彼女は、後ろを振り返り、誰もいないことを確認したのであとについてきて、という素振りをみせた。それで、ぼくも静かに靴を脱ぎそのまま従った。

 彼女は、自分の部屋の扉をあける。そこは無機質なつくりの部屋のはずだが、やはり女性らしくカラフルなものに変容していた。ぼくは、座る位置を探していたが、いつの間にかクッションを手渡され、その上に座った。部屋には、小さなラジカセがあり、音量を最小にしてその当時はやっていた曲がかけられた。

 彼女は、備え付けの冷蔵庫から缶を二つ出し、ふたを開けるよう両方ぼくに差し出した。ふたつとも開け、片方を彼女の手に渡す。冷えた身体でありながらも、ぼくは唇をそっとつけた。その喉越しにはまだ快適なきもちが残っていた。

「きれいに整理されているんだね」と、手持ち無沙汰になり自分は言った。
「そう?」と、その部屋を君江は首だけで一周、振りかえるしぐさをした。

 あとは、缶をすべて空にすることもなく、ぼくらは横たわった。彼女の、肩も首も腰もこわれてしまうぐらい華奢であることをしった。ぼくは、どうしようもなく優しくされることを望んでいたのだろう。そして、忘れることができるなら、どこか遠くに多恵子のことを放り投げてしまいたかったのだろう。

 ぼくは、いつの間にか目の隅から、涙が流れていることをしった。その場の男性としては、ありえないことかもしれなかった。