38歳-28
ぼくにとって印象的だった記憶が、異性というフィルターや年代というものでろ過すれば別々のものであり得るという状態も起こる。ある出来事は共通の記憶だ。例えば、大地震や大事件。記憶という付属物をつけても、それ以上の推進力をそれらは独自にもっている。
ぼくは絵美と思い出を語り合っている。あの野球の名勝負とか、サッカーの試合ということがふたりの間では交換できない。それは淋しいことでもあるが、同時に、求めていないというのも事実だった。ぼくらには同性の友人もいて、いつか落ち着いたときにこれらを語ればいい。ある過去の同じ時間を同じものに視線を向けた戦友として。
だが、当然のこと、同じことを経験しても単純に楽しい、とか、悲しいということでも分かれてしまう。それは大げさだろうか。退屈という両方と密接にある中間地もある。ぼくのため込んだ思い出も誰かに話せないので、ひとりだけのものであった。
ぼくは書き記していないだけで、男性の友人たちとの時間も多くつくっている。それはロマンスにならず、文字としても匹敵しないという観点で抜き取ってしまっている。だから、どこかいびつにも見えている。もちろん、多くの時間は仕事と通勤と睡眠にも費やされている。この美が含まれないことたちに一日の大半は所有されているのだ。ぼくがここまで記してきたことは小さなものを拡大視させているだけなのだ。本来のぼくはここにはいなく、不機嫌やむっつりとした顔で職場や通勤する車内で過ごし、あるいは口を半開きにして眠っていることだろう。文字にするにも値しないことたち。
ぼくは絵美が横にいながらも友人たちと熱心にサッカーの試合について語っていた。ぼくが見た最高の試合という定義で。あの夜明け前のような時間にテレビをつけている。試合をあきらめるということは誰でもしそうな展開である。その誘惑に流されてしまうのは簡単なことだった。だが、テレビのなかの十一人とひとりの監督はそのことを必死に拒んだ。テレビのこちら側は試合がもう決まっていると思っている。その時点でリモコンのスイッチで画面を消しても良かったのだ。でも、そうしなかった。すると試合はまったく別の様相を帯び、逆転して、スタンドも歓喜につつまれる。ぼくはそのスタンドにいたように興奮を引き戻し、話していた。絵美は耳の片方ぐらいで聞いているらしい。ぼくの興奮も彼女にとって寒々しいものであった。
「あの試合、良かったよね」
友人は納得する。ぼくらには共通した思い出があった。
話にも飽きるとぼくらは店のなかにあった画面を見る。もっと劣った最近の試合が流されている。ボールはゴールのはるか頭上を越え、選手も苦笑いのようなものを見せていた。必死さも垣間見られず、例えば、草野球に興じるお父さんたちのような冒険心のなさがそこにあふれていた。ぼくは画面から目をそむけた。
ここまで来てあのような過去の高貴な瞬間はわずかしかないのだ、と言おうとしている。あとはおよそ怠惰と惰性となれ合いで構築されているのだ。通勤に冒険など決して必要ではなく、ただ時間通り順調に運ばれることだけを願っている。そこにアクシデントも運命も恋心も、はっきりと必要ではなかった。ぼくらは非日常になれるこれらの瞬間を求めつつ、ほとんどはいつも通りということを望んでいた。
ぼくに数回だけ訪れた輝かしい日々たちを、あえて煮詰めて料理したかのように皿に並べている。しかし、流しには使われなかった多くの食材の切れ端が無造作に放り込まれている。突きつめて考えれば、あのなかに本来のぼくがいるとも言えた。仕事帰りに寄ってコーヒーを飲みながらただぼうっとした時間。ドラッグ・ストアでシャンプーの銘柄を選んだだけの時間。爪が伸びたなと思いながら切ろうかどうしようか迷った数十秒。それは、でもドラマだろうか? 書くに値することたちなのだろうか。
友人と知り合いの女性と絵美はテレビの話をしている。架空の居住空間にいる異性たちの恋の進展を見守る番組のことを。ぼくは自分に関係ないひとびとのことを、興味もわかないまま聞いていた。画面はアメリカン・フットボールに変わっていた。イングランドの紳士たちが考えたであろうスポーツの足かせ、こんなに機能的で便利な手をつかってボールを移動させてはいけないとか、自分より後ろにしか投げられず、イレギュラーしか起こさない楕円のボールを操るとかのものに比べ、そこには生産的で効率的なことしか見られなかった。ぼくは能率的なことを求めていなかった。変えられない過去を、やはり楕円のボールのようにあちらこちらに転がしてその行き先を茫然と眺めたり、不規則性にあきれたりしている。あれ自身がぼくの過去なのだろう。もっと早く、ひとつひとつのそれぞれをトライという形に持ち込めばよかったのだ。しかし、しなかった。
ぼくらは外に出る。そこにいると気付かないタバコのにおいが自分の衣服にしっかりと染み付いていることにその場で気付く。周りにはタバコの煙などなかったようにも思えたが、意識しなかっただけで、多くのひとが肺に煙を吸い込んでいたのだろう。
絵美と並んで歩く。今日という夜という題で作文でも書くよう促されたら、ぼくらの視点はどれほど似通っていて、どれほどの相違を与えてくれるのだろう。ぼくの右に絵美がいた。絵美の観点に立てば、ぼくは左にいた。空には月がある。ぼくは円に近いと考える。彼女はもっと欠けていると見るのか、もっと満ちていると見るのか、スピードとか効率とかが割り込めないどうでもよいことをぼくは考えつづけていた。
ぼくにとって印象的だった記憶が、異性というフィルターや年代というものでろ過すれば別々のものであり得るという状態も起こる。ある出来事は共通の記憶だ。例えば、大地震や大事件。記憶という付属物をつけても、それ以上の推進力をそれらは独自にもっている。
ぼくは絵美と思い出を語り合っている。あの野球の名勝負とか、サッカーの試合ということがふたりの間では交換できない。それは淋しいことでもあるが、同時に、求めていないというのも事実だった。ぼくらには同性の友人もいて、いつか落ち着いたときにこれらを語ればいい。ある過去の同じ時間を同じものに視線を向けた戦友として。
だが、当然のこと、同じことを経験しても単純に楽しい、とか、悲しいということでも分かれてしまう。それは大げさだろうか。退屈という両方と密接にある中間地もある。ぼくのため込んだ思い出も誰かに話せないので、ひとりだけのものであった。
ぼくは書き記していないだけで、男性の友人たちとの時間も多くつくっている。それはロマンスにならず、文字としても匹敵しないという観点で抜き取ってしまっている。だから、どこかいびつにも見えている。もちろん、多くの時間は仕事と通勤と睡眠にも費やされている。この美が含まれないことたちに一日の大半は所有されているのだ。ぼくがここまで記してきたことは小さなものを拡大視させているだけなのだ。本来のぼくはここにはいなく、不機嫌やむっつりとした顔で職場や通勤する車内で過ごし、あるいは口を半開きにして眠っていることだろう。文字にするにも値しないことたち。
ぼくは絵美が横にいながらも友人たちと熱心にサッカーの試合について語っていた。ぼくが見た最高の試合という定義で。あの夜明け前のような時間にテレビをつけている。試合をあきらめるということは誰でもしそうな展開である。その誘惑に流されてしまうのは簡単なことだった。だが、テレビのなかの十一人とひとりの監督はそのことを必死に拒んだ。テレビのこちら側は試合がもう決まっていると思っている。その時点でリモコンのスイッチで画面を消しても良かったのだ。でも、そうしなかった。すると試合はまったく別の様相を帯び、逆転して、スタンドも歓喜につつまれる。ぼくはそのスタンドにいたように興奮を引き戻し、話していた。絵美は耳の片方ぐらいで聞いているらしい。ぼくの興奮も彼女にとって寒々しいものであった。
「あの試合、良かったよね」
友人は納得する。ぼくらには共通した思い出があった。
話にも飽きるとぼくらは店のなかにあった画面を見る。もっと劣った最近の試合が流されている。ボールはゴールのはるか頭上を越え、選手も苦笑いのようなものを見せていた。必死さも垣間見られず、例えば、草野球に興じるお父さんたちのような冒険心のなさがそこにあふれていた。ぼくは画面から目をそむけた。
ここまで来てあのような過去の高貴な瞬間はわずかしかないのだ、と言おうとしている。あとはおよそ怠惰と惰性となれ合いで構築されているのだ。通勤に冒険など決して必要ではなく、ただ時間通り順調に運ばれることだけを願っている。そこにアクシデントも運命も恋心も、はっきりと必要ではなかった。ぼくらは非日常になれるこれらの瞬間を求めつつ、ほとんどはいつも通りということを望んでいた。
ぼくに数回だけ訪れた輝かしい日々たちを、あえて煮詰めて料理したかのように皿に並べている。しかし、流しには使われなかった多くの食材の切れ端が無造作に放り込まれている。突きつめて考えれば、あのなかに本来のぼくがいるとも言えた。仕事帰りに寄ってコーヒーを飲みながらただぼうっとした時間。ドラッグ・ストアでシャンプーの銘柄を選んだだけの時間。爪が伸びたなと思いながら切ろうかどうしようか迷った数十秒。それは、でもドラマだろうか? 書くに値することたちなのだろうか。
友人と知り合いの女性と絵美はテレビの話をしている。架空の居住空間にいる異性たちの恋の進展を見守る番組のことを。ぼくは自分に関係ないひとびとのことを、興味もわかないまま聞いていた。画面はアメリカン・フットボールに変わっていた。イングランドの紳士たちが考えたであろうスポーツの足かせ、こんなに機能的で便利な手をつかってボールを移動させてはいけないとか、自分より後ろにしか投げられず、イレギュラーしか起こさない楕円のボールを操るとかのものに比べ、そこには生産的で効率的なことしか見られなかった。ぼくは能率的なことを求めていなかった。変えられない過去を、やはり楕円のボールのようにあちらこちらに転がしてその行き先を茫然と眺めたり、不規則性にあきれたりしている。あれ自身がぼくの過去なのだろう。もっと早く、ひとつひとつのそれぞれをトライという形に持ち込めばよかったのだ。しかし、しなかった。
ぼくらは外に出る。そこにいると気付かないタバコのにおいが自分の衣服にしっかりと染み付いていることにその場で気付く。周りにはタバコの煙などなかったようにも思えたが、意識しなかっただけで、多くのひとが肺に煙を吸い込んでいたのだろう。
絵美と並んで歩く。今日という夜という題で作文でも書くよう促されたら、ぼくらの視点はどれほど似通っていて、どれほどの相違を与えてくれるのだろう。ぼくの右に絵美がいた。絵美の観点に立てば、ぼくは左にいた。空には月がある。ぼくは円に近いと考える。彼女はもっと欠けていると見るのか、もっと満ちていると見るのか、スピードとか効率とかが割り込めないどうでもよいことをぼくは考えつづけていた。