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物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-31

2014年05月27日 | 11年目の縦軸
16歳-31

 ぼくは後悔という意味や感じ方、その言葉がもつ概念をまったく知らなかった。幼いころに戻る。五十円というお小遣いが半ズボンの前の足の付け根あたりのポケットにある。ぼくにとって大切な資産であり、大げさにいえば世界のすべてだった。

 ぼくは近所の駄菓子屋の前につき、何かを買おうとした。しかし、お金はなかった。ポケットに穴も空いていなければ、逆立ちもしてない。ぼくの世界はあっけなく消滅したのだ。喪失の打撃のピークはここからこれまで更新されていなかった。

 なぜ、新たなものを追加してしまったのだろう。そして、オーダーは、次の調理を手ぐすね引いて待っている厨房に通ってしまったのか。キャンセルというのはどの時点まで有効だったのだろう。
 更新したからといって、彼女は決して五十一円ではない。微々たる増加ではないのだ。棒高跳びの記録を一センチずつ増やしているのでもない。五億円でも足りない。五十億円でも足りない。では、例えとしてぼくがいまその金額をもっていたとしたら、あの状況に戻れる権利と交換するのであろうか。おそらく、そうするしか道はないのだろう。では、いまのぼくはこの過去のトンネルを通過した自分ではないのか? これは誰なのだ。この机の前にすわっているのは喪失のなんたるかを知っていて、明らかに、さらにきちんと表明しようとしている自分ではないのだろうか。すべての経験は避けがたく、だから、かつ美しい。

 何もしないということは罪であり、ぼくは何もしないということで正当な罰を受ける。

 例えば、車を走らせていたとする。給油のタイミングはいつでもあった。次の道路を曲がったところでと考えていたら、あるところから、ひとつもなくなってしまったことに気付く。だが、もう遅い。ガソリンはのこっていない。油断というのは愚かさと利口さの狭間でおしゃべりもせずに準備して決行を待ちかまえている。

 ぼくは自分のずるさと怠惰をひとつの美談にしようとしている。

 最後のデートをした。最後だと思っているのはいまの視点の上であり、その当時はデートのひとつだった。ぼくはその後、友人たちと隣町でお酒を飲んだ。今日、デートしてきたんだ、という自慢げな気持ちもあったことだろう。

 次の日になる。なぜか、電話をしない。楽しかったという短い感謝の報告もしない。次の日も。あさっても。来週も。

 ぼくらにとって大事なイベントがある。ぼくはクリスマスのプレゼントも確かに買った。中味は覚えていない。だが、ぼくは渡すために会う予定を作らなかった。バイトは大晦日までした。普通は、新たな年を初詣というイベントで彩ることも可能であった。だが、不思議とぼくは彼女に連絡しなかった。もちろん、嫌いになった訳でもない。そして、彼女からも連絡はなかった。ぼくがキライになったとでも思ったのだろうか。確かめる術もない。

 バイトの仲間とレストランで今年の最後の日に騒いだ。ひとりはぼくに気のある素振りをした。隠すフリでもなく、声高に宣言するわけでもない。若さというのはいじらしいものである。あの時代の若者はと限定しての話なのだが。

 ひとりで帰るときにも公衆電話は無数にある。インフラという言葉など知らなかったころだ。だが、ぼくは受話器をあげず、コインも投入しない。そのことに焦りもしなかった。ただ、ちょっと期間が空いてしまっただけなのだ。また、もとの状態になることは簡単なのだ、と信じていた。世界の運行が停まったわけでもない。軌道を数ミリ修正するだけで、ぼくらにはあの日々が、いとも簡単に復活するのだ。

 だが、やはり、きっかけは男性が作るべきなのだろう。彼女を安心させる言葉を吐き、お詫びの気持ちも告げる。言葉や優しさをともなう表情しか能弁になる方法はない。ぼくは、しかし躊躇していた。いや、ためらう前から行動に移そうともしていなかった。

 自分になにが起きていたのか。ミスを選んだという認識ももてない。ただ、しなかった。言いつけを守ったとか、誓いを立てたとか、何かの基準の前後や左右を考えてのことではない。ただ、しない。彼女からもかかってこない。もし、一回でも電話があれば、「あれ以来、会ってなかったね。どうしてだろうね」と無自覚な反省に似たものを伝えられたかもしれない。もっと大人の女性は、しつこくぼくの気持ちを確認するための質問を投げかけただろう。すべての失敗を若さの所為にする。若さというぼんやりとしたものの迷惑も考えずに。

 こうして次の年になった。阪神のすばらしき優勝の年も過去のものになってしまう。あの道頓堀に落ちた白いメガネ姿の人形をぼく自身の投影と考える。ぼくは、ここでも自分の失策をごまかそうとしている。そのことにもかろうじて失敗する。

 ぼくはあの日々を極限まで美しくするために、あえて、無意識にでも途絶えさせようとしていたのか。しおれる前の花として。そのためであるならこうむった被害もかなり大きなものだ。そして、この今日まで覚えているぐらいだから成果はあったのだともいえる。ぼくは被害者のフリをしている。彼女にとってみれば加害者である。また同時に両者とも罰を受け、両方とも若さという永遠性を閉じ込める努力を精一杯ながらして、むごさとともに勝ち取った。
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