爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 27歳-31

2014年05月28日 | 11年目の縦軸
27歳-31

 ぼくは自分の感情を問われる立場にいる。ハンバーグが好きかどうかの類いの話ではない。その作ったひとへの気持ちだ。忠誠心に似たものだ。ぼくは問われるたびに子ども時代はもっと簡単だったなと過ぎ去った月日をなつかしむことになる。少女たちは、そんなことは訊かなかったのだ。困れば、泣いたり、怒ったり、自分の母に言いつけたりする。めぐりめぐってぼくは自分の母から注意される。女性はか弱い生き物なのだそうである。配慮を多分に要する。ぼくは布団叩きで何度も、そのか弱い側から自分の尻を叩かれた。それでも、簡単だった。痛みとともに理解の扉の開閉は無事にすんだ。恨みもなにもない。

 なぜこうも複雑になってしまうのだろうか。好きとか嫌いになる感情が、ラジオの波長のように一定していないためであろうか。それとも、男女の感情の表現の仕方や受け止め方の単純なる差であろうか。

 質問と答え。質疑応答。誰もこの関係の正しい解答を教えてくれなかった。手探りでみな対応してきたのだ。失敗を繰り返したのかは知らないが、離婚する友人も増えた。学校を辞めるという選択とどちらが重いのであるかと片方しか経験していないぼくはひとしきり考える。

 ぼくは答える。好きである。ひとつの答えしかないはずだが、正解ではないようで相手は不服そうである。かけ算ならば間違えようもない。きちんと答えはでているのである。

 一先ずぼくに猶予が与えられる。第二審がある。弁護人は自分だけであり、判決の権利は相手がもっている。

 ぼくらはまだ部屋にいる。名作と言われている本のあらすじを紹介する番組を希美とふたりで見ていた。主人公はある日突然、虫になり、周囲との関係性がもてないまま疎んじられていく。

「うらやましな」というぼくの無神経な発言が、不本意ながらもあらそいを再燃させる。
「もう、全部、面倒くさいんだ!」
「違うよ」
「なにが違うの?」

 ぼくは即答もせずに、叱責という文字の書き順を考えていた。自分に口があることを呪う。話すことも弁解することも、しかし、これでしかできない。なぜ、名作であるのか訥々と解説者は述べている。ぼくは説明が長引けば長引くほど、再読したいという気持ちを失わせていく。みな置かれた状況から片時も逃げられないのだ。

 テレビは次の番組になった。覚せい剤というものが持ち出されている。生涯、少なくとも今後、九時から五時まで会社に拘束されることもないひとたちの得たい自由というものがぼくには分からなかった。もう充分過ぎるほど手に入れているのではないのか。その自由の制限の歯止めはどこまで効かせる必要があるのだろう。こう考えつづけると、ぼくには自由などまったくないようだった。そして、自由を望んだ瞬間に、この希美との関係も潰えるのだという我が身に起きる淋しさの本質の到達の予感におびえた。

 でも、考えてみれば自由を薬に頼った結果、牢屋という自由のなさの象徴のようなところに閉じ込められるのだ。不思議なものだ。ぼくのある友人は離婚して、次の再婚相手はまた同じようなタイプだった。ぼくには彼女たちの指摘できるほどの差が分からない。彼にとっては、とても重要な問題であるのだろうが。別の種類の自由を誰しも望むものなのだ。

 そういう彼女はぼくに惜しみなく愛情を表現した。だが、結婚の意思の返答は、どちらにするにせよ返ってこないままだった。ぼくは責められるのには慣れていったが、反対のことはしたくなかった。彼女もか弱い側の住人なのだ。そもそも敵対することになるには、あまりにも魅力的な敵であったのだ。

 ぼくらは夕方の町を散歩する。向かい合わないで横にその姿を感じる。肩の位置や歩幅など本質ではないところでぼくらは確かに合っていた。しかし、隅々が合えば、大きな部分でも一致するのではないのだろうか。薄い紙に描かれた同じ二つの四角い絵の角と角を重ねれば、他の辺も必然的にぴったりと合うことになる。まったく同じ理屈だ。無理難題を求められてもいなくて、訊いて安心できることならこれほどた易いこともない。ぼくはどんなことでも言うべきなのだろう。

 目の前で男の子の乗る自転車がゆらゆらと揺れている。転びそうだなと思った瞬間には、もう転んでいた。男の子は手とひじ辺りを強打する。泣くかどうか検討するような間があった。母らしきひとが近づくと、彼の緊張はゆるみ、遠くにいるぼくらまで声がきこえた。
「泣いちゃったね。痛そうだったね」と、希美は言う。

「泣かないの、男の子なんだから」近づくぼくらには母のその声も聞こえる。そばには姉らしき赤いスカートの少女もあらわれた。即席の看護婦の役目を彼女は果たしたい意欲があった。

「ああいう理屈もどういうもんかね」
「なにが?」

「痛みなんて外的なものには、女性の方が全体的に耐えられるもんなんだよ。だから、何度もこりずに赤ちゃんを産むし」
「その理屈も、あんまり言わない方がいいと思うよ。紳士って、そういうことを口に出さないから紳士になれるんじゃないの」

 もうぼくらは痛がる彼の横を通過している。この子もいつか問われるのだ。自主的にか、懇願されてかは分からない。痛みにも馴れる。自由にも馴れる。そして、不自由を選ぶ。ぼくは、泣きたいときは泣いてもいいんだよ、と聞こえないぐらいの音声で発した。好きだよ、という言葉もこのぐらいの音量なのだろう、いつも、いつも。