27歳-28
自分の部屋を掃除していると、希美の角度によっては茶色に見える髪の毛が落ちていることに気付く。ぼくは彼女を愛していると思いながら、いったん、彼女から離れてしまったものには、もう愛着などないことを知った。すると、ぼくは対象のどこまでを受け入れているのだろう。どこから拒絶されても仕方がないことたちなのか。ぼくは掃除機の口をそこに向ける。勢いよくその細い物体は吸い込まれていく。だが、完全にこの部屋からなくなるのには毎日、掃除をしたとしても数か月を要するかもしれない。細かいものはそうやって生き延びていくのだ。
ぼくは飲み終えたビールの缶もビニール袋に入れてまとめた。これも中味がぼくを酔わせて快適にしてくれたのだが、外側だけになれば何の意味もないものだった。企業のラベルやロゴが印刷され、ぼんやりと色合いだけで会社も判断できる。ぼくは袋の口をしばって集積所に置いた。すると希美が歩いてきた。ぼくは彼女を迎えるために掃除をしたようなものだった。
「こんなに、飲み過ぎてない?」
その集積所にはほかのひとの分も先に置いてあった。
「これだけだよ、あとは別のビール好き」
ラベルや銘柄だけではどこの国のものか分からないものもなかにはあった。ベルギーだかドイツあたりのものだろう。こだわるということは手間暇のかかることだった。そして、そのことで何人もの手が介在し、だから仕事と呼ばれるものが生まれるのだろう。なにもしないということは苦痛なのだ。多くのひとにとって。ぼくは掃除をして家からいらなくなったものを捨てる。
テーブルのうえに希美が買ってきたパンが並べられる。香ばしいにおいがする。彼女はコーヒーをいれた。いままでだったら当然のこと幸せだったと思うひとときだった。だが、ぼくが希美と結婚したいと言い、その返事がないことによって、ぼくらの間に保たれていた恍惚なる均衡にひびが入ってしまったことをぼくらふたりは知っていた。ものごとのほとんどがタイミングだけでできているような気もする。ぼくらは背中に糸くずがついていると指摘されながらも、服を脱がない限り手がとどかないところにあることをぼんやりと知っていた。だが、ぼくらはどちらもそうせず、かといってそれそれの手を利用することを拒んでしまっていた。パンはその分、パサついているように感じられた。ぼくはコーヒーを切り上げ、ビールの缶をふたたび開けた。
先にもすすめないし、もう後戻りもできない状況だった。ぼくらは惰性というものの軽やかさと重々しさの両端にいるようだった。
ぼくらは黙って映画を見ていた。主人公の女性は白血病にかかり余命も長くないようだった。そのことが関わる人間の生き方を必然的に変えていく。優先すべきものは、その短くなってしまった命の時間を大切にすることのみになっていく。この期間をいくら楽しもうとしても、いっしょにいればいるほど終わりは近づいて行くのだという淋しさがもう消えないことを全員が知っている。かといって疎遠になるとか、縁を切るなどとは絶対に考えられない。新しいことをすればするほど、新しくすることも減っていく。
希美の鼻はすする音をさせている。ぼくはなぜだか集中できなかった。どれもこれもウソ臭さに溢れているようだった。突き詰めれば映画を見るという行為もウソを楽しめるかどうかにかかっているのだが、ぼくは塀の外から悲劇や喜劇を楽しめる環境に自分がいないことに気付いてしまっていた。
ぼくらはその後、抱き合った。魔法のような気持ちがなくなれば、それは野蛮な行為に過ぎなかった。ぼくの顔のほんの数センチ先に希美の顔があった。ぼくにはそうする権利があり、これがいつまでもつづくと思っている。悪意というものも、騙すということもぼくらの間には皆無だった。だが、厳然と白けるという感情はきっちりと間におさまった。
ひとがいままで好きだったものを嫌いになっていくという過程を成分のようなもので証明できたらと思う。塩気が足りないからちょっと足そうという安易なことででもいい。ぼくは、だが嫌いになどなれなかった。白々しいというものがそれでも確かに、わずかにあった。彼女は変わっていない。無論、ぼくも変わっていない。この普通だった関係を永続的なものに変えようとした結果、おかしな結末になった。いや、結末もまだ出ていない。
希美が靴を履いている。かかとがなかなか入らなかった。
「足、むくんだのかな?」と、希美は切なそうにいう。
「むりやり、いれても痛いだけだろう」ぼくは玄関にすわる希美の肩辺りにむかって立った姿勢のままそう言った。
「裸足で帰れないじゃない」むっとしたような口調で彼女は答えた。先ほどまで、数センチ先にあった身体の所有者とは思えない口ぶりだった。
「脱げたんだから、また、はいるだろう」
「あ、はいった」彼女は立ち上がり、振り返る。ぼくは屈んで彼女の唇に自分のそれで触れる。彼女は戸を開ける。夜のひんやりした空気がなかに忍び込もうとした。「じゃあね」
「また。気をつけて」
ぼくはいつもなら駅か、せめてもその途中まで送ることになっていた。決まり事でも約束でもないが、大体はそうしていた。だが、なぜかぼくはその日はそうしなかった。もし、彼女が先ほどの映画の大病をわずらう主人公であるならば、ぼくは一瞬でさえ彼女の時間を失うようなことはしなかっただろう。ぼくらはドラマティックにもできていないし、劇的になるような背景の音楽も響かすことはできなかった。
ぼくは何枚かの皿を洗い、いくつかのグラスをすすいだ。また増えた空き缶を袋に入れる。中味を楽しむためにこの軽い外側があるのだ。ぼくはそのひとつを握りつぶした。缶は悲鳴もあげなければ、抵抗もしない。ちょっとした不愉快そうな口調だけでぼくのこころは戸惑っていた。これも、好かれたいとか、好きであるという感情がある証拠なのだろう。ぼくはいま追いかければどこら辺で彼女に追い着くのか空想したが、実行にはうつさなかった。実行しなかったものは結局、世界は認めないのだ。譜面としてとどめなかったメロディー。白血病を根絶させる薬。あのときというきらびやかな瞬間の手前。
自分の部屋を掃除していると、希美の角度によっては茶色に見える髪の毛が落ちていることに気付く。ぼくは彼女を愛していると思いながら、いったん、彼女から離れてしまったものには、もう愛着などないことを知った。すると、ぼくは対象のどこまでを受け入れているのだろう。どこから拒絶されても仕方がないことたちなのか。ぼくは掃除機の口をそこに向ける。勢いよくその細い物体は吸い込まれていく。だが、完全にこの部屋からなくなるのには毎日、掃除をしたとしても数か月を要するかもしれない。細かいものはそうやって生き延びていくのだ。
ぼくは飲み終えたビールの缶もビニール袋に入れてまとめた。これも中味がぼくを酔わせて快適にしてくれたのだが、外側だけになれば何の意味もないものだった。企業のラベルやロゴが印刷され、ぼんやりと色合いだけで会社も判断できる。ぼくは袋の口をしばって集積所に置いた。すると希美が歩いてきた。ぼくは彼女を迎えるために掃除をしたようなものだった。
「こんなに、飲み過ぎてない?」
その集積所にはほかのひとの分も先に置いてあった。
「これだけだよ、あとは別のビール好き」
ラベルや銘柄だけではどこの国のものか分からないものもなかにはあった。ベルギーだかドイツあたりのものだろう。こだわるということは手間暇のかかることだった。そして、そのことで何人もの手が介在し、だから仕事と呼ばれるものが生まれるのだろう。なにもしないということは苦痛なのだ。多くのひとにとって。ぼくは掃除をして家からいらなくなったものを捨てる。
テーブルのうえに希美が買ってきたパンが並べられる。香ばしいにおいがする。彼女はコーヒーをいれた。いままでだったら当然のこと幸せだったと思うひとときだった。だが、ぼくが希美と結婚したいと言い、その返事がないことによって、ぼくらの間に保たれていた恍惚なる均衡にひびが入ってしまったことをぼくらふたりは知っていた。ものごとのほとんどがタイミングだけでできているような気もする。ぼくらは背中に糸くずがついていると指摘されながらも、服を脱がない限り手がとどかないところにあることをぼんやりと知っていた。だが、ぼくらはどちらもそうせず、かといってそれそれの手を利用することを拒んでしまっていた。パンはその分、パサついているように感じられた。ぼくはコーヒーを切り上げ、ビールの缶をふたたび開けた。
先にもすすめないし、もう後戻りもできない状況だった。ぼくらは惰性というものの軽やかさと重々しさの両端にいるようだった。
ぼくらは黙って映画を見ていた。主人公の女性は白血病にかかり余命も長くないようだった。そのことが関わる人間の生き方を必然的に変えていく。優先すべきものは、その短くなってしまった命の時間を大切にすることのみになっていく。この期間をいくら楽しもうとしても、いっしょにいればいるほど終わりは近づいて行くのだという淋しさがもう消えないことを全員が知っている。かといって疎遠になるとか、縁を切るなどとは絶対に考えられない。新しいことをすればするほど、新しくすることも減っていく。
希美の鼻はすする音をさせている。ぼくはなぜだか集中できなかった。どれもこれもウソ臭さに溢れているようだった。突き詰めれば映画を見るという行為もウソを楽しめるかどうかにかかっているのだが、ぼくは塀の外から悲劇や喜劇を楽しめる環境に自分がいないことに気付いてしまっていた。
ぼくらはその後、抱き合った。魔法のような気持ちがなくなれば、それは野蛮な行為に過ぎなかった。ぼくの顔のほんの数センチ先に希美の顔があった。ぼくにはそうする権利があり、これがいつまでもつづくと思っている。悪意というものも、騙すということもぼくらの間には皆無だった。だが、厳然と白けるという感情はきっちりと間におさまった。
ひとがいままで好きだったものを嫌いになっていくという過程を成分のようなもので証明できたらと思う。塩気が足りないからちょっと足そうという安易なことででもいい。ぼくは、だが嫌いになどなれなかった。白々しいというものがそれでも確かに、わずかにあった。彼女は変わっていない。無論、ぼくも変わっていない。この普通だった関係を永続的なものに変えようとした結果、おかしな結末になった。いや、結末もまだ出ていない。
希美が靴を履いている。かかとがなかなか入らなかった。
「足、むくんだのかな?」と、希美は切なそうにいう。
「むりやり、いれても痛いだけだろう」ぼくは玄関にすわる希美の肩辺りにむかって立った姿勢のままそう言った。
「裸足で帰れないじゃない」むっとしたような口調で彼女は答えた。先ほどまで、数センチ先にあった身体の所有者とは思えない口ぶりだった。
「脱げたんだから、また、はいるだろう」
「あ、はいった」彼女は立ち上がり、振り返る。ぼくは屈んで彼女の唇に自分のそれで触れる。彼女は戸を開ける。夜のひんやりした空気がなかに忍び込もうとした。「じゃあね」
「また。気をつけて」
ぼくはいつもなら駅か、せめてもその途中まで送ることになっていた。決まり事でも約束でもないが、大体はそうしていた。だが、なぜかぼくはその日はそうしなかった。もし、彼女が先ほどの映画の大病をわずらう主人公であるならば、ぼくは一瞬でさえ彼女の時間を失うようなことはしなかっただろう。ぼくらはドラマティックにもできていないし、劇的になるような背景の音楽も響かすことはできなかった。
ぼくは何枚かの皿を洗い、いくつかのグラスをすすいだ。また増えた空き缶を袋に入れる。中味を楽しむためにこの軽い外側があるのだ。ぼくはそのひとつを握りつぶした。缶は悲鳴もあげなければ、抵抗もしない。ちょっとした不愉快そうな口調だけでぼくのこころは戸惑っていた。これも、好かれたいとか、好きであるという感情がある証拠なのだろう。ぼくはいま追いかければどこら辺で彼女に追い着くのか空想したが、実行にはうつさなかった。実行しなかったものは結局、世界は認めないのだ。譜面としてとどめなかったメロディー。白血病を根絶させる薬。あのときというきらびやかな瞬間の手前。