爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(19)

2011年01月16日 | 償いの書
償いの書(19)

「智美ちゃんと旅行をすることになった」と、裕紀は告げる。

 彼女たちは、同じ高校に通っていた。しかし、裕紀はその後、外国で生活することになり、縁は切れた。そして、ぼくを媒介にして再び仲が戻ったようだった。ぼくは、裕紀が楽しそうにしており、そのこと自体に期待を持っていることが嬉しかった。関係を終わらすきっかけを作ったのが自分ならば、それを修復させたのも自分だった。だが、今後はぼくがいるとかいないのとかに関わらず、ずっと友情を暖めてほしいものだと思った。

「その間、上田さんは?」
「さあ、出張にいくのと重なったとか言ってたと思うけど」

 ぼくらは、毎日のように話したが、2日間の空白のことを考えている。それは短いようでいて、長いようでもあった。しかし、ぼくは長い間、裕紀を失っていたことを確認する。あの時期に比べれば、どんなものでも長いとは感じることはないのだろう。

 その後、予定のいくつかを聞いたけど、とてもおぼろげで、趣旨としてはただ温泉に入って、部屋でたくさん話をしたいようだった。その話題のなかに自分や上田さんが入り込んでいることを想像する。裕紀は気の置けないひとに対して、ぼくへの評価や好悪をどう告げるのだろう? とそれを知りたく感じた。

 そして、ぼくも同じように誰かに裕紀のことを、根本的にどう思っているかを話すことをしてきたのだろうかと思い出している。ぼくは、それを上田さんに話し、山下にも語った。だが、ぼくが誉めたりする前に、彼らの方が、ぼくより一層彼女の優しさやこころの美しさを評価していた。自分は、それに頷いているだけで良かったのだった。

 ぼくは旅行前に智美に電話をして、いろいろとよろしくという漠然としたお願いをした。それに答えてくれたかどうかはもう憶えていないが、話はころころと別のものに変わり、最初の用件を電話を切る時点では忘れてしまっていた。智美と話していると、楽しいからなのか、そういうことが多かった。

 ぼくは、その間も普通に仕事をしている。温泉でのんびりするひとときも悪くないだろうな、と考えている。冬の冷たい木枯らしが外出先から戻った同僚の頬に痕跡として残っていた。彼らは赤い顔をして、直ぐに暖かいコーヒーを飲んだ。ぼくは、電話を応対しながら、その様子を眺めていた。

 それが終われば、ぼくも同じように外出する予定があった。こんな日は、外に出るのが億劫だったが、約束がある以上、仕方がないことなのだ。ぼくは上着を着て、ドアを開けた。

 外には服を着た小さな犬を散歩させている女性がいた。見るからに高級な服装に包まれ、寒さを避けるためのコートがはじめて着たかのように輝いて見えた。何度か見かけたことがあるので、軽く会釈すると、向こうも自然とそうした。
「忙しそうですね?」と、意外にも声をかけてきた。

「ええ、まあ、なんとか」と、答えになっていない発言が自分からでた。そのひとは、ぼくのことをどこかで見ているのだろうか。そのビルのそばに住んでいれば、ぼくが外出する姿も見たのかもしれない。

 少し、呆気にとられながら、ぼくはカバンを抱え込み、体温が寒さに負けないように工夫した。しかし、もう直き春に変化する予兆もあった。

 1泊の予定だったので、翌日の夜には裕紀たちはそれぞれの家に戻って来ていた。ぼくは、電話でそれを知り、楽しかったかどうかを尋ねた。裕紀は、また交友がそれも段々と深まっていく交友がもてたことを喜んでいた。ぼくと裕紀との関係が途中で中断されたのならば、智美とも同じことだったのだ。たくさんの会話をして、たくさん笑い合ったと言った。ぼくは、その様子を想像していた。彼女たちはテーブルに向かって座り、宿の浴衣なんかを着ながら、口を休めずに語らっている。いつまでも眠らず、布団にはいっても話は終わらない。それは、修学旅行の夜のようなものだった。

 翌日の夜には智美からも電話がかかってきた。
「あの子を、大切にしないと駄目だよ」
「充分すぎるぐらい、している積もりだけど」
「どこがいいんだろう、あの子、ひろしのことがとても好きみたい。あんたの良いところというのか、長所というのか、たくさんのもをあげつらっていた」
「そう、そう言われると恥ずかしいね」
「だから、もっとそれ以上に大切に思わないと」
 しかし、自分にはそれ以上愛することなどできないぐらいだと思っていたのだ。その限界を女性たちは不確かな要望で求めて来ていた。そこには、理論や理屈はなかった。ただ、情緒だけがあるらしかった。

 それ以降も会話は続き、上田さんのことや、彼の仕事のことなどを話した。ぼくは、直接訊けないが確かに発せられた裕紀のぼくへの思いがどのようなものかを、ぼんやりと反芻している。ぼくが過去に裏切ったことなど、もう憶えてもいないのだろうか。それとも、忘れるために必死にぼくを愛すると決めたのだろうか。ぼくは、愛されている事実というものが、目に見えない分だけ逆に不安になった。それを、丁寧に扱おうと願えば願うほど、壊れてしまう存在なのかもしれないと、愛情というものの無防備さを悲しく感じた。

償いの書(18)

2011年01月15日 | 償いの書
償いの書(18)

 たまには地元から本社へ、社長が来ることもあった。彼は、ビジネスホテルに泊まり、何日かこちらの仕事ぶりを見て、帰っていった。その間に、自分の息子に会い、社内でいちばん融通の利くぼくを誘い、ホテルのそばの酒場で飲んだ。こっちの支店のために採用した社員を彼は一線を置いて考えているらしい。そして、外から来た自分を情報の提供者にしたかったのかもしれない。でも、もちろん仕事のことばかりを話題にしたのではない。

「近藤にも彼女ができたって、あいつらが言ってた」と、昨日会ったばかりの息子夫妻の話をしたあとに、そのことを付け足した。「本当なのか?」
「本当です」
「むかし交際したひとと再会したとか」

「その通りです。ちょっとイメージが違うかもしれないですけど、ぼくが一方的に別れる原因をつくったもので」
「お前にも、あの河口さんの前の歴史があったとはね」
「あのひと、どうしてます」彼女の店は、ぼくらの会社がオーナーだった。
「子どもを産んで、休んでいたらしいよ」
「そうですか、ついにお母さんですか」
「それも、きれいな」
「どっちだったんですか?」
「何が?」
「男の子か、女の子か」
「女の子だったかな。詳しくは知らない。又聞きの又聞きぐらいだからな」

 ぼくは、そのことを考えている。彼女が小さな女の子を抱いている姿や、手をつないで歩いている様子を想像する。ときには、叱り、ときにはなぐさめている格好なども。

「後悔してる?」
「さあ、分かりません。だけど、彼女の選択ですから。また、生まれてくる子どもの運命もありますからね」
「それで、今の子は?」
「優しい子です。雪代と比べても遜色ないぐらいきれいになっていました」
「じゃあ、オレが東京に送ったことを恨んではいない?」
「気にしてたんですか?」
「もちろんだよ、普通の感情をもってる人間だぞ」
「住んでみたら、なかなか良いところですよ」

「そうか」と言って、数杯酒をその後も飲み、社長はホテルに戻った。ぼくは、そこから電車を乗り継ぎ、家に帰った。裕紀に電話をかけ、数分だけしゃべった。それから、シャワーを浴び、明日の仕事の用意をしながら、また缶ビールを開けた。頭のなかには、雪代の表情があって、それは子どものいる姿ではなく、ふたりで海を見に行ったときの潮風に揺られている髪をはらいのけもしない表情だった。

 まだ、ぼくらの関係は新鮮なもので、すべてがフレッシュで生まれたてのような状態だった。どのように未来が形成されていくのかなにも心配せず、ただ、その現状に酔っているだけで良かった。そして、思い出が増えていくぶんだけ、ぼくにそれを蘇らせようとする記憶の意思があるような気がした。それは、いまの裕紀との関係よりも、思い出のほうが強く色濃く残っていた。ただ、雪代との思い出は、今後は増えていかないので、裕紀との思い出もいずれは追い越すことになるのだろう。そのことを、ぼくはまた強く願っていた。

 翌日も社長は支店に出社し、ぼくが外出する用があったので、ついでに帰りの駅まで車で送った。彼は、そういう職権を使うことを嫌うタイプだったが、ぼくは、引き下がらなかった。

「最短で安全な方法を使うべきなんだよ。この場合は、地下鉄で東京まで」と彼はなおも言っていた。
「でも、そのそばまで行く用が、ぼくにもあるんですから」
 実際に、この日は電車に乗るより早く着いたかもしれなかった。

 ぼくは、シートから降りて、後部座席の社長の荷物を引っ張り出して、彼に渡した。そして、そこに立ったまま駅の構内に消える社長を見送った。そこから、お客のいる場所まで行き、近くの駐車場に車を停めた。

 それから、ひとりで遅い昼食をとるために店に入った。店内には雪代が好きだった曲が流れていた。ぼくは、裕紀のことを愛し続ける決意でいたが、その思いはただ音楽が流れてきただけで、別の思いに変わるぐらい軟弱らしい。そして、小さなベッドに寝ている子どもを上から眺めている雪代のことを想像している自分がいた。その子の名前は、いったいどういう名前なのか? それが分からないとその存在をそれ以上に具体化させることは難しかった。

 こうして、地元の人間に会うと、すべてが雪代につながってしまう危険を感じた。ぼくは、それを恐れており、懐かしんでもいた。

 その日は、裕紀に会う予定があった。職場に戻る前にガソリンを入れ、レシートを貰った。女性の店員がきびきびと働いており、ぼくはその姿を目で追った。

「社長さん、来ていたんでしょう。上田さんのお父さん」と裕紀は言った。
「来てたよ。見ないとちょっと老けたかなという印象をもった。まあ、いつものようにエネルギッシュなのは間違いないけど。オレの父親もそうなのかな」と言って、裕紀の父がいないことを思い出した。「ごめんね」
「何が? ああ。気にしてないよ。そうだよね、生きていれば、そういうことも経験するんだよね」
 そして、ぼくは彼女に家族の大切さを思い出してほしいと考えている。自分がいて、裕紀がいて、雪代と同じように子どもが生まれてと。

「叱られたりしなかった?」と裕紀は尋ねる。
「誰に? 社長に? いや、全然されなかった。帰りに駅まで送ったときに、なんだか感傷的になったぐらいだよ」と、その様子を説明して、またほかの話題に移った。

存在理由(49)

2011年01月13日 | 存在理由
(49)

 ある日、才能が勝手に溢れ出てしまうような人間を見つける。その人に注目し、自分もああなりたいとも思うし、見習うべきなにかを嗅覚で感じ取り近づいたりもした。仕事で知り合った、デザイン会社の人にそうした男性がいた。ぼくと、同年代で物知りでもあった。世の中のさまざまな経験を通して成長する人間もいれば、才能のつまったスーツケースを絶えずズルズルとひきずるように生まれながらにして、もっている人もいる。うらやましい反面、厄介なものを与えられてしまったものだな、といまの自分は逆に思ったりもする。

 雑誌のデザインを刷新するよう前々から検討中でもあったのだが、ずるずると伸びていた。そのことを頭の片隅に置いておくようにとの命令があり、手垢のついていない人間を探すプランがあった。自社には、そうした人材がいなかったので、他社の人間にも視界は広がる。ある日、デザインを専属とする会社に出向いた。たぶん、その会社の違う人に用があったはずだが、忙しい人間の代わりに丁寧に応対してくれた人と話すことになった。

 出会いというものは、分からないもので、どのように大きく転ぶかは不透明なものである。その前の本来の用件である仕事は片付いたのだが、表紙の件は社内の中でも思案中であった。山本さんという丁寧な応対をしてくれた人とは、友人関係になり、いっしょに仕事が終わったあとも過ごすようになった。彼の夢は、絵をかいて生計をたてることだったらしいが、デザインでも優れていたので、仕事も数回依頼した。彼の仕事ぶりをみに、家まで行ったこともある。デザイン帳のようなものを見せてもらい、その溢れ出す才能に唖然とした記憶がいまでも鮮明にある。

 彼の近い将来の活躍を応援したくもあったが、こちらも自分が関わっている雑誌の体裁のことも念頭にあるので、彼のデザインを社内にもちかえり、相談することになる。会議でも検討され、それで見事に納まった。

 仕事をしてもらったことは嬉しかったが、彼のような才能は、そんなに日常的なことに追われなく、ゆとりの時間を多くつくってもらい、ゆっくりと仕事をしてもらいたいものだと考えた。考えて当人にも言ったりしたが、生活の心配や面倒にかかわらない自分にとっては、どうとでも言えたことだった。

 こうして、蹴落とすということなどはまったく介在しないライバル関係のようなものをこちら側で作り上げ、彼に張り合うような仕事を、いつか自分でもしてみたいものだと、単純に考えた。考えてみたが、もちろん、それは、机上の空論で急に変化が訪れるわけでもなかった。それより、人間に囲まれ、良い面や愛おしむべきもの、卑怯な面やたくさんの愛や悪意を知ってしまいたいということも、自分には強かった。つまりは、簡単にいえば人間の標本のようなものを作りたかったのだろう、自分の脳内と記憶の中でだが。

 ふるい考え方かもしえないが切磋琢磨のようなものがあり、彼を尊敬した。いつか成功が約束され期待されている人として彼を見た。

 そのころ、みどりと一緒に会ったりもした。彼女の誘いで、山本さんの友人も連れて行き、4人でサッカーを観戦したりもした。天候は晴れで、思いっきり声を出して応援し、その後、近くの店でたくさんのビールのジョッキを空けたこともあった。

「気難しいような人じゃない?」
「ぜんぜん。さっぱりとしている人だよ」
「だと、いいけど」と、会う前に彼女はいくらか心配した。決してそんなことは、いままでにはなかったのだが、自分があまりにもほめるものだから、警戒の気持ちが浮かんだのだろう。人は、将来の未知なるなにかに対して臆病になるときもある。

 このように、太陽のしたで、時間を過ごすことが好きなみどりは、同じことができる彼のことを気に入ったが、もっている才能までは理解していなかったかもしれない。

 そのように才能がある人なので、その後はたくさんの仕事の依頼があって、少しずつ疎遠になってしまったのだが、その時の自分はかなり心酔していたのだろう。その後も、美術館に出向いて彼の解説をききながら絵を見る楽しみが増えていったことも覚えている。だが、誰が現世的に成功するか、成功しないかの判断なんか、自分たちにはできないことだと身をもって知る。しかし、才能のスーツケースにものが詰まっているのならば、それを引き摺っていくしか方法はないだろう。

存在理由(48)

2011年01月12日 | 存在理由
(48)

 春になって、仕事も一年間が終わったことになる。同時に、新入社員も入り、後輩ができることになる。一年前の自分はあんなにもオドオドしていたのかと思うと、慣れというものが、世の中の全てのような気がした。それと、自分の継続した仕事もあり、辞めた人の仕事の引き継ぎもあって、さらには、新しく入った社員をひきつれて取材に行ったり、急に忙しくなってしまった。

 忙しくなれば、自分の余暇の時間が削られていく。外国ではきちんと休暇という制度が確立されている、とよく耳にする。耳にするが日本人には縁のないものらしい。それで、精神も乱さずに日常をやり過ごさなければならない。

 何人かの後輩を目にする。性急な判断というのは無意味なのかもしれないが、直ぐにでも役に立ちそうな人もいれば、どういう人事の判断があって入社したのか分からない人間もいる。それで、詳しく知らなければ、深く付き合わなければ理解できないなにかを持っているのだろう、という期待をもって見ることにする。

 期待をもつが実際の時間は、とれずにいた。だが、誰かに誘われれば極力、その誘いにはのることにしていた。米沢さんの部署にある女性が入った。数人の内輪での飲み会なので、盛り上がりが期待できないためか、ぼくにも声がかかった。自分には返事の決定権がないらしく、すでに行くことにはなっていたが。

 米沢先輩の目から見れば、ぼくだっていつまでも後輩であることには違いがなく、静かな瞬間を迎えたときに、ぼくの失敗を語って、笑いにつなげられた。とくに嫌でもないが、彼らの目から見れば、頼りない男性という目で見られてしまうのだろうかと、少なからず心配した。だが、覚えてもらうという点からみれば、成功なのだろう。彼女の目論見もそこらにあったのかもしれない。

 帰りが一緒になった彼女と久々に話した。
「ごめん。さっきは」
「なんですか、米沢さんが謝るなんて珍しいですね」
「あの子たち、なんか覇気がなくて、あんたの失敗の話でもしたら、自分たちもそんなことが許されると安心するんじゃないかと思って言ってみただけ。あとね、あんたのこと頼りにしてもいいよ、という売名行為でもあるし、自分の名前じゃないけど」
「へぇ、意外ですね。ぼくって頼りになるんですか」

「この会社の期待の星でしょ。社長と部長と気安く話せる人なんか、ここにいないじゃない」

 と、言われれば、さすがにそうかもしれないと考えるしかない。「このまま、もう一軒付き合わない?」と誘われた。かなり酔いは回っていたが、彼女とともにする時間は快適な刺激があるので、一緒にいると楽しいし、またとても勉強になった。そのような理由がもしなかったとしても、多分、いっていたのだろうが。

 米沢さんは先輩風を吹かせて、黙って私についてこい、という空気を出していた。それに付いてこない後輩に、ちょっとやる気が失せているのだろう。指示待ち症候群という言葉のようなタイプの人間に魅力を感じられないらしい。そのことを少しだけ愚痴りだした。このことも珍しいことだった。自分に後輩ができた面倒より、彼女の変化に驚いた。だが、すべての困難をいつか平らにならしてしまう彼女のことだから、いずれ解決するのだろう。ぼくは、となりに座って、ただうなずいたり、相槌をうったり、ほほ笑んだりしていればよかった。

 こうした具合だったので、彼女はおもったより自分の酔いに気づかなかったらしい。

「わたしの家まで送って行きなさいよ」という命令のもとタクシーに乗せ、米沢先輩のマンションまで連れて行った。今度は、「わたしが眠るまで、見届けなさいよ」と言ったが、すぐに寝た。電車もないので、ソファをかり、明日までの仕事を急に思い出し、ネクタイを緩め、それに取り掛かった。カバンから資料をとりだし、8割がたまとめたところで、記憶がなくなっていく。

 翌日、カーテンが開けられ、陽がさしている窓の眩しさを感じた。先輩はいつもの先輩にもどり、ぼくらの関係もいつもの関係に戻った。またもや、新しいYシャツがでてきて、「それ、あげるよ」と言われ一緒に出社した。コーヒーを片手に会社に早めに入り、残り2割分の仕事をかたづけ、採算はようやっとあった。そろそろ、24歳になる直前のある一日のことだった

償いの書(17)

2011年01月10日 | 償いの書
償いの書(17)

 妹の美紀が妊娠したと、山下から電話があった。

 それは、いつか来ることは分かっていたが、思ったより早かった。だが、それを聞きながらもぼくに生まれた感情は、ぼくと裕紀が育んでいる愛の象徴として、それが芽生えたのだと思っている。それが形あるものとして妹の体内に宿ったのだ。そのようなことを頭のなかでもてあそんでいる。でも、実際のところは、その子どもはぼくらとは関係のない意思のもとで育っていくのだろう。

 そして、もし生まれたら、ぼくはどれほど可愛がってしまうのだろうとも考えている。小さな彼や彼女は、すこしだけ大きくなり、親のもとから離れてぼくの家にはじめて泊まりにくる。不安になって泣いてしまうかもしれない。その情景には、裕紀も当然のように入っていた。彼女は、その子を懸命になだめている。それで、泣き止んだその子は、つかれて裕紀に抱かれて寝てしまう。

 ぼくは、そのようなことを想像しながら、自分の子どもがいる、ということは思い浮かべられなかった。ただ、そこには妹の子どもがいただけだ。

 ついでといっては何だが、ぼくは雪代の子どもがこの世界にもう現れているのか、知りたいとも思っていた。だが、その情報は誰もくれなかった。ただ、計算からいったら、もうその子は、雪代と島本さんのもとにいるはずだった。どれほどの愛嬌があり、どれぐらい賢い子になるのか、ぼくは興味があったが、なにをすることもできないのも同時に事実だった。ただ、離れた場所から、その子が不幸から守られていることだけを願っている。そして、同じように雪代も守られることを望んでいる。

 ぼくは頼まれてもいないのに、名前のことを考えている。名前を与えられないと、どう対象として愛情をもってよいのか分からなかった。そして、たくさんのひとが今までぼくの名前を呼び、ぼくはそれに答えたり振り向いたり頷いたりしたことを思い出していた。裕紀には裕紀という名前があった。それ以外では、もう彼女を考えられないのは当然のことだった。

 そして、名前がそれぞれの人間にぴったり合うことを確認した。

 ぼくは、仕事が終わり、裕紀にそのことを告げた。彼女も、とても喜んでくれた。もともと、小さな子どもの世話をするのが好きなタイプの人間なのだ。ぼくは、いままで会ってきたサッカー少年たちの話をして、東京に来る前にみなで撮った写真の話をした。
「今度、それ見たいな」と彼女は言った。
「見せてなかったっけ?」とぼくは返答するも、写真のなかに別の女性がいるかもしれないことも同時に考え、整理が必要なことを知る。そして、即答するタイミングを失ってしまう。
「こっちにあるんだよね?」
「あると思うよ。荷物に入れてきたから」だが、どこにあるのか押入れのなかを透視できるかのようにぼくは話しながら視線をそちらに向けた。

 何日か経って、彼女が来たとき、ぼくはそれと数枚の写真をテーブルにだしておいた。やはり、雪代の写真もそこにあった。裕紀じゃなければ、ぼくはそれを隠すこともなく、過去の1ページとして普通に見せたかもしれないが、いまのぼくらにとってもそれはデリケートな話だった。
「人気者みたいに見えるね」
「大体、そこから去るときは人気者になるもんだよ」
「このひとって、高校を辞めてしまった・・・」
「ああ、松田だよ。ぼくが練習を続けられなくなって、彼にゆずった」
「サッカー得意だったもんね」
「覚えてる?」
「覚えてるよ」
 その記憶の良さにぼくは戸惑うことになる。彼のことを覚えているぐらいなら、もっとさまざまなことを彼女の脳は記憶していることなのだろう。

「今度、裕紀の留学中の写真も見せてよ」
「いいよ、今度」と言って、彼女は大切なものを思い出すかのような視線で宙を見ていた。そこには、いったいどんな良い思い出があるのか、ぼくは計算して掴もうとした。
 また、何日か経って、妹がうちに寄った。
「子どものこと聞いたでしょう?」
「聞いたよ。良かったじゃない。おめでとう」

「まだ、出てからじゃないと」と、その状態になったことに馴れない様子で彼女は言った。ぼくは裕紀や幼馴染の智美にも伝え、彼女らも喜んでいることを告げた。彼女は、それらの言葉にも戸惑っているようなふりをしていた。

 ぼくは、孫をみている両親のことをあたまに描き、それを美紀に伝える。自分の子どもより、彼らが妹のこどもを先に抱くことを考え、もし、自分が結婚するなら、もう裕紀以外は考えられないことも、そのときに知ったのかもしれない。

「仲良くやってる?」
「誰と?」
「裕紀ちゃんと」
「そうだね。なんの問題もないよ」
「ずっと、大切にしないと」
「そうだよね、分かってるけど」
「雪代さんの赤ちゃんも生まれたのかな」
「さあ、分からない。誰も教えてくれないし」

 ぼくは、雪代の名前を出すことを後ろめたく感じ、あるときは警戒して話していることを知っている。また、そうした状態に置いていることを申し訳なくも感じている。だが、ぼくのなかに少しでも彼女への好意が残っているかもしれないことを、周りの人間がもっと警戒し、その芽を消そうとしていることを薄々とだが感じていて、ぼくは前科のある人間のように、多少、やりきれない思いもしている。

存在理由(47)

2011年01月09日 | 存在理由
(47)

 子供が、なんでも手に取るものを欲しがったりする。そこには、道徳観もモラルもない。ただ、性急な解決したい気持ちがあるだけだ。大人は、そうはいかないだろう。こうすれば、結果はどう転ぶか、簡単な計算をする。計算をして、それでも進んだり、計算の結末をおそれ、躊躇してしまうこともあるだろう。

 目の前に素敵な女性があらわれる。ただ、順番の問題だけは考えなければならない。もう片手には、離せないものをつかんでいる。さらに別の手が空いているからといって、その両方を所有することは無理だろう。

 さゆりさんという、今までに会ったことのないタイプの女性があらわれた。彼女は、自分の内面をすぐにさらけ出すようなことはしない。だから、彼女が自分のことを、どう思っているかは分からない。分からないので、そこには焦燥の気持ちが付け込んでくる。それに捕らわれると、逃げられなくなる感情がある。うまく切り出すこともできない。

 自然と、何度か会社への往復で会うことがあった。未知なる人ではなくなったので、話しかけたり、また話しかけられたりする。彼女も、単純にそのことを嬉しがっているような気もする。3度目に帰りが一緒になったときに、駅前の飲食店にさそった。それで、彼女も同意した。普段は、こまめに料理も作るそうだ。性格的にいっても、栄養のバランスのことを熱心に考えたり、カロリーの計算のことも念頭にいれてするそうだ。そういうことに無頓着である自分は、そのことを告げると軽く注意される。そこが、また彼女らしかった。

 今日も、お互いが手持ちの笑える話をもちあって話すということはなかった。職場の昼休みには、そうしたブームがあって、いくらかは人に話せるような話を収集していた。しかし、彼女の前で話して、気に入られようというような気持にはならなかった。
 それでも、気まずさみたいなものは一切なかった。かえって、言葉に頼らないところに緊密さのようなものが生まれる。不思議なものだ。しかし、そう思っているのはもしかして、ぼくだけだったかもしれない。

 ご飯を済ませ、別の店でお茶を飲んだ。彼女も甘いものが好きだった。ぼくは、それにはつきあわずアルコールを飲んだ。
「おいしそうだね?」と、ケーキを食べる彼女を前にして話す。
「食べる?」
「いや」
「ほんとにお酒が、すきなんだね」
 と、言われて今更ながら否定のしようがなかった。

 彼女は、最近あつかっている仕事の話をした。それを聞くと、彼女のもつ勤勉さや、まわりと調和した関係のことも見えるような気がする。それで、このような会話はとても、ぼくに満足感をあたえ、それを永続させたいような気分にもさせる。そのことが、確信を先延ばしにさせる余裕をあたえるのかもしれない。

 このようなことがあって、ある日、駅前のスーパーの前で袋を抱える彼女を目にした。声をかけようかと近付くと、彼女の前に同じ袋をかかえている男性が寄り、親しげに話し合いだした。その会話は聞こえなかったが、さゆりさんの暖かい笑い声と、うきうきした気持ちのあらわれが聞こえるような気がした。それで、ぼくは自然と後ずさり、声をかけるのをためらった。

 その様子をみてから、なんとなく顔を合わす機会が減ってしまった。わざと、自分で時間をかえてしまったのか、今になると覚えていないが、もし、みどりという存在がなかったら、どのように変化していたのだろう、と空想する時もある。しかし、失った以上のものが絶えず見つかるわけでもない。それでも、ならなかった自分ということが考えから離れずにつきまとってしまうこともある。さゆりさんのことも、こころの中のそのような引出しのひとつにしまってある。時間が経てば、自分がそのような経験をしたのか、それとも、自分の脳が勝手に作りだした空想の女性か判別できなくなってしまうような誤解もあるが、不図似ている女性にあうと、やはりたくさんの言葉を費やしても理解できない関係の虚しさを思い、磁力のように結びつきあう関係があっても良いかとも感じだす。恋愛という土俵にはあがらなかったが、自分では、ささやかな失恋のような軽いうずきと甘酢っぽさを思い出させる不思議なひとだった。それ以来、会うこともなくなってしまったが、同期からさゆりさんのこと好きだったろう? あの子、結婚したよ、と何年後かに言われた時はすぐに思い出せない自分がいて、自分自身の気持ち自体に戸惑ったことを思い出す。

償いの書(16)

2011年01月08日 | 償いの書
償いの書(16)

 ぼくらは思い出をひとつひとつ増やしていったとしても、やはり、もう8年も9年も前の人間ではないのだと、それぞれが感じるときもあった。彼女もこれまでさまざまな経験を通して作られたであろうきちんとした人格があり、ぼくにも、自分なりのこだわりや、執着みたいなものもあった。そして、それを同じ時間や長い期間を経て、道路を均すように問題をつぶしていったとしたら、簡単かもしれなかった。また、もし、再会ということではなく、はじめて出会った人間通しだとしたら、それは問題にもならなかったかもしれない。ぼくらには、かつて抱いていた理想みたいなものが、ぼんやりとだがあった。それを捨てた自分だから何も言えなかったかもしれないが、こころはそう簡単には折れてくれなかった。

 ただ、問題は単純だったのかもしれない。ぼくらは、もう学生ではなく、自分の時間にゆとりがなかった。会うべき時間に、お互いさまざまな用件が入った。最優先すべき事柄は互いのことではなく、仕事の相手の都合であったり、若かったときには必要ではなかったつまらない用事であったりした。

 彼女は、何度かぼくが約束をキャンセルしたときになじった。ぼくは、何度もあやまったがそれでも、数回はそれ以降も断る場面もあった。

「昔は、そうではなかった」と彼女は遠い日々を思い出すように言った。ぼくも、もちろんそんなことはしたくなかったのだが、過去のあの日と同じように時間がいくらでもあるのとは立場も違い、東京での自分の足場を作ることに精一杯だったかもしれない。

 そこに嫉妬らしきものも含まれていたのかもしれないと感じるときもあった。それは、時間や仕事に対してのこともあり、ぼくらの間に挟まっている女性へのことかもしれなかった。ぼくは、まだ大学生で時間もあったときには、もうひとりの女性とたくさん時間を使い尽くしたと考えているらしいことも予想できた。実際は、そんなことはなかった。雪代は東京で生活しており、ぼくらはたまにしか会えなかった。裕紀はそれを口に出さず、我慢強さを強いられたひとのように時おり放つニュアンスでしか、ぼくには伝わらなかった。

 だが、一面では、ぼくらは時間さえ会えば、お互いを大事に思っており、彼女も優しさの固まりのような性格を発揮した。
 秋から冬になり、彼女の服装がシックなものに変わる。

 ぼくらは喫茶店で待ち合わせをしている。ぼくが遅れてそこに着くと、彼女は足を組み、テーブルの上に広げた本を読んでいる。それで、ぼくが到着したことにも頓着せず熱心に本のなかに没頭しているようだった。長い髪が彼女の視線をさえぎり、ぼくはその様子を立ち止まってしばらく見た。
「なに、読んでるの?」
「ごめん、気付かなかった」

 それは待つことに慣れてしまった彼女の無言の抵抗のようにも思えた。ぼくはそれで意識して快活に振舞い、彼女を笑わせた。ぼくは、その笑い声をもっともっと聞く時間もあったのだと、埋めることのできない時間のことを常に考える。

 ぼくらは、たくさんの町を歩き、たくさんのこれから起こるであろう出来事や希望の話をした。いつのまにか、その未来像にはずっと彼女の存在があり続けることをぼくは確認する。彼女の話の端々にも、そのことがでてきた。彼女の、これから起こるさまざまなページにはぼくが入っていて、それは動かせない事実のようだった。

 町はイルミネーションで飾られるようになり、それをまた来年も見られるであろうかと話し合った。それは一年後のこともあり、2年や3年も先の話を別の話題ではするようになっていく。ぼくはひとりの女性を愛し続ける意思と義務があり、それを自分が行えることを喜んでもいた。こういったことが、妹がいったまっとうな人間であるということかもしれなかった。

 そして、彼女は店先で咲いている冬の赤い花の名前を教えてくれ、ぼくは、テレビでサッカーの試合を見ながら、その戦術の見事さを熱弁した。読み終えた本のストーリーを歩きながら彼女は話し、ぼくはビルを見ながら設計の巧みさを彼女に伝えた。

 それは高校生から絶たれたぼくらの時間を埋め尽くす作業であり、また、もう一度それぞれを必要とする存在であることを確認する行為でもあった。自分の中味のなにかが変わることはあるかもしれないが、やはり大事なものの核心は消えないということも知るのだった。

 彼女との思い出も5ヶ月、6ヶ月と増えていき、いつか離れていた期間を追い越すこともあるのだろうかと考えるようにもなっていた。それは計算というより願いのようなものだった。ある日、ぼくの部屋には彼女がにこやかに微笑んでいる写真が飾られ、彼女の部屋にもぼくのそれがあった。それを見て、ぼくは電話をした。彼女の声がぼくの左耳から入り、内面を温めてくれていた。東京で彼女がいなかったら、ぼくはどれほど淋しい思いをすることになったのだろうと今更ながら、存在の大きさを感じる。

存在理由(46)

2011年01月06日 | 存在理由
(46)

 何日か経つ。また、日常に戻る。誰にも会わず、のんびりとした日曜を迎える。シャワーを浴び、クリーニングを出し、喫茶店で時間を過ごす。それにも飽きて、本屋で立ち読みをしている。これ以上ない、非生産的な休日だ。新刊本を読んでいると、肩をたたかれる。後ろを振り返ると、さゆりさんがいた。

 彼女もカジュアルな服装をしていた。いつもと違っているのは、メガネをかけていることだった。普段は、コンタクトをしているのだろう。それで、印象が変わっていた。その彼女は、駅の反対側に住んでいることは知っていたが、大型書店は、こちら側にしかないので来たのだろう。

 本をもとの棚に置いて、世間話をする。それでも、物足りないので一緒に外に出る。寒さの薄らいでいる日だった。長く外にいる予定はなかったので、重い服装はしていなかったが、それでちょうど良かった。横に女性がいると、歩くペースに注意をはらう。それぞれ、彼女たちはリズムが違う。さゆりさんは、何事もゆっくりしているようだった。

 また、店にはいり紅茶を頼む。前を通ったことはあるが、一人ではなかなか入れそうもない様子の店だったが気になっていたので、今日はちょうどよいタイミングで店内もそう混んでもいそうになかったので、二人で入った。
「いつも、この辺をぶらぶらしているんですか?」と、問われた。

「どっかに出掛けることは多いけど、今日はまったく予定もみつからなくて、のんびりしちゃった」と、答えた。
 人を前にすると、空間がこわくて話し過ぎてしまうことが多々あった。しかし、さゆりさんの不思議なところは、そうした感情を人に与えないところだった。それで、自分の本来の静かなブルーに沈んでしまう気持も押し込めずに、素直にあらわすことができた。

 なので会話が飛び交って理解が深まるようなことはなかったが、それでも底辺では理解ができているのではないか、という安心感と気持ちの安定というものがあった。このような体験は、まれというか恐らく初めての経験だったので不思議な感じが自分でもした。

 夕方の時間は徐々に延びていたが、それでも、暗くなるのは早かった。財布には、ぎりぎり心配がないくらいの札が入っている見当だったので、勇んで彼女を誘った。それで特に予定もないとのことで、彼女は、一回帰ってからでもよいか、と聞いたので、それを断っても仕様がないので、了承した。

 入った店には、その頃の特徴のリズムばかり目立った音楽が流れていた。人の体内に自然に出来上がって調和するというより、わざと高揚させるような音楽だった。そればかり聴いていると疲労が蓄積されそうだが、少しの間であるならば、そう有害になりそうもなかった。しかし、はっきりいえば、今日の気分とは相容れなかった。

 ここでも、お互いが少しでも分かり合おうとして手の内を見せあうという関係ではないが、それでも、互いを水槽の中の熱帯魚を眺めるような自然な観察はできた。その慌てないところが、日曜の夜にはあっていた。そもそもの元気は、明日からの頑張りに譲ってしまおうと考えていた。

 こうして近所に、手近なところに話し相手がいるということは、こんなにいいものだと思っていなかった。そのことを言うと、彼女も暇なときは、気軽に声をかけてください、と言ったが、このような言葉をどこまで本気と考えていいのだろう。しかし、彼女は作為というものがまったく見えず、彼女の発する言葉は等身大の、そのままの大きさのような気もした。

 夜はすっかり夜としての正体をあらわし、乾燥した空気と多少のネオンを道ずれにあらわれた。簡単な挨拶を交わし、食事を終え、それぞれの家路についた。

 ひとりで歩いているときに、そのままの余韻にひたり、のんびりとした休日が、楽しい日に化けたことが嬉しかった。その原因でもあったさゆりさんに感謝するしかなかった。そして、みどりのことを、つかの間でも忘れてしまう時間が多くなる自分にも多少の愛想をつかした。

存在理由(45)

2011年01月05日 | 存在理由
(45)

 仕事が手につかず、はかどらない数日があって、やっと週末になった。土曜は早めに起き、昨夜、仕事帰りに借りたレンタカーに乗って、みどりの実家に向かおうとしている。このような予定は、嬉しい期待感に満ちたものではないが、他者との関係で人生を成立させる以上、だんだんと増えてくるものなのだろう。

 誰かの結婚式があり、誰かはどこかで亡くなり、それを見守るための視点が必要である。そのために現場に居合わせて、見届ける時間がいる。そう、常に冷徹な考えでいるわけでもないが、学生時代のように、自分の受験があるので、かかわらずにいてくれ、と強く突っぱねることなどは出来そうにない。そして、そのようなこともしたくはないが。

 運転していると、窓外の景色はかわるが、頭の中は常に一定のところにとどまっている。みどりは、母親の病気という経験に耐えられるのか? そのようなときに、どのようなものが頼りになるのかは、自分にとっても不鮮明である。不確かなものでもあるが、実際に直面すれば、自然と解決するものでもあると安心してもいた。

 一般の道が国道になり、高速に変わったりしている。いくつかの音楽をきき、ラジオでその日の混雑具合や、ニュースや天気などもきく。そのような声の伝達者に生まれてくるひとの魅力を感じる。また、ソウル・ミュージックの甘い雰囲気も大好きだ。車の中は一瞬にして、なごやかなムードに包まれる。そう、がつがつ生きたり、努力という言葉を使ったりすることもないではないか、と不思議な安心感とここちよい倦怠がある。

 サービスエリアで朝食を食べようと車をとめた。思ったより早く着き、ゆっくり行動できそうだ。たくさんのテーブルがあったが、なかは閑散としている。広いスペースがあることを喜んでいる子供が、うれしそうに走り回っていた。いつもより、元気であることの望ましさを自分は感じていた。

 また車に戻り、高速道路からも降りた。みどりに聞いていた病院の場所を、再度、地図と照らし合わせて、そこに向かった。遠くからでも大きな建物は目立ち、そこに向かったが、しばらくするとようやく辿りつけた。車のドアを開けると新鮮な空気が流れ込んだ。

 部屋の番号を確認し、ノックしてなかに入った。直ぐにみどりの顔がみえた。そのことで自分もいくらか安堵した。横には、みどりの母親が寝ていた。しかし、その顔色も良かったし、病人にはまったく見えなかった。弁解のように、
「来てもらってごめんなさいね。主人が大げさに考えて入院までさせられてしまって」と言った。その横で、みどりの父は難しい表情をしていた。それでも、やはり大きな問題にならずにすんだという軽くなった気持もみえた。

「まあ、来てもらったんだから、ゆっくりして行きなさい」と父は照れ隠しのように言った。
 世間話をし、盛り上がったついでにみどりの小さなころのエピソードを聞いて、午前中には病院をあとにした。みどりと父親も実家にもどり、簡単な軽食をいただいた。
「これから、どうする。また荷物をもって病院に向かうけど」
「適当に時間をつぶすよ。夜は空いているんだろう?」
「うん。今夜はどうするの?」
「ビジネスホテルにでも泊まって、明日はどこかぶらぶらするよ」

 時間が作れないことを彼女はあやまり、それに対してぼくは、そんな心配はいらないと言った。たまには、のどかな環境に囲まれて、自分の体内に風を通すのは気持ちの良いものだ。東京で暮らすようになって、考えかたが矮小化されていくように感じた。また、昔のように時間にも拘束されない子供時代の記憶と追憶が、自分自身につよく襲ってきた。

 さびれたホテルを探し、泊まれるか尋ねると、何の問題もなく低料金でとまれることができた。散歩がてら、方々を歩き回った。小さなカメラで景色を切り取り、どうでもよいお土産屋にはいったり、夕飯がとれそうな場所をみつけたり、まったくの非日常の気持ちになった。

 夜には着替えたみどりと待ち合わせ、病状などもきき、大したこともないので、彼女も東京に来週早々には帰れると言った。だが、戻ってしまえば、そうゆっくりと時間もとれないことはお互いが知っていた。

存在理由(44)

2011年01月04日 | 存在理由
(44)

 家に近づくと、見馴れない車がとまっていた。多分、みどりが乗ってきたのだろうと予測した。案の定、玄関の戸は鍵がかかっていなかった。中に入ると、あきらかにいつもとは様子が違うみどりが、そこにいた。

「どうしたの? 急に」とぼくは声をかけた。なにかに動揺しているような表情をみどりはしていた。

 少しの間隔があって、口を開く。彼女の母親は、今日倒れたという電話があり、とりあえずぼくに連絡したのだが、つかまらなかったので、実家に帰る途中に寄ってみたのだと言う。ぼくは、素直にあやまった。浮かれて過ごしていた間に、彼女はやきもきしていたのだろう。

 彼女は、それで数日の有給をとり、実家のそばの病院で看病にあたるそうである。前にあった時の印象は、元気そうな人だったので、ぼくも心配ですぐに駆けつけたかったのだが、そう予定を急に変更するわけにもいかず、彼女を見送ることしかできそうにない。

 ぼくとのふたりの関係ははじめのときと違い、会う回数など密度が減っていることは確かだった。彼女は、そのことを気にして、いま言うことではないかもしれないが、ごめんなさい、とも言った。ぼくは、
「別に、ふたりとも仕事で成果をあげようとしているのだから、仕方のないことだよ」と、自分にも言い訳しているようなことを言った。彼女はすぐにでも出かけたそうだったが、また逆に、少しの間だけ落ち着いて話していきたいようにも見えた。ぼくも、動揺した気持ちをもって運転しても良くないことが起こりそうなので、熱いコーヒーをいれて、ふたりで飲もうとした。

 彼女は、テーブルの向こうでコーヒーカップを両手でつつんでいる。いつもより薄い化粧だった。何度も見た顔だったが、相変わらずきれいな顔立ちだと思った。そして、彼女がぼくを選んだことや、いままでの楽しかった経験を思い返した。その彼女に悲痛なことが起こってしまったことを、いまは残念に感じている。それとともに、自分の両親のことも考えないわけにはいかなかった。誰しも年をとり、全盛期を自分自身で作ったり、編み出したりして、次の隊列に席を譲らなければならない。彼らはもう、そういう状況をそれほど遠くない未来に待ち構えているのだろう。

 そのようなことをみどりと話した。いつもは、彼女の方が包容力は大きいのだが、今日の彼女は小さく見えた。コーヒーを飲み終えると、彼女は脱いでいたコートをまた着た。そして、ぼくの首に両腕をまわし、抱きついた。いつものみどりの匂いがした。多分、いずれ街のどこかで、この匂いをかいだら、直接ぼくの脳は、みどりの姿を立体的に思い浮かべることになるだろう、と予想した。

 彼女は、玄関から出て行った。ぼくも上着も着ずに、一緒に部屋を出た。車のエンジンがかかる。窓を開け、彼女はにっこりと笑った。

「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて。ぼくも、今度の週末に行くよ」と、考えていた言葉を出した。
「ありがとう。無理しないでね、仕事でも」

 車は出て行った。ぼくは突然、薄着であることを実感した。部屋に入り、暖房を強めた。コーヒーをさらに入れ、すでに酔いは醒めてしまっている頭をさらに、はっきりさせようとした。それから、目をつぶり、圧倒的な存在にすがって祈るように小さく呟いた。今日みたいな日は、誰もが小さな存在だと、力が無いものだと感じてしまうだろう。ふと目を下に向けると、みどりが、ぼくがいない間に書いていたメモが落ちていた。そこには、彼女が自分の母親と過ごした日々がつづられていた。彼女は、考えをまとめるときによくそのような形式をとった。

 ぼんやりとして、みどりの20数年間の人生のことを考える。もちろん、勝手に大きくなったわけではない。彼女の幼少のころは、どんな子だったろうか、と想像してみる。想像より、当事者に直にきいた方が良いことは決まっている。それで、週末にあった時にでも、みどりの母親にきいてみようと決心する。それより、そう大した症状でなければ良いが、と今更ながら人生という薄い塀を落ちないように歩いている人々に同情を寄せた。

償いの書(15)

2011年01月03日 | 償いの書
償いの書(15)

 ぼくと裕紀は、毎日のように朝のコンビニエンス・ストアで会った。だが、どちらかの仕事の都合で会わないこともときにはあった。

「今度、海外出張に付き合うことになった」と彼女は告げる。「淋しい?」
「もちろん、淋しいよ」
「だったら、もっと、そういう表現するべきだよ」
「うん、そうだね」と言ったが、それをどのように表現するのか、自分は分からないでいた。過剰なまでのアメリカの映画の主人公の態度のように振舞うべきなのだろうか。自分にはそのイメージができなかった。

 それから、何日か経って、数日彼女に会わない日々があった。ぼくは、そこで彼女の存在がいかに自分にとって大きなものであるかを知るのだった。つまり、こころのなかに空白の部分が作られていったのだった。それをなにかで埋めることなど不可能のような気もした。

 そのときに、ぼくは妹から電話を貰う。彼女は新居として、山下の職場に近い場所に引っ越していた。ぼくの家から、そこは一時間ほどの離れた距離にあった。

「裕紀さんは?」
「彼女は、仕事で海外に行ってるよ」
「お兄ちゃんはいいから、わたし、裕紀さんに会いたいな」
「そう言っておくよ」自分は、ないがしろにされているような気もしたが、なにかの用事で妹にあう必要など、もうないのも事実だった。彼女には彼女の新たな生活があり、自分もそんなに自由な時間があるわけではなかった。そして、さまざまな相談や話をするのも、同性である方が気が楽な部分もあるのだろう。ぼくは、戻ってきた裕紀にそのことを告げた。彼女は、その申し入れを喜んでいた。ふたりは、ある時期、同じ高校に通い、妹は裕紀のことを、とても慕っていた。ぼくが、彼女と別れてしまい、その交友は断絶したが、そのことを妹は口には出さなかったが、惜しんでいた。それを、復活させるのは簡単なことなのだ。

 ある休日、ぼくらは三人で会った。山下は練習があったので来られなかった。

 最初のうちは、とりとめもない話をしていたが、だんだんと二人の親密な関係を取り戻すには、そんなに時間がかからないようだった。ぼくも相槌をうったりはしていたが、徐々にその会話から取り残されていった。そして、用もないのに店にある雑誌をぱらぱらとめくった。

 それは楽しいことだったのだが、ぼくは周りから防波堤を固められているような感じをもっているのも確かだった。裕紀は、ぼくの周りの人間から気に入られ、それを特別に念入りに守らないことには、ぼくの評価が下がる運命なのだ。もちろん、その関係を壊したくないのも当たり前だが、自由な気分が削がれるのも、わずかだが、ぼくのこころにはあったのだ。ぼくは、それを顔には出さないようにした。

 彼女らは、別れ際に電話番号を交換し、ぼくを抜きにした関係を築きあるようだった。妹は、以前そのようにして勉強を教わり、年上の友人をつくった。

「お母さんも喜んでいたよ。お兄ちゃんがまっとうな人間に戻るみたいで」と、その前に妹はぼくを脇に呼び、そう言った。
「いつでも、まっとうだよ」ぼくは、ふて腐れた態度で、その言葉を言った。

 妹を見送ったあと、ぼくは裕紀の家まで送って行った。静かな場所にあるその家は、裕紀の存在にぴったり合っているようだった。東京に半年ぐらい住み、ぼくは町が放つ空気感の違いを理解するようにもなっていった。ぼくのアパートのある場所の近くには場外馬券場がそばにあり、日曜にもなると特有の雰囲気をかもし出した。裕紀がそこを歩いていると、それは不釣合いだが、ぼくにはなぜかそんなに居心地を悪い気分にもさせなかった。

 だが、この閑静な場所に裕紀は似合っており、ぼくも同時にその場所が好きになっている。
 長い階段を登り、ぼくは裕紀の家の前までいっしょに歩いている。その階段がぼくは象徴的なものに思えて仕方がない。それは、ぼくが遠回りして長い期間がかかってしまった裕紀との再会の象徴なのだ。また、彼女の無垢への憧憬の気持ちを表してもいるのだ。それは、簡単にたどり着けないものであるべきなのだ。ぼくは、階段を一段、一段とゆっくりと登りながら、そう考えている。

「この階段、仕事を終えてからの帰りだと、けっこうしんどいんだ」
「うん、でも景色だとか、とてもきれいだし、素敵な坂だよ」
「いっしょに登るひとがいれば、そんなでもないのに」と、彼女はぼくの手を意識してだかは知らないが、強く握ってよこした。

 ぼくは、彼女の横顔を見る。その向こうには大きな樹木が、隣の敷地を隠すように高く生えていた。そこに存在しているのは、ぼくと裕紀だけのようだった。ぼくは、地元にいるころ、このような瞬間が訪れることなどまったく予想だにしていなかった。だが、その反面、いつか、このような場面が自分に来るのではないのかとも同時に期待していたのかもしれない。それでも、実際のところはよく分からなかった。

 ドアの鍵をあけ、彼女の出張に使ったトランクが部屋の隅に置かれていた。その上からひとつの荷物を彼女は取り、「お土産」と言って、ぼくに手渡してくれた。階段の長さも象徴ならば、それを登り切って手渡された品物も、ぼくにとっては限りなく象徴でもあるのだ。

償いの書(14)

2011年01月02日 | 償いの書
償いの書(14)

 土曜日に帰省して、日曜に結婚式があり、あと2日は有給をつかって休暇を楽しんだ。それも終わってしまい、いつもどおり出勤した。朝のコンビニエンス・ストアでは裕紀に会う。もう、ぼくらは他人ではないのだという満足感がその日にはあった。

 だが、社内で業務をして、合間にコーヒーを飲みながら思い浮かべるのは、雪代の膨らんでいたお腹のことだった。自分の思考すら自分で制御できない悲しみを知った。ぼくは、裕紀のことだけを考え続けるべきなのだ。そう思っても、自分ではどうにもならなかった。

 ぼくは、空想のなかでは16歳でいる。目の前に表れたひとりの女性に対して、どうしようもない衝動があった。自分に見合う存在でもないと思っていた。その頃の3歳というのは、大きな年の離れがあるものだ。彼女はその姿のまま、ぼくのこころのなかで留まっている。その後、さまざまな服装を身につけた様子や表情が更新され、彼女のたくさんの面を知ったが、その最初のシーンも消えないまま、ぼくの脳には居つづけた。その女性のお腹には新たな命が宿っていた。そのことを、ぼくはうまく変換できずにいた。最初に見たものを親と勘違いしてしまう動物のように、ぼくもその最初の印象を捨て切れないのであった。

 だが、それにも徐々に馴れるのだろうと思ったが、今度、もし会えるのならばもう彼女はその状態ではないはずだ。小さな子を抱き、もしくは手を引き、またはスポーツをするその子に歓声を浴びせているのかもしれない。ぼくの脳は、その瞬間には裕紀のことを排除し、むかしの女性を思い続けていた。

 その考えも外回りのため、外出したときには忘れることができた。ぼくには、会うべきお客さんがいて、語るべきプランもあった。そのことを煮詰めながら歩いている。裕紀が働いている会社が入っているビルの横を通った。ぼくは、彼女に対して正直であろうとずっと考え続けていたことを思い出している。2度も同じ女性を裏切ることは真っ当な人間としてできないはずだ。ぼくは、通り過ぎながら自分の思いに刻み付けている。

 そばには、ウインドウのなかに新婦用のドレスが飾られている。ぼくは、妹のことを思い出した。同時に山下のことも考えている。彼が、最初にラグビー部に表れたときの、まだ若かった顔や考え方を、大事なものが入っている象徴的な引き出しから取り出している。

 また、何人かのドレスを着た女性のことも思い出す。智美のしおらしい姿や、友人だった松田の奥さんの写真を見たときの印象もぼくには残っていた。何人かの友人や先輩たちの妻の格好も頭のなかには保存されていて、自分自身に驚いている。ただ、ショー・ウインドウを見ただけなのに、さまざまなことが連鎖された。

 そして、裕紀もこの窓を見ているのだろうかということを考えている。さらに、彼女がそれらのうちのひとつを着たら、どんなにきれいで清楚に見られることだろうと、ぼくはこころのなかで新たなものが芽生え始めていることを発見する。そのときには、ぼくのなかには雪代はもういなかった。いなかったとしても、永久に消えるはずのものでもなかったが。
 仕事が終わって、同僚の女性たちと食事に行った。

「あさ、近藤さんはきれいな女性と毎日、立ち話をしてるってうわさがありますけど、あれ、ほんとうですか?」
「本当だよ」
「彼女?」
「うん、そうだけど」
「どうやって知り合ったんですか? あさの短い時間に話しかけるだけで、うまくいくんですか? そんなに器用なひとに見えないけど」
「地元が同じで、高校時代につきあった」
「それから、ずっと?」
「いや、ぼくは別のひとと付き合ってた」
「よりが戻ったんだ?」
「まあ、陳腐にいえばその通り」
 彼女らは興味津々にたくさんのことを尋ねたけど、ぼくの軽快さのない会話のことなど忘れ、次の話題から次の話題へと話を順々にかえていった。

 ぼくは彼女らが、さっき見たドレスのうちのどれが好きなのだろうか、と考えている。その後も、何倍かビールをお替りしたが、翌日の仕事のため、早い時間に切り上げた。ぼくは、外に出て裕紀に電話をかけたが、彼女は外出しているのかそれには出なかった。ぼくは、あきらめて地下鉄にのった。

 いままでは気にしたこともなかったが、世の中には妊婦用の雑誌があることを、ぼくは吊り広告で知った。妹にも、もし子どもができたら、ぼくはどうなってほしいのだろうと考えたが、それは当然のこと寄り道に過ぎず、本当は雪代のその小さな存在の未来のことに思いを馳せている。島本さんは優しい父親になるのだろうか? と少しだけ考えているが、本気では彼のことを心配もしていなかったし、そもそも眼中にもなかったのだ。それは、なぜなのだろう。昔はライバル視をしていたのかもしれないが、ぼくと雪代の歴史のなかに彼が立ち入れもしないという自信ももっていたのかもしれない。

 家に着き、カバンを投げ出し、ソファに身を投げた。休日明けの一日は疲れるものだ。ぼくは、少しだけ、ほんの少しだけ地元で働いていたことを思い出したが、もう、ここが自分の存在があり、アピールする場所だと決めている自分もいたことを、そのときに発見するのだ。

償いの書(13)

2011年01月01日 | 償いの書
償いの書(13)

 東京に向かう特急電車にまた乗っている。それは、過去との邂逅を終えたぼくらにとり、関係性をあらためて認識しあったので、それを暖め膨らませる時間でもあった。ぼくらは交際を再スタートさせていたが、本当を言えば、その日から実感として、ぼくらの物語はまた始まったのかもしれなかった。

 ぼくは、裕紀のシアトルでの学生時代の話をきき、何人かのボーイフレンドのことを話題にした。当然のこと、ぼくのことも話さなければならない。

「あの女性・・・」彼女は、名前で呼び実体を与えたり、実在させてしまうのを恐れるかのように、そのひとを話題にするときは、いつもそう呼んだ。だが、ぼくら二人のなかでは、あの女性と称すれば誰のことを指しているのかは理解できていた。「お腹のなかに赤ちゃんがいるんだってね?」
「そうみたいだね」
「もっと感想はないの?」

「嬉しいけど、不思議な気分だよ。だって、ぼくにとっては、お母さんになってるあのひとをイメージできないんだから」
「もう、戻れない」
「戻る気もないよ。裕紀がいるんだし」
 ぼくは車窓から流れる風景を眺めながら、自分の家に戻るという気持ちが生まれていることを知った。東京の小さなアパートが、もうぼくにとっての我が家のイメージだった。いつのまにか、ぼくの地元は用がない限り戻らない場所になっていた。そこに暮らす雪代のイメージも、そこに含まれて考えるようにもなっていた。逆に我が家にとって近い存在である裕紀は、現在であり未来という範疇にはいる存在だった。その電車のなかで、そのことをよく考えた。

 ぼくは売りに来た女性からビールを買い、缶のふたを開けた。その女性はどこか雰囲気が妹に似ていた。それで、ぼくは、つい言葉をもらした。
「妹、いまごろなにしてるかな?」
「心配?」

「いいや、山下がそばにずっといるんだから。あの体格なら外国人も襲わないよ」
 彼女はその光景を頭のなかで思い浮かべたように、すこし経って小さくフフフと笑った。ビールといっしょに買ったアイスクリームを食べるのを止め、裕紀はそのまま微笑み続けた。

 途中の停車駅で何人かは降り、何人かはその代わりに乗ってきた。だが、総体的な数では、埋まっていない座席が増えてきていた。ぼくは、ここ何日かで起きたことを会話の合間に考えている。妹は結婚した。両親もとても喜んでいた。すこしだけ、ぼくにプレッシャーを与えようと両親は考えているようだった。裕紀の存在はあたたかく迎えられ、ぼくがこの度にした選択を賢いものだと周りのひとは考えており、過去に行った選択はどう考えても間違っていて、遠回りしたに過ぎないと決めているようだった。

 雪代にまた会うことも驚きなのだが、それに加えて彼女のお腹には子どもがいた。彼女に今後、どのような生活が待っているのかしらないが、それが平穏で幸福であることをぼくは切望している。

 裕紀は、ゆり江という子にあった。ぼくのことも話題にしたようだが、知らないことは知らない方が幸福なのだ、と考え、今後も、彼女の内面に衝撃を与えるようなことは避け、ぼくがそれを守れる場合は、きちんと防御しようと考えている。それは、都合の良い話にも思えたが、彼女を傷つけることは二度としたくないというぼくの証でもあるのだ。

 横を見ると彼女は眠りに入ってしまったようだった。彼女の家族が抱えている問題にぼくは深入りできないでいる。それを彼女は避けているようにも感じている。いずれ聞くことがあれば、それを表面化して解決できる問題なのか考えなければならないだろう。そうしているうちに、車内のアナウンスが流れ、終点が近付いていることを知らせた。そこから、ぼくの家は20分ほどだった。

 改札を抜け、ぼくは裕紀に話しかける。ぼくの両手には大きなバックがあり、彼女は小さなバックを肩から提げていた。
「どうする? これから? うちに寄ってご飯でも食べていく?」彼女は声を出さずに頷いた。
「そうしてもいいの?」
「いいよ、少し休んでいくといいよ。裕紀の家まで遠いし」
 駅前でタクシーを拾い、その日の道路は空いていて、思っているより短い時間で家に着いた。部屋に入ると締め切っていた部屋の匂いがした。ぼくは、カーテンをずらし、窓を開けた。そうすると秋の終わりのような空気が部屋のなかに侵入した。

 裕紀は、テーブルの椅子に座り、よそよそし気な態度で座っていた。ぼくは缶ビールを取り出し、それを開けて口に含み、次の工程を考えた。簡単にできそうなので、引き出しからパスタを出し袋を破った。それから、冷凍されたソースを取り出し、残っていたピーマンを包丁で切り、茹で上がったものと絡めて皿に載せた。

 そうするとビールは、丁度空になっていた。冷蔵庫から冷えた白ワインも取り出して、グラス二つを片手の指に乗せ、テーブルに運んだ。
「味の保証はないよ」
「でも、おいしそうだよ」と彼女はいったが、いつもより少しアンニュイな様子だった。
 食べ終えたころには、8時を少し回っていた。ぼくらは、その後自然とそうなるようにお互いを確認し合った。その一日は、ぼくらの今後にとって、忘れられない、いや、これまでと今後をつなげる役目の日として忘れてはいけない一日になったのだ。