爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

11年目の縦軸 16歳-30

2014年05月17日 | 11年目の縦軸
16歳-30

 ぼくは渋谷にいた。冬の一日。横には彼女がいる。ほぼ一時間前には地元の駅にいた。数分、ぼくは彼女を待った。寒さもイライラもまったくない。期待のあらわれである。この後、女性を待つということを何度も行ったが、このときのような新鮮さを保っていたかと問われれば、その気持ちは段々と薄まっていくというのが本当の気持ちだった。そして、約束の不履行は切腹でお詫びするということを冗談でもなく、考えている自分もいる。大体は待たされる。反対の性質のひとは、大体が悪びれずに待たす。ただの待ち合わせについての話題なのに、大げさになった。まだこの頃は契約のための印鑑も自分個人のものはもっていなかっただろう。さらに、待ち合わせは契約でもなんでもない。喜びと悲しみの数分間である。では、大人の定義ははんこを持っているか否かということで分類されるのだろうか。それも、一理ある。

 ぼくらは映画を見ることになっていた。その見る場所というのも重要な選択である。

 映画の開映時刻というものを確認するにはそれ専用の雑誌を見るか、チケット売り場で表をながめるしかなかった。便利というものは、どこまでが到達点として設定されるべきものなのだろう。あのぐらいでちょうど良かったのかもしれない。不便さもこの程度なら目くじらを立てることもない。また、あの雑誌は当時にしては画期的に便利なものだった。

 八十年代の半ば。若者は背伸びをするということでまだ若者だった。そして、大人になりきるには上限を勝手に設けて、そこを突き抜けるのは自身で戒めていたであろう。それは自分でお金を稼いでから楽しむべきこととか、もちろん、援助なんていうまやかしの言葉でやましさを正当化させることなど表面的にはなかった時代だ。こうして、いま、ぼくは単純にむかしをなつかしんでいる。かまどで炊いたご飯がいちばんおいしかったとでもいうように。

 映画館に入った。ぼくは監督の作風とか、芸術的な価値を知る前の話だ。

 ただの娯楽。デートのための娯楽映画。

 このときの主題歌が印象的だった。ものごとを覚えさせる痕跡が散りばめられている。だから、こうして記憶を振り戻して書くこともできるのだろう。

 八十年代ではなくても若者はお腹が減る。ぼくはどこで食べるか迷う。一先ず、喫茶店のところのような場所でお茶を飲む。窓のそとにはいつもながらのひとに溢れた通りがある。彼女の飽きた顔とか不服な顔をぼくはいつの日か見ることがあるのだろうか。それさえも彼女の一部なのだろうか。ぼくは、きょうは片側しか見ていない。同時に、ぼくも片側しか見せていない。愉快な自分。希望にあふれている自分。

 結局、食事は、彼女が入ったことのある公園通り付近の家族向けのような店に入った。

 ぼくは給仕をしてくれた男性のことを思いだす。ぼくらがどこかの外国から来た大切なお客様のようにもてなしてくれた。ぼくはもっとぞんざいに扱われることになれていた。女性の前でこのように丁寧に接してもらうことは自尊心をくすぐられることだった。ただ、彼女が誰にとっても可愛いから、ということが唯一の対応の理由かもしれない。

 もっと大人になれば時間の引き延ばし方や、反対に、時間があまりにも短く夜が迫ってくるとかの感慨を抱くのだろうが、ぼくにとっては等身大の時間軸だった。夜はゆるやかに迎えてくれ、ぼくらはすることもなくなる。友人たちは自分の愛したものの身体を求めた。ぼくはなぜかそうすることをためらっていた。楽しみはもっとあとにとっておくのか、それとも、彼女のそうした一面に無意識下で目を背けたかったのだろうか。

 山手線の線路をくぐり、明治通りを歩いている。ぼくの好きな道のひとつだ。彼女は歩いたことがないと言う。線路を抜けずに、代々木競技場を横目に代々木公園の方に向かって原宿に出る。ぼくは、なぜだか彼女が友だちと歩いているその姿を思い浮かべる。そのイノセントさを奪う権利が自分にはないような気がした。では、誰のものなら無下にしてよいのだろうか。答えはない。夜は、この日の夜はぼくらのものだった。この通りもぼくらが歩行するために舗装されたものだった。

 ぼくは明治神宮のそばの駅にいた。

 半時間後には乗換駅にいる。そこで彼女はある女性と思いがけなく会話をする。知り合いのようでもあるし、他人のような距離感でもある。

「あのひと、誰?」当然の疑問だ。
「お姉ちゃん」

 ぼくはただ驚いた。彼女に妹がいることは知っていたが、姉がいるということはこの瞬間まで知らなかった。狐につままれるという例えを身に染みて感じる。彼女は三姉妹の真ん中であり、ぼくは三人のむさ苦しい男の兄弟の真ん中であった。ぼくは、彼女について何も知らないことをこうして覚らされる。そして、大事なことだが愛にとって、対象の情報などそれほど必要ではないのだろう。

 ぼくらは帰るところはいっしょ(彼女と姉)だが別の車両に乗り込む。ぼくは家まで彼女を送る。その家に彼女の姉もいる。渋谷のデパートで働いていると言っていた。彼女はいずれ、どういう仕事に就くのだろう。ぼくは会ったままの姿で女性をいつまで帰しつづけるのだろう。

繁栄の外で(24)

2014年05月16日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(24)

 悲劇が起こる前に、完璧な彼女の姿を覚えておこう。オフィーリアの末裔。

 多恵子は高校の最後の学年を迎えた。それで、上の学校を目指して勉強をしたりしているが、もともと時間のやりくりに秀でていて、あせったりまた逆に余裕がありすぎるということもなかった。ちょうど良いときに、ちょうど良いことが彼女には訪れるのではないかとぼくは考えていた。

 ぼくはシナリオの学校を終え、もっと映画を観たいという理由だけでビデオ店で働き始めた。山本さんはぼくを引きとめたが、しかし、それぞれの人生があるということを尊重し、それ以上なにも言わなかった。だが、面倒見のよい彼は、いつも心配してくれいろいろと相談にものってくれた。「レインマン」という映画を多恵子と観に行ったことを思い出した。特殊な能力のある主人公は、その稀有な能力と引き換えに、日常をうまくやりこなす誰にでもある才能が失われていた。どちらが幸せであるかなど分からないが、自分も特殊なものがほしかった。しかし、がむしゃらに入手するために挑むエネルギーや、その根本の努力を怠っていたことも事実だろう。若さは、つまりは未熟さを肯定することなのだ。

 多恵子は、あるなにかのきっかけがあったのかどうか知らないが、途中から積極的な人柄にかわった。ぼくの言うことを無条件に従うような性格が、自分から率先して行きたい所を決めたり、やりたいことを探した。ぼくにとっては、その変化がうれしかった。たぶん何か生きるうえでの重要な貯えがこころの中に積まれ、それを放出する段階になったのだろう。

 ぼくはより内面的なものを求めるようになった。その頃の景気の良い雰囲気とは別に、ほんものの幸福というものを考えるようになっていた。世の中全般が金を目標に流れていた時期だ。古い建物は取り壊され、土地は高騰し、女性たちは低俗な音楽で踊り狂っていることを深夜のテレビで放映した。ぼくはその代わりにビデオ店から持ってきた古いフランスの映画を見たりした。そして、大人に向かっているという錯覚を手に入れた。いまの不景気な状態で、「金がすべてではない」ということをもし仮りに若者が言ったとしても、その金満な風潮が支配している当時に発することとは同じ言葉でも意味合いはまったく違っていた。

 多恵子は、一緒にぼくの部屋で音楽を聴いたり、ただ寝転がって楽しい会話をしたりするという、ひっそりとした幸せをぼくに与えてくれた。同時に大学に行って、もう少しまともな男性と知り合うことが出来るだろうな、とぼくは考えるようになっていた。

 それから、彼女は大学に受かり、車の免許も直ぐに取った。楽しい人生のスタートがもうそこまで来ていた。彼女のまだ馴れない運転で房総の海までドライブに行った。誰もいない海で、ぼくらは将来の漠然とした約束をいくつか交わし、またそのいくつかは守れないことをぼく自身が知っていた。

 彼女は外泊をしても良いと言っていたので、空いているリゾートホテルに泊まった。窓をあけると、目の前に海が見え、その波の音が耳にここちよく響いた。その永続性を誰も断ち切ることができないように、ぼくらの関係も断ち切ることはできないだろうな、と考え直した。

 次の日も快晴で、朝はそのホテルのきれいなレストランで朝食をとった。食べ終えると、そとでコーヒーが用意されているということなので、ぼくらはそこに向かった。彼女の髪が朝日で輝いていた。その姿を、忘れることはないだろうと思ったし、実際にあのとき以上にぼくの脳の中では鮮明になっている。

 帰りの途中で、たくさんの花が植えられている公園に入り、また隣接されている植物園にも行った。その甘美な南国の花のにおいと、彼女の姿とが同じ生命の目覚めということで記憶されている。

 ぼくは自分の家まで送ってもらい、彼女も疲れたのでいったんぼくの家で休憩してから帰ることになった。部屋に入ってから、冷蔵庫のなかが空であったのを思い出しぼくは近くの店に買い物にいくことにして彼女をおいて出て行った。彼女は、「わたしも行こうか」と言ったが、その必要はないというぼくの声をきき、そのまま立ち上がって冷凍庫の氷の具合を調べ、グラスを戸棚から取り出した。外に出ると、近所の人が多恵子の車を少し迷惑そうに見ていたので、ぼくは、「ちょっとだけですから」と声をかけると、別にいいのよという予想に反した返事がかえってきた。

 飲み物とビールと簡単な軽食を買い込み、ぼくは自分の家にもどった。その前に彼女の車が無くなっていることに気付き、どうしたのかと思って戸を開けると、彼女の姿もなかった。テーブルの上にグラスが置かれ、ぼくはいらないものは冷蔵庫にしまい、自分のためにビールを注いだ。

 それが彼女を見る最後の日になるとは、自分自身でさえ知らなかった。あの頃から、ぼくはいやな夢を多く見るようになってしまった。 

11年目の縦軸 38歳-29

2014年05月15日 | 11年目の縦軸
38歳-29

 ぼくにはすでに運命も哲学もなく、目の前に転がってくるボールをファーストに素早く投げてアウトをひとつ増やすことだけが生きるということと同義語になった。アウトの山が増えても、満足感も達成感も奥底からは感じられない。ただ片付いたという結論があるのみだ。実際のところ、片付くというのはテーブルクロスで大ざっぱにすべてをくるんでしまっただけで、あとで選り分けたりする面倒が残っているのかもしれない。おとぎ話のつづきも当然のこと、どこかにあるのだ。そのページを誰も開かないだけで。続編は刻々と書きつづけられていく。グラウンドに立ってしまえばベンチに戻るということも簡単にはいかない。

 ぼくは仕事をしている。片付けているという感覚に近い。すっきりするという状態になることを望み、念頭とは別に、歯の間にものがはさまってしまったような違和感がときにある。数日、そのままで放置されても誰かが解決する訳でもなく、勝手にはさまっているものが抜け出しているということもなかった。仕事の考え方の違いもある。締め切りというのをスタート地点にするひともいれば、もうその時点では祝杯をあげることを考え、次の解決すべき課題への挑みをはじめているひともいる。これも性格なのだ。相手に合わすことも多分にある。早めの提案を希望する方もいれば、終わり近くまで耳に入れたくないと考えるひともいる。ときには、ひとりで海の砂で城でも作りたいなという気分にもなる。だが、生活の糧を稼ぐ必要もあるのだ。いや、その必要しかないのだ。本音をいえば。

 王子様がお姫様の候補となり得るひとを見初める。そこには甘美があり、残業にはまぎれもない生活があった。ぼくは数年前のひとつの映像を思い出す。職場のビルのとなりに有名なホテルがあった。ホテルというのはリュックを背負ってチェックインして、窮屈な格好でシャワーを浴びるということではない。ときにはひじやひざをぶつけて無様な姿をあわれんで。

 ぼくは残業をしていた。ある催しがあったのだろう。しばしばした目の先には数台の真っ黒な車がつらなり、いかにも高貴なひとを守っているという雰囲気があった。ぼくはクラスというものが歴然とあるのだという確たる証拠を目にする。別に不満があるわけでもない。目を真っ赤にして残業をしなければ(もちろんしても)解決しない日々はぼくの日常の一部になっているという事実に、指摘されてはじめて気づいたようなものだ。その指摘はひとつの映像に基づいていた。手を振ることになれたひと。

 ぼくは地下鉄に乗ったのだろう。その後も、次の日の仕事もまるで覚えていない。上流から下流に水が流れ、自分が堰き止めてしまわないことだけを願っている。これで、誰かの笑顔が獲得できるわけでもなければ、ぼくの仕事で、もしくはぼくと会って感激するひとも皆無だ。これが、三十八才の等身大のぼくのようだった。

 だが、日曜はやってくる。ぼくは絵美と会う。どちらも王子でもなければお姫様でもない。十二単も豪華なドレスも必要ではない。最終的には裸になるのだ。ぼくは、休日のための早めのビールを飲んで、午後のひとときを寝入ってしまった。

 ここにも哲学はない。しかし、絵美との関係を手っ取り早くどうこうする必要もなかった。要求もなにもない。ぼくは夕方の早い時間にシャワーを浴び、毛玉のあるセーターを着た絵美と近くの居酒屋に行った。格好をつけることも、気の利いたメニューを選択することも、ぼくらの目標としてもうない。ただ、食べたいものを選び、言いたいことを言い合い、あくびやげっぷをした。相手の不作法に難癖をつけるがそれも本気ではない。ぼくのあごには休日特有の無精ひげがあった。明日になればまた仕事に追われる。味方というのもいないだろうし、漠然とだが潜在的にみな敵なのだ。かといって、そこまで悲観的になり過ぎるには、日曜の夕べはおだやかで、絵美のそれほど頑張っていない化粧も肌もきれいで輝いていた。

 愛という言葉に一字だけ付け足して愛着とすると、神秘さが奪わられる代わりに親密さがうまれた。運命や哲学を必要としないように愛も、すでに重要なものではなくなってしまった。それより、冷蔵庫に冷たい水が常備されていた方がぼくにとってふさわしかった。入手できない希望ではなく、手元にあるもの。手近な愛すべきものに傾く。

 コップ一杯の水。グラスやジョッキに満たされたビール。その一日だけ大量に摂取すればよいというものではない。日々、適量を摂りいれる。豪華さも、神々しさもない。毎日、無事にこうした些末な出来事に追いかけることが恒常的な幸福であるとも呼べた。何もすることがないこと。どうでもよい内容の会話をする相手がいないこと。避けるべき本質はそのようなことかもしれない。

 ぼくらは店を出る。レンタル店に寄り映画をさがす。ふとした隙にぼくは絵美の体当たりで大人のコーナーに押される。油断していたのかぼくの身体はのれんのようなものをくぐり、驚いたある男性の視線とぶつかる。片手にはこれから借りるであろう薄いパッケージの箱をもっていた。期待ではなく、手近にあるもの。ぼくはしなくてもよかった首だけの会釈をして、そこを抜け出した。絵美はけろっとした顔をして悪びれる様子もまったくなかった。

繁栄の外で(23)

2014年05月14日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(23)

 勝手な都合による解釈だが、ひとりの肉体をもった女性があらわれたことにより、複数の女性が目の前にいる当然のことをあらためて理解する。まるで、一羽のかもめの存在がすぐに群れとなってあらわれたり、夜のドライブ時の小さな遠くにある光の点々が、いつのまにか夜景とまで呼べるような光の集まりとして再認識するようにだ。

 多恵子の存在はかけがえのないものでありながら、やはり女性というグループの一員として見始めた最初だろう。理性でははかれないという言い訳を頭の中で丁寧にこしらえつつあった。

 シナリオの教室があるときに、その後はみゆきさんとお茶をしにいくことが一緒のことになっていた。お茶は、たまにはお酒になり、そのクラスのない日にも侵食し、段々とエスカレートしていくことになる。結果としては、未然に防がなかったことがあとになって大きな果実を実らせることになる。嬉しいこともあれば、また厄介な事態もその魅力に含まれていた。

 ある日、勉強をしおわったあとみゆきさんと待ち合わせていた。いく人かは、ぼくらのそうした様子を知っていたかもしれない。だが、まだその時点ではやましいこともなかったので気にすることも、注意を払いすぎることもなかった。ある皆が通らない駅の反対側でぼくらはあった。ぼくがお酒をのむことを知っており、ぼくの誕生日前後だったと思うが、(もしかしたら何かの違う記念日かもしれない)お祝いだといってお酒をおごってくれることになっていた。ぼくは、いつもより少しはましなシャツを着て、その場にたっていた。彼女はビジネス用のバックを肩にかけ、こちらに歩いてきた。ぼくは、その当時はいくらか大人びた外見をしており、また彼女は年齢よりいくらか若い元気なオーラを発していた。それでも、目の前にすると多恵子といるよりささやかな緊張感が自分をおおった。

 彼女がみつけた店に入り、ぼくらはそのきれいな店内でイタリア料理を食べた。あまり馴染みのなかったワインをビールのあとに飲むことになったが、味よりその雰囲気の良いことを理由としていたのだろうが、おいしく感じられた。ぼくらは程よく満腹し、また酔いもいくらかゴールを越えてしまったかな、という理想的なアルコールの分量だった。

 店を出て、風に揺られた。街路樹からも良い香りが放たれていた。みゆきさんは大きめなバックから包装された箱を取り出し、ぼくに差し出した。

「大人になるって、途中の段階が重要なことなんだよ」と言って、その箱は彼女の手からぼくに移った。

 家に帰ると、手の込んだ財布が入っていた。ぼくは、彼女の言葉「途中の段階」ということを何度となく頭の中で反復した。また、その日の彼女の様子とともに。

 ぼくらは流れるように別の場所に移動していた。まだ、箱にはなにが入っているか知る前だ。彼女は、財布なんかよりぼくにとってもっと貴重な瞬間を与えてくれた。ぼくらは抱き合い、アルコールのにおいのするキスをした。その後は、彼女のリードに導かれるままだった。ぼくは、過去のぼくではなくなったのかもしれない。ただ、成長に彼女が手を貸してくれただけなのかもしれない。ぼくも後悔しなかったし、彼女もそう感じていたのだろう。きっと、いつかこうなってしまうように、自分の気持ちの耐震もこっそりと緩めていたのだ。

 ぼくらは、定期的にそのような関係をもった。その時間をぼくは楽しんだ。多恵子とは違った観点で女性というものをぼくに教えてくれた。都合の良い話だが、事実は曲げようもないことだった。

 しかし、いつもぼくらは外を選んだ。ぼくの家はあまりにも危険でありすぎた。当然のことでもあるが彼女の家もぼくは、大体のところしか知らない。

 このようにぼくは二つの道を走っていた。気持ちの上では多恵子のことが好きであり、手放すことなど考えたこともない。だが、いつかは破綻するかもしれないと考えるには、自分自身への採点が甘すぎた。もっと冷静になってもよかったのかもしれない。しかし、冷静に判断し続ける人生を自分が望んでいるかといえば、まったく違っていた。ジーンズが擦り切れて履きつぶすように、ぼくは自分の人生を大事にすることなど考えてもみずその場限りで充分だと思っていた。

繁栄の外で(22)

2014年05月13日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(22)

 ある日のこと、いつものようにバイトを終えると、手持ち無沙汰なすがたで山本さんが立っていた。誰かに用があるらしいことは分かったが、その相手は意外なことに自分であった。

 ぼくをつかまえると、休憩室にはいりタバコを取り出した。用というのは彼の知り合いが賃貸アパートを持っていて、そこに空室ができ安く借りることができるが興味はないか? ということだった。急に言われたので直ぐには返答のしようがなかったが持ち出された条件が良かったので、前向きに考えると言ってその場を去った。

 その翌週には、そこに入ることを決めていた。前の住人は大学時代に借り、就職が決まったあともそこに住んでいたがそろそろもう少しましな所に引っ越したいらしく出ることになった。もともと、実家が裕福らしくかなりの仕送りがあったと噂されていた。それで家財道具をそっくりそのまま置いていってしまい、不快でないならそれをそのまま使っても良いことになった。向こうとしても処分するのが面倒くさかったのだろう。

 その次の休日には当面の衣料と歯ブラシやシャンプーと数枚のCDを持ち込み、自分の移動はあっという間にすんだ。簡単なものだ。実家とそう離れているわけでもないので、必要なものがあれば取りに行けばよかった。使って申し分のない高級な音楽プレーヤーがあったことが何よりうれしかった。

 多恵子は入る日に掃除を手伝ってくれ、こまごまとしたものを整理してくれた。その後もちょこちょこ寄ったりした。ぼくは、山本さんの手前、すこし控えてほしかったが口に出しては言えなかった。

 若い男女が同じ部屋にいて監視もなければ、行きつく先はひとつだろう。ぼくらは自然とそういう形になった。ぼくの前に肉体としての女性があらわれた。それは多恵子で良かったといまでも思っている。

 彼女はある時はそこで勉強もし、家でつくった料理が残っていればたまにもって来てくれた。ぼくらは、些細なことで笑い、また小さなことで喜び合った。そのアパートの一室には幸福感がみなぎっていた。

 でも、多くのことは一人ですることも覚えなければならない。バイトから帰って洗濯をしたり、手は抜けるだけ抜いたが掃除もしないと直ぐに小さな部屋はちらかった。ホテルのように自分がいない間に片付いたりするわけもなく、戻って戸を開けたときに不快な状態を目にするのは、まぎれもなく自分であった。

 それでも、日曜には鳥が鳴き、ひとりで布団にくるまっている状態を自分は楽しんでいた。そこには限りない自由があるような気がした。

 週末には友人たちが集まった。ビールの缶を袋いっぱいに詰め込み、またある人は惣菜などを買い込み現れた。そこに、多恵子がいることもあり、彼らは最後には気をつかっていつの間にか消えるようになっていた。山本さんの意図を考え理解できないこともあったが、最終的にはただ面倒見が良い人なのだろう、というあやふやな結論で我慢することにした。それ以上、そのときは理解することはできなかった。

 たまには電話が母からかかることもあったが、そう短期間に重大な変化が起こるわけもなく、いつの間にか段々とかかってくる期間が空くようになってしまった。そして、自分からかけることも必然的に少なくなっていった。

 そのように環境は変わっても、週に2日は夜にシナリオを学ぶ教室に通った。数ヶ月は熱心であったが、徐々に形式的に自分はシナリオというものを好んでいないということを知るようになる。もっと一人称的に自分に訴えてくるものを欲していたのかもしれない。だが、表面に現れることもまた最終的な結論を下すこともせずに、ぼくは教室のテーブルにむかって座ることは辞めなかった。辞めるということが常習的になってしまうことを恐れていたのだとも思う。

 ぼくは、夜ひとりになった部屋で簡単な日記をつけた。それは、誰と会って何が起こったとか、こんな映画を観たということで終始することが多かったが、あとで振り返ってみれば役に立つかもしれない、ということも意識していたのだと思う。そうして、白い紙がなにかで埋まっていくことを実感することは楽しかった、そして、自分を客観視することにも役立ったと思う。結局のところ、自分がどんな人間で、どんな能力が内在されているかなど、あまり分からないものだからだ。それでも、そのきっかけを作ることぐらいは自分でしても良いと思った。だが、まだまだ自分が何者であるかなどは分からないものである。

11年目の縦軸 27歳-29

2014年05月12日 | 11年目の縦軸
27歳-29

 ぼくは、どこに未来を設定していたのだろう。この希美との関係についてだが。

 例えば、一時期の食器洗剤のコマーシャルのようにいつまでも親密な老夫婦になることなのか。そのような遠い先まで見通すことは、自分の性に合わなかった。逆説的にいえば、若者や少年は未来を設定しないで済むのだ。日々の経験を消化することによって、絶えず大人への成長を歩んでいる。だから、心根から若者のままでいられるのだろう。もう若者という年齢には所属しない自分だが、未来を遠くに置くことによってその状態を無理に保とうとした。

 それでいながら、未来を選択しない希美は逆にぼくの未来についての思惑を聞きたがった。ぼくは未来について確かに決断したのだろう。失いたくない、奪われたくないという切羽詰まった感情が含まれていたのかどうかは知らない。ある種の予測は、ランドセルを背負っている年代ではないので見当はついている。それ以上の予測できない大きなことは、たとえ、どう決断をくだしたところで多かれ少なかれ襲ってくるものなのだ。そのために数々の種類の保険があり、ある程度の貯蓄が必要にもなるのだ。

 それらの危機をふたりで乗り越えるということには夢があり、美化されても文句もでないものたちだった。結果として、永続性の勝利をおさめたコマーシャルの映像になるのだ。ぼくらは洗脳される。映像によりすすんで洗脳されるよう自分を仕向けている。

 簡単に別のものに目が向くようでは、本気の気持ちと承認されなかった。本気や深入りを恐れながら、ぼくは簡単にぬかるみにはまった。いや、簡単ではない。自分のなかの衝動ではない気持ちが彼女を根底から認め、短くない期間をいっしょに生活してきた動かせない事実があった。衝動ですべてを決めてしまうのも、もう自分にはできなかった。そう思っているのは自分だけかもしれない。相変わらず短絡的に決め、その決めた誤りさえ頑固に譲る気もないまま生活を送っている。

 ぼくはひとりで公園のベンチにすわり文庫本を読んでいた。もう一回、同じ本を読みたいという気持ちになることがある。数度目でも新鮮さが奪われていない。ぼくが変わったからなのか、歴史にのこるというのは、そういう小さな奇跡的なものが含まれた結果として、淘汰と埋没に勝利するのだろうか。ぼくは本を閉じ、池の水面を見守った。

 希美が向こうから歩いてくる。砂利を踏みしめる音がする。ぼくは希美が発するその音を聞いた覚えもないが、彼女の足取りをなぜか覚えてしまっていた。リズミカルで軽快な音。重厚さや自分の重要さなどこの地上に一切のこさないと決めているような軽やかな音。しかし、意に反してぼくのこころには彼女は大きな重しを置いてしまった。動かない船のアンカー。ぼくはその響きで勝手に陸上競技の花形競技であるリレーの最終走者を思い出していた。希美がやはり最後になるべきひとなのだろうか。ぼくのこころは知っていた。当然だと。

 希美は無言でぼくのとなりにすわる。秘密を打ち明けるのを隠せないような表情をしている。ぼくは意地悪くあえて訊こうとしない。池には水のなかでも生活できる鳥が優雅に泳いでいる。

「あのね」彼女は話しはじめる。もう笑っている。ぼくも聞き終わる前からすでに笑いが伝染しはじめている。伝染という言葉が悪い意味でつかわれないこともあるのだということを再び思い出していた。

 彼女の両親は何度目かの結婚記念日で南の国に旅行に行ったらしい。彼女は帰省してそのときの話をきいたようだった。旅先でのハプニングと解決策を彼女はぼくに伝える。すべてが微笑ましい事柄だった。もし、希美という存在がぼくに関わらなかったら永久に知らないひとたちだったのだ。もう少し深めるのか、この状態を維持し継続するのか、それとも、もう終わるのか誰も分からない。判断をすべて自分がしているということ自体おごった考え方かもしれなかった。ぼくらは人生のほとんどを他の力によって決められてしまうのかもしれない。志望した会社には、別の有能なひとが雇われ、恋人はもっと見栄えもよく経済的に恵まれたひとを見つけるのかもしれない。そのことに抵抗するには限界がある。できることとできないことを詳細に(または大雑把に)見極め、苦手だと納得させられたらその道を歩まないようにする。生存というのはこういうつまらないものが堆積としていっぱい重なった姿のように思えた。おぼれながらも口だけ必死にだして息を吸うように生存を伸ばしていく。

 固いベンチから離れ、ぼくらは歩く。おそらく自分の人生でいちばん見たであろう希美の顔を、いまは横顔だが、ちらっと眺めながらほぼ正面を見て歩いている。自転車に乗れたばかりのような小さな女の子がぎくしゃくしながらこいで、こちらに向かってきていた。ぼくは避けようか迷いながら、世界に五十億ぐらいあるであろう異なった顔をひとつひとつ作ろうと試みる。でも、どう頑張っても三十か四十しか作れないし、思い浮かべられなかった。そこで神という概念を敢えてもちだして、もてあそぼうとした。もしかしたら、自分にとって運命のひとは、キリマンジャロやアンデスにいるのかもしれない。しかし、どうやって見つけたらいいのだろう。偏見も立ち入らせずに考えてみても、ぼくはこの希美のような肌の色を有し、自分のもってきた楽しい話を吹き出してしまいそうになりながらも話そうとする希美しか単純に選べそうになかった。神は個々を区分けし、ぼくはその個別の差異をすべて検討することはできない。

 自転車は後ろに去った。多分、あの子も恋をいずれするのであろう。もっと世界が縮まれば、あの少女の運命のひとはクロアチアあたりに置かれるのかもしれない。しかし、それはぼくが悩むことでもない。ぼくの悩みの袋はもう充分すぎるほど満ちていた。希美とずっとこうしていられるとしたら、その袋もいくらか軽くなることだろう。袋という機能を思い出せないほどたたんでポケットにしまえるぐらいに小さくすることもできるかもしれない。

繁栄の外で(21)

2014年05月11日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(21)
 
 秋になり自分もなにか学んだほうが良いのではないのかという結論に達する。バイトはそのまま続けていたが夜の数時間をつかって、なにか出来ることを考えた。「夢の実現」というぼんやりとしたものが、まだ手の内にあった時代でもある。

 家からもそう遠くない場所で、ある文化的な教室がいくつか開かれていた。そのなかに「シナリオ・ライター講座」というものがあって、本物の先生が一年かけて教えてくれるということなので自分も申し込んだ。また机にすわって何事かを学ぶことを自分は楽しんだ。そういうことが好きな自分を再発見したわけだ。それだけでも、自分には効用があった。

 週に2日、それは夜毎に行われ、自分は特別なことがあるとき以外は必ずそこに座っていた。そして、時間が過ぎると自分の頭の中でも文章としての秩序のもとに言葉を組み立てていることを知る。

 新たな環境に入れば、新たな人間関係が構築される。本気でそれを職業として目指そうとしている人。暇な時間を利用して文化的なものに触れたがる人。物事を捉えるきっかけとして、裏側を知りたがる人々。ぼくは、ただ単純に印刷された文章にあこがれていただけだろう。

 忙しかったが、そのように時間をやりくりして勉強することを多恵子は喜んでくれた。ぼくのことをずっと賢い人間だと彼女は思ってくれていた。たぶん、そのような声援と期待がぼくのこころをくすぐってもくれたのだろう。それで、もしかしたら彼女は退屈だったかもしれないがふたりで映画にいくことも多くなった。ぼく一人で観ることの方がもっと多かったかもしれないが。

 そのクラスでぼくにたくさん話しかけてくる女性に出会った。ぼくが知っている、つまり接しているのは、いままでは同年代の女性だけだったが、彼女はそこからはずれていた。名前はみゆきさんと言った。

 彼女は20代の後半で、勤務が終わったあとそこに通ってきていた。それで、そこに集まっている中では一番きっちりとした服装をしていた。もちろん、化粧も手を抜いていないことが多かった。たまに仕事が休みのときはもっとリラックスしている姿を見せることもあったが。

 誰かと話すことが根本的に好きらしく、家庭の主婦などもいたがみな授業が終わると、さっと引き上げてしまったが、ぼくはそんなに急ぐこともなかったので、それでぼくに目をつけたのかもしれない。お茶ぐらいならと断る理由もないので(自分はずっと断る理由がないことだけで生きてきたような気もしてきた)付き合うようになった。それは、いつの間にか習慣化してきてしまった。ぼくは、授業を受けることとそれとを同じものであると認識してきてしまった。まあ、とても洗練された女性であったので、とても楽しい瞬間がもてたのだが。

 ある日、うすうすとは知っていたが、彼女は結婚していることを知る。その相手は、当時でもいまでも一流と呼べる会社に勤めていた。そのような人が5時半にきっちりと帰れるわけもなく、いつもみゆきさんは時間をもてあます形になる。それで、彼女はまだ学生時代に習ったことのあるシナリオをもう一度学んでみることにしたようだ。それを夫にいうと、「そうしたいなら、そうすれば」という答えであったようだ。それで彼女はそうした。

 こういう時間がぼくに不図おとずれたわけであるが、多恵子とは正式に付き合っているような形を保っていた。当然のこととして、彼女と話していると幼く感じてしまうときも出てきた。最初のうちは幼いイコール可愛いということでもあったが、ほんのたまには物足りないこともあった。期待以上のことを求めていたのかもしれないが、自分の気持ちを偽ったりすることは、自分には出来なかった。それを表情にまで出すことはないが、心の中で泡粒のように芽生えてしまうことは否めなかった。だが、大筋では好きであることは間違いのないことだった。

 ぼくは一人でいて、誰に指図も受けずにのんびり本などを読みながら寝そべっている自分のイメージを確立したいような気持ちがいつもあった。そこは快適な風が通り過ぎる芝生でも良かったし、きれいなカーテンが心地よくなびいている家でも良かった。しかし、現実はもうちょっと忙しいものだった。忙しいことは窮屈さにつながっていく。自分の人間関係もひろがる予感があった。それは嬉しかったことだが、同時に責任が生まれるということでもあった。そのように考えていると、多恵子から電話があって現実に戻ってくる。

11年目の縦軸 16歳-29

2014年05月10日 | 11年目の縦軸
16歳-29

 朝、目が覚める。本の次のページを開く。店のシャッターが開く。タイムカードを挿入していまの時刻が刻印される。すべてはスタート、開始というものの集合体だ。

 反対に、本の最後のページ。ポンプを押しても出なくなったシャンプー。水を床に流して掃除している閉店前の魚屋。バイトを終えた時刻を機械で印字する。終わり。ぼくは恋というものの大みそかにいる。もちろん、新年を待ち望んでいるわけでもない。そして、最後の日にいることもぼく自身が知らなかった。

 少ない日々。短い期間。もう少し彼女を喜ばすこともできた。笑わすこともできた。ぼくにとって、もっと深い何かを残すこともできた。

 だが、この視点こそがそもそも間違っているのだ。高速で走る車のレースの最中や、マラソンランナーが必死にもがきながら走っている姿こそが神秘であり、貴さの極限であった。応援はまやかしで、声援もまたむなしいものであった。当事者であること。明日を知らないまま最高の選択をすること。それをぼくは二十二年前の彼に願う。そして、声援する。

 しかし、ひとは必ずという付近で間違った選択に傾きやすく、あえて、わざわざ、不可解な方法や道を選ぶ。誰が悪いわけでもなく、成功者にあふれた社会などどこを見渡してもないのだ。だが、それでも今日のために靴に足を入れて踏み出さなければならない。シャンプーを買い足し、魚も仕入れる。それが日常のもつ優越性だ。

 ぼくはデートの約束をする。彼女はおそらく試験休みという期間に入っているのだろう。ぼくはテストを受けるという状態にはもういない。その疲労をともなう数日からの解放という喜びも同時にない。だから、誰からも試されないというわけではない。バイトの段取りを確認され、いくつかの手順を自分で考え尽さなければならない。だが、表面的に見れば気楽な立場だった。いらない歴史の認識など頭につめこむ必要もない。その後、自分で本を読んで覚える必要はあったが、そこには押し売りではなく自分で望んだがゆえのオピニオンのろ過があった。手垢のつかない認識も思想も決してないことを知ってはいるが、数回、異なったホースを通過させるだけで、自分独自のという誤解を生じさせるのは簡単だった。ぼくは、何を言っているのだろう。愛する少女の記憶を思い出すことに専念すべきなのだ。失われる前に。当人もとっくにいないが、記憶さえも早々と失われる過程に迫られてもいるのだ。

 ぼくはどんな腕時計をしていたのだろう? ひげそりはどのような形状だったのだろう? 細部にこそすべてが宿っている。その細部のほとんどがもう失われている。抵抗する方法は?

 この当時の音楽は残っている。ヒットの如何にかかわらず、またラジオでたくさん耳にしたという頻度の量でもない。音楽に物体はいらない。もし、必要ならばぼくはあの頃のレコード盤を直ぐにでも買い直さなければいけなくなる。ぼくのこころに唄がある。同じ部屋に彼女も残そうと思う。

 思い出というものが、それほど大事ではないと仮定する。思い出を残すという働きがもし脳になかったら、人間はもっと毅然としており、淋しさも考えなくてすむ。だが、歴然とあるのだから仕方がない。だから、思い出をためる。思い出がたくさんあることが幸せなのだという無慈悲な基準ができる。思い出などなくていいのだ。一度、眠れば昨日は葬り去られるようにできていれば、無限の涙もいらない。ぼくの明日という未来は幸福な一日になるのだという予測がこの日の前日のぼくにはあり、数十年経ったぼくには期待は報われたにしろ悲嘆が待ち受けているということも知っている。過去の当事者。

 ぼくはこの日をどうすれば良かったのだろう? このまま眠りつづけることか。眠りこそが唯一、与えられたぼくの自由なのであろうか。

 しかし、ぼくは明日を期待している。同じ街に暮らしているぼくら。観光地でもなく、輝ける産業も麗しいビルもない。ぼくは予定を確認する。スケジュールに追われる日々も、残業続きという忙殺の時期でもない。十代の半ば。愛すべき彼女。その代価。

 苦しみというのはどういうものか。飢餓なのだろうか。ぼくらは親の代の頑張りで多くは経験しないで済む。大げさな圧倒的な戦うべき差別もなかった。ぼくは、この歩みのどの時点で苦しみを自分の体内にカプセルの薬のように口に入れてしまうのだろう。避けることもできるのだ。ぼくは過去に戻り、誰かを好きにならないように自分に諭す。しかし、その場の感情がすべてに優先され、ぼくを支配し、君臨するのだ。それがひとりの若い男性という、ひとつの側の性別をもった人間なのだ。個性を重要視しようとしながら、ぼくは大勢と同じ感情に支配されつづけている。誰かを好きになり、報いという褒美を得て、苦しみという副作用を痛烈に感じる。思い出というものに、それがある日、変化され、絆創膏の内側の傷をめくって見るように、おそるおそる立ち直る過程を喜びもなしに気付く。

 すべては明日だ。ぼくはこの日を迎えるまでぼく自身の本来のなるべき姿を知らない。もちろん、知らないままでも良かった。失恋の歌に無感動のままで、悲劇につながる映画にも無頓着でいる。そうなったぼくは、やはり、ぼく自身であるのだろうか? 疑わしい。ぼくのニセモノ。クローン。親が生んだのは、もっと生身の感情をもったこのぼくなのだろう。きっとだが。

繁栄の外で(20)

2014年05月09日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(20)

 多恵子は兄に頼るのになれていたように自然とぼくに馴染んでいった。ぼくらはある面では兄弟関係のようなものでもあったわけだ。だが、一方的にぼくが大人の振る舞いをしていたわけではない。根本的な甘え体質が抜けない自分もいた。

 季節は夏になっていた。ぼくは、バイトが夏の休みをむかえた。これといって予定もなかったし、その年代の子が休暇であったとしても使える金額などたかがしれていた。

 ときには多恵子と電話で話すことが日常化されていた。彼女は、夏の宿題をほぼ終えており、彼女の学校がすすめている講習のようなものも計画的に潰していっていた。それで、ぼくらの予定は空白ということで一致している。それで、成り行きとして海にでも行こう、ということになったわけだ。

 まだ車の免許もないことだし、朝はやくに起き出し神奈川方面行きへの電車に乗った。彼女と会話してぼくは飽きるということがなかった。先天的に話すことが上手なのだろう。でも、ぼくは楽しんできいていたが、ときに彼女は困ったような顔で、何度も「この話面白かった?」と確認した。

 電車が目的地に近付くと、同じように海水浴に向かっている人が多く乗車していることに突然きづく。ある家族のお父さんは子供たちの快活さと比べ、新聞などを読みその違いは明らかだった。そのままスーツを着させれば、いつもの通勤風景のようだった。多恵子はその様子をみて笑った。

 朝のうちの曇っていた天気も、ぼくらが着替えて砂浜に立つころになると青空と白い雲のコントラストが美しい背景となっていた。なんどか水をくぐり抜け、なんどか歓声をあげ、そして、それに疲れるとシートを敷いた上で寝転がった。ぼくはまぶたを閉じ、人間の関係性というものを考えないわけにはいかなかった。ある人間がおよそ16年間ぐらい生き、素敵な外見をそなえ、ぼくの前に現れたことが単純に奇跡のようにも感じていた。その子は、おそらくぼくのことが嫌いではないらしく、また頼りにもしてくれていた。

 そのままビーチでうとうとし、ぼくは冷たい感触を頬に感じて目を覚ます。彼女の手の中には冷たくなった飲み物が握られていた。手から上に目を向けると、彼女の短い髪はぬれてまとまり一瞬、少年のように見えた。そして、完全なほほえみをぼくに向けた。そして、何度目かの乾いた水着をまた海水にひたしぬらすことになった。

 夕方になり突如、スコールのようなものが降り、それを機にぼくらは海を引き上げることにした。

 一日遊んだ身体は、当然の要求として食べ物を欲していた。

 ぼくらはついでだし途中の横浜で降りることにする。そこは予定をして似合う洋服を着ないことには、雰囲気が一致しない気もしたが、それでもあまり気にせずにあるレストランを見つけ入った。ぼくらは、入った瞬間から食欲を満たすであろうにおいを発しているハンバーグに誘われ、それを注文することにした。それは、口に入っても期待を裏切ることはなかった。

 満腹になり、ぼくらは日焼けでほてった身体ですこし熱を放ちすぎるきらいもあったが、それにもかまわずウインドウ・ショッピングをつづけた。それから少し経ち、やはり暑さへの辛抱が切れ、冷房がきいている喫茶店の奥にもぐりこんだ。

「子供の頃、病弱だったってことは、運動も制限されていたの?」そうした心配を一切しらずに育った自分は、不図おもいだしたようにたずねた。
「少しだけね。でも、いまはこのように元気だよ」

 ぼくはいまの姿しかしらないので、以前の彼女の状態が想像できなかった。

 また帰りの電車に乗り込む。いくら洗っても消えない砂の感触が、身体のあちらこちらであった。ぼくは自分の腕や肩をながめ、赤くなっているのをいまさらながら確認した。

 彼女の返事が減ってきたな、と思っているといつのまにか目をつぶっていて、息も軽いものになっていた。ぼくは話しかけるのをやめ、前に映ったガラスの自分たちを見つめた。二人は似合っているといえば、そのようにも思えた。多恵子はきょう兄から借りたカメラを持ってきていた。通りすがりの人に二人の写真も撮ってもらった。それを見てからでも似合っているかの判断は遅くないような気がした。いつの間にか彼女の身体はぼくのほうに傾き、その軽やかな重みをぼくは幸福の代価のように考えていたが、自分にも睡魔が襲ってきたので忘れた。

繁栄の外で(19)

2014年05月08日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(19)

 またバイトに戻っている。外出していた山本さんがお得意先との用事を終え帰ってきたようだ。

 その日の昼は、休憩室でテレビを見ながら近くの店で売っている安いわりには量が多い弁当を食べることにした。弁当が入った袋を手にしてそこに入ると、すでに山本さんもいた。

「そういえば」と言って彼はバックから何かを取り出した。良くみると映画のチケットが2枚あった。お得意のところから貰ったと言って、ぼくに見せた。「お前、映画見るっけ?」
「はい、見ますけど、映画は何ですか?」
「これ、多恵も見たいと言っていたんだよな」と、チケットとぼくを代わるがわるに見比べた。

 ぼくは、説明を求めないことにはいかなかった。彼女は、普通に同級生のボーイフレンドを作ったり、それよりも普通に友人たちと遊びに行ったほうが楽しいのではないか? などの答えを。彼は、幼少のころに病弱であった娘は、学校も休みがちで久しぶりに行った学校内の雰囲気についていけず、いじめのようなものを受けたと言った。それを解消するために、両親はなんどか担任と面談をしたらしい。そのことがきっかけでいくらか気後れする性格が作られてしまったらしい。それでも、いままでは兄がなんとか防御壁のようになっていたが、段々とふたりが成長するにつれ、彼らのなかにもプライヴァシーを大切にしたい気持ちが芽生えたということだ。

「それの代わりですか?」とぼくはたずねた。

「お前、いやなことを言うな」と言ってまた数口ご飯を含んでかみ締めたあと、「そんなこともないけど、あいつのこと嫌いか?」ときかれた。そう言われれば否定するしか方法がないが、ぼくはぼそぼそと言葉にならない音を出した。

 山本さんは、ポットからお茶をつぎ、ぼくにそっとチケットを寄せ、「じゃあ、よろしくな」と言って逃げるように休憩室から出て行ってしまった。

 数日して、多恵子から電話がかかってきた。ぼくが映画に誘いたいらしいが、なかなか言いづらいそうなので彼女からそれとなくきいてみろ、という内容のことばを父にきかされ、かけたとのことを数分してから喋りはじめた。それで、週末の予定をたずね、約束は取り決められた。こうして、日曜は彼女の顔を見ることが当然の日課のようになってしまっていた。そして、彼女のことを傷つけたら許さない人々が数人いるということも、充分ぼくは知っているはずだった。

 ぼくらの町の近くには映画の封切館がなかった。それで、都心に出向く。映画の上映までは時間があったので、洋服などを見ながら時間を過ごした。ぼくは、興味があって彼女の学生生活を、いまやまた昔に感じたこともそれとなく質問した。彼女は、きちんと受け答えをした。

「また、お父さんが子供の頃、ひとりでいることが多かったとか言ったんでしょう?」とにこやかな様子でいった。そこには軽い困惑の表情もいくらかまぶせられていた。

「なんでも、いろいろな経験だからね」と、曖昧であり漠然とした答えをぼくは見つけたようになっている。

 彼女は、そもそもひとりでいることを苦痛に感じることもなく、逆に好きであるようで、それを両親は過剰に反応しているだけだとも言った。子供の頃、男の子は女の子をいじめるのも、仕事のひとつでしょうとも説明した。ぼくは、そう言われれば自分の過去をふりかえり頷かないわけにもいかなかった。現在も、仲の良い子たちと遊びにいっているし、ぼくのことも彼女たちに話したりもしていると言った。納得する気分と、ぼくの存在をどのように語っているか腑に落ちない気持ちで、ぼくは少しぼんやりとした。そうこうしていると、目的の映画館が近付いていた。

 あれは、ポール・ニューマンとトム・クルーズがビリヤードをしていた映画だったろうか? それともまた別のものだったのだろうか。彼女の満足した表情は覚えているが、それ以外のことは印象がうすくなってしまっているらしい。

 ぼくらは、なにも口に出しての契約をしなかった。ただ、日曜には会うことが多くなり、それを通じて気持ちの分子たちが組み替えられていった。それに抵抗するには、ぼくは若すぎたし、そうする気持ちもまったくなかった。 

繁栄の外で(18)

2014年05月07日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(18)

 その日は、太陽がいつも以上に輝き、天気予報を確認する必要もないほどの晴天だった。

 自分の家からはすこし離れた河川敷で、この前約束した草野球が行われることになっていた。試合に出る当人たちは車を乗り合わせて行っているようだった。ぼくらも自転車で行けないこともない距離だったが、電車で数駅乗ってから歩くことにした。そこは、散歩しても気持ちの良い参道があるところでもあった。

 駅で時刻表を確認していると、多恵子が足早に駆け寄ってきた。そこには、さわやかな風が吹いているようだった。

 電車に乗り込み、10分にも満たない距離なので、大して混み入った話もできないが、それでも彼女が幼少のころに草野球に連れて行ったもらった話はきけた。彼女は小さな頃は、病弱で身体が弱かったらしい。それで、天気の良い日などには、太陽を浴び自然を感じることができるよう外につれられた。そこで、元気いっぱいはしゃぐ姿を両親は安堵の目で見たらしい。

 その代わりに彼女の兄は、生まれついての元気な子でスポーツはなにをしてもトップの成績を保てた。しかし、彼女もいつからか病気もしなくなり、いまぼくの前にいる子は、健康この上なしという感じでもあった。だが、両親は過去にした心配を忘れることができないようだ、と多恵子は言った。当然といえば、当然ともいえるのだろう。そして、数回しかあっていないが、彼女の客観的に話す、その話し方にぼくは興味をもつようになっていた。

 目的地につくと、ユニフォームを着た人たちが入念に準備運動をしたり(無理がきかなくなった年齢の人も数人いた)キャッチボールをして身体を暖めることに励んでいたりした。思ったより、若い人が多かった。ぼくらは少し高みの場所に席を確保し、彼女は荷物から、二人が座れるようなビニールシートを出した。ぼくは、なにが必要か分かっていなかった。彼女は、小さなポットも出し、コーヒーでも良いかときいた。ぼくは、ちょっと彼女のほうに振り向き、そしてうなずいた。

 試合がはじまると、さすがにプロではないので些細なミスも多いが、ときには完璧なダブルプレーがあったり、豪快なランニングホームランがあったりした。ずっと見ていたわけでもない。時には、となりのグラウンドのほうまで歩いて、サッカーをしている姿の少年たちを浮気をするような気持ちで眺めた。ゴールがあると、多恵子は快活に叫んだ。むずかしいルールを抜きにすれば、それは単純なスポーツであるのだ。ひとが守ろうとしているゴールにボールをねじ込むだけのスポーツなのだ。ぼくは、彼女のはしゃぐ姿を横目で見て、自分も日曜のさわやかなエネルギーをもらい共感していることをしった。

 試合が終わる前には、野球にもどった。席も近寄り、みんながいる真後ろまでいった。彼女は歓迎され、ぼくのことはいったい誰なんだろう? という様子でみられていた。まっとうな態度でもある。

 試合後、山本さんは娘にいつもの店で集まるからぼくらも来い、と言っていた。彼女はちらっとぼくの表情をみつめてきたので、ぼくは何も考えずに軽くうなずいてしまった。

 また来た道をだらだらといくつかの店をながめながら駅にもどった。それから数駅電車にのり、地元までたどり着いた。

 野球の後はかならず飲み会になるらしく、夕方から開けてもらっている(たぶん関係者がチームにいるのだろう)店に集まって、週中のつかれを取り除いた。

 ぼくらは隅のほうに陣取り、ぼくはビールを飲み、彼女にはアルコールがはいっていないジュースが手際よく用意された。しばらくして場が盛り上がってくると、彼女をからかい出す人が増えていく。父親もそれを防御するわけでもなく、手助けするわけでもなく奥の席でとなりのひとと熱心にはなしている。

 ビールを数杯のみ、料理にもいくらか手をつけたところで、ぼくは山本さんのそばに寄り、彼女をおくってくると言った。

「楽しそうにしていたか?」といまだに幼少の頃の病弱な残像と手が切れない心配した様子で問われた。
「帰って本人にきいてくださいよ、じゃあ」と言って、ぼくらは店を後にした。

11年目の縦軸 38歳-28

2014年05月06日 | 11年目の縦軸
38歳-28

 ぼくにとって印象的だった記憶が、異性というフィルターや年代というものでろ過すれば別々のものであり得るという状態も起こる。ある出来事は共通の記憶だ。例えば、大地震や大事件。記憶という付属物をつけても、それ以上の推進力をそれらは独自にもっている。

 ぼくは絵美と思い出を語り合っている。あの野球の名勝負とか、サッカーの試合ということがふたりの間では交換できない。それは淋しいことでもあるが、同時に、求めていないというのも事実だった。ぼくらには同性の友人もいて、いつか落ち着いたときにこれらを語ればいい。ある過去の同じ時間を同じものに視線を向けた戦友として。

 だが、当然のこと、同じことを経験しても単純に楽しい、とか、悲しいということでも分かれてしまう。それは大げさだろうか。退屈という両方と密接にある中間地もある。ぼくのため込んだ思い出も誰かに話せないので、ひとりだけのものであった。

 ぼくは書き記していないだけで、男性の友人たちとの時間も多くつくっている。それはロマンスにならず、文字としても匹敵しないという観点で抜き取ってしまっている。だから、どこかいびつにも見えている。もちろん、多くの時間は仕事と通勤と睡眠にも費やされている。この美が含まれないことたちに一日の大半は所有されているのだ。ぼくがここまで記してきたことは小さなものを拡大視させているだけなのだ。本来のぼくはここにはいなく、不機嫌やむっつりとした顔で職場や通勤する車内で過ごし、あるいは口を半開きにして眠っていることだろう。文字にするにも値しないことたち。

 ぼくは絵美が横にいながらも友人たちと熱心にサッカーの試合について語っていた。ぼくが見た最高の試合という定義で。あの夜明け前のような時間にテレビをつけている。試合をあきらめるということは誰でもしそうな展開である。その誘惑に流されてしまうのは簡単なことだった。だが、テレビのなかの十一人とひとりの監督はそのことを必死に拒んだ。テレビのこちら側は試合がもう決まっていると思っている。その時点でリモコンのスイッチで画面を消しても良かったのだ。でも、そうしなかった。すると試合はまったく別の様相を帯び、逆転して、スタンドも歓喜につつまれる。ぼくはそのスタンドにいたように興奮を引き戻し、話していた。絵美は耳の片方ぐらいで聞いているらしい。ぼくの興奮も彼女にとって寒々しいものであった。

「あの試合、良かったよね」

 友人は納得する。ぼくらには共通した思い出があった。

 話にも飽きるとぼくらは店のなかにあった画面を見る。もっと劣った最近の試合が流されている。ボールはゴールのはるか頭上を越え、選手も苦笑いのようなものを見せていた。必死さも垣間見られず、例えば、草野球に興じるお父さんたちのような冒険心のなさがそこにあふれていた。ぼくは画面から目をそむけた。

 ここまで来てあのような過去の高貴な瞬間はわずかしかないのだ、と言おうとしている。あとはおよそ怠惰と惰性となれ合いで構築されているのだ。通勤に冒険など決して必要ではなく、ただ時間通り順調に運ばれることだけを願っている。そこにアクシデントも運命も恋心も、はっきりと必要ではなかった。ぼくらは非日常になれるこれらの瞬間を求めつつ、ほとんどはいつも通りということを望んでいた。

 ぼくに数回だけ訪れた輝かしい日々たちを、あえて煮詰めて料理したかのように皿に並べている。しかし、流しには使われなかった多くの食材の切れ端が無造作に放り込まれている。突きつめて考えれば、あのなかに本来のぼくがいるとも言えた。仕事帰りに寄ってコーヒーを飲みながらただぼうっとした時間。ドラッグ・ストアでシャンプーの銘柄を選んだだけの時間。爪が伸びたなと思いながら切ろうかどうしようか迷った数十秒。それは、でもドラマだろうか? 書くに値することたちなのだろうか。

 友人と知り合いの女性と絵美はテレビの話をしている。架空の居住空間にいる異性たちの恋の進展を見守る番組のことを。ぼくは自分に関係ないひとびとのことを、興味もわかないまま聞いていた。画面はアメリカン・フットボールに変わっていた。イングランドの紳士たちが考えたであろうスポーツの足かせ、こんなに機能的で便利な手をつかってボールを移動させてはいけないとか、自分より後ろにしか投げられず、イレギュラーしか起こさない楕円のボールを操るとかのものに比べ、そこには生産的で効率的なことしか見られなかった。ぼくは能率的なことを求めていなかった。変えられない過去を、やはり楕円のボールのようにあちらこちらに転がしてその行き先を茫然と眺めたり、不規則性にあきれたりしている。あれ自身がぼくの過去なのだろう。もっと早く、ひとつひとつのそれぞれをトライという形に持ち込めばよかったのだ。しかし、しなかった。

 ぼくらは外に出る。そこにいると気付かないタバコのにおいが自分の衣服にしっかりと染み付いていることにその場で気付く。周りにはタバコの煙などなかったようにも思えたが、意識しなかっただけで、多くのひとが肺に煙を吸い込んでいたのだろう。

 絵美と並んで歩く。今日という夜という題で作文でも書くよう促されたら、ぼくらの視点はどれほど似通っていて、どれほどの相違を与えてくれるのだろう。ぼくの右に絵美がいた。絵美の観点に立てば、ぼくは左にいた。空には月がある。ぼくは円に近いと考える。彼女はもっと欠けていると見るのか、もっと満ちていると見るのか、スピードとか効率とかが割り込めないどうでもよいことをぼくは考えつづけていた。

11年目の縦軸 27歳-28

2014年05月05日 | 11年目の縦軸
27歳-28

 自分の部屋を掃除していると、希美の角度によっては茶色に見える髪の毛が落ちていることに気付く。ぼくは彼女を愛していると思いながら、いったん、彼女から離れてしまったものには、もう愛着などないことを知った。すると、ぼくは対象のどこまでを受け入れているのだろう。どこから拒絶されても仕方がないことたちなのか。ぼくは掃除機の口をそこに向ける。勢いよくその細い物体は吸い込まれていく。だが、完全にこの部屋からなくなるのには毎日、掃除をしたとしても数か月を要するかもしれない。細かいものはそうやって生き延びていくのだ。

 ぼくは飲み終えたビールの缶もビニール袋に入れてまとめた。これも中味がぼくを酔わせて快適にしてくれたのだが、外側だけになれば何の意味もないものだった。企業のラベルやロゴが印刷され、ぼんやりと色合いだけで会社も判断できる。ぼくは袋の口をしばって集積所に置いた。すると希美が歩いてきた。ぼくは彼女を迎えるために掃除をしたようなものだった。

「こんなに、飲み過ぎてない?」
 その集積所にはほかのひとの分も先に置いてあった。
「これだけだよ、あとは別のビール好き」

 ラベルや銘柄だけではどこの国のものか分からないものもなかにはあった。ベルギーだかドイツあたりのものだろう。こだわるということは手間暇のかかることだった。そして、そのことで何人もの手が介在し、だから仕事と呼ばれるものが生まれるのだろう。なにもしないということは苦痛なのだ。多くのひとにとって。ぼくは掃除をして家からいらなくなったものを捨てる。

 テーブルのうえに希美が買ってきたパンが並べられる。香ばしいにおいがする。彼女はコーヒーをいれた。いままでだったら当然のこと幸せだったと思うひとときだった。だが、ぼくが希美と結婚したいと言い、その返事がないことによって、ぼくらの間に保たれていた恍惚なる均衡にひびが入ってしまったことをぼくらふたりは知っていた。ものごとのほとんどがタイミングだけでできているような気もする。ぼくらは背中に糸くずがついていると指摘されながらも、服を脱がない限り手がとどかないところにあることをぼんやりと知っていた。だが、ぼくらはどちらもそうせず、かといってそれそれの手を利用することを拒んでしまっていた。パンはその分、パサついているように感じられた。ぼくはコーヒーを切り上げ、ビールの缶をふたたび開けた。

 先にもすすめないし、もう後戻りもできない状況だった。ぼくらは惰性というものの軽やかさと重々しさの両端にいるようだった。

 ぼくらは黙って映画を見ていた。主人公の女性は白血病にかかり余命も長くないようだった。そのことが関わる人間の生き方を必然的に変えていく。優先すべきものは、その短くなってしまった命の時間を大切にすることのみになっていく。この期間をいくら楽しもうとしても、いっしょにいればいるほど終わりは近づいて行くのだという淋しさがもう消えないことを全員が知っている。かといって疎遠になるとか、縁を切るなどとは絶対に考えられない。新しいことをすればするほど、新しくすることも減っていく。

 希美の鼻はすする音をさせている。ぼくはなぜだか集中できなかった。どれもこれもウソ臭さに溢れているようだった。突き詰めれば映画を見るという行為もウソを楽しめるかどうかにかかっているのだが、ぼくは塀の外から悲劇や喜劇を楽しめる環境に自分がいないことに気付いてしまっていた。

 ぼくらはその後、抱き合った。魔法のような気持ちがなくなれば、それは野蛮な行為に過ぎなかった。ぼくの顔のほんの数センチ先に希美の顔があった。ぼくにはそうする権利があり、これがいつまでもつづくと思っている。悪意というものも、騙すということもぼくらの間には皆無だった。だが、厳然と白けるという感情はきっちりと間におさまった。

 ひとがいままで好きだったものを嫌いになっていくという過程を成分のようなもので証明できたらと思う。塩気が足りないからちょっと足そうという安易なことででもいい。ぼくは、だが嫌いになどなれなかった。白々しいというものがそれでも確かに、わずかにあった。彼女は変わっていない。無論、ぼくも変わっていない。この普通だった関係を永続的なものに変えようとした結果、おかしな結末になった。いや、結末もまだ出ていない。

 希美が靴を履いている。かかとがなかなか入らなかった。
「足、むくんだのかな?」と、希美は切なそうにいう。
「むりやり、いれても痛いだけだろう」ぼくは玄関にすわる希美の肩辺りにむかって立った姿勢のままそう言った。
「裸足で帰れないじゃない」むっとしたような口調で彼女は答えた。先ほどまで、数センチ先にあった身体の所有者とは思えない口ぶりだった。

「脱げたんだから、また、はいるだろう」
「あ、はいった」彼女は立ち上がり、振り返る。ぼくは屈んで彼女の唇に自分のそれで触れる。彼女は戸を開ける。夜のひんやりした空気がなかに忍び込もうとした。「じゃあね」
「また。気をつけて」

 ぼくはいつもなら駅か、せめてもその途中まで送ることになっていた。決まり事でも約束でもないが、大体はそうしていた。だが、なぜかぼくはその日はそうしなかった。もし、彼女が先ほどの映画の大病をわずらう主人公であるならば、ぼくは一瞬でさえ彼女の時間を失うようなことはしなかっただろう。ぼくらはドラマティックにもできていないし、劇的になるような背景の音楽も響かすことはできなかった。

 ぼくは何枚かの皿を洗い、いくつかのグラスをすすいだ。また増えた空き缶を袋に入れる。中味を楽しむためにこの軽い外側があるのだ。ぼくはそのひとつを握りつぶした。缶は悲鳴もあげなければ、抵抗もしない。ちょっとした不愉快そうな口調だけでぼくのこころは戸惑っていた。これも、好かれたいとか、好きであるという感情がある証拠なのだろう。ぼくはいま追いかければどこら辺で彼女に追い着くのか空想したが、実行にはうつさなかった。実行しなかったものは結局、世界は認めないのだ。譜面としてとどめなかったメロディー。白血病を根絶させる薬。あのときというきらびやかな瞬間の手前。

繁栄の外で(17)

2014年05月04日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(17)

 その頃の時代の風潮として、ある人々は不動産投機にはしったり、一攫千金をねらったり、女性たちが自分たちの地位をさまざまな面でもちあげたりする時代でもあった。自分は、それらに加わるにはきちんとした大人ではなかったが、いくらかのあぶく銭はまわってきたような気もする。

 バイトも忙しくなっていた。いま勤めているところの上役には兄弟がいた。弟がいるのは別の会社だが関連した同じような業務だったので、暇になった土日にでも、ちょっと時間を貸してくれないか、と言われ勧められるままそこで働いた。兄弟でどのような取り決めがあったのか知らないが、ぼくはそちらの業務に向いているらしく、職場をかわった。時給も数百円上乗せしてくれるという約束であった。

 馴れない仕事だったので、数ヶ月は黙々と働いた。まじめに働けば誰かの注意が向くこともある。向かないことも当然のことに多いが、それはまた別の話だ。

 ある日、休憩中にその弟さんの方に呼ばれた。
「今度、暇なときにうちに飯でも食いにこいよ」と面倒見がよいとうわさ通りの表情でぼくを誘った。ぼくは、断る理由もないので、その誘いに乗った。

 その家には、大学一年の兄と、高校生になったばかりの妹がいた。その妹は、社内でも可愛いとの評判がたっていた。ぼくも、はじめて目にしたが、その噂が本当であることを知った。その子供たちの母があらわれ、ぼくにくつろぐように言ってくれ、娘とかわるがわるに料理をテーブルに運んだ。その往復は数回にもおよんだ。

 その上役は山田さんといった。山田さんは、ビールの瓶のふたをあけ、ぼくにも注いだ。すばやく自分も飲み干すと早々と、もう少しアルコール濃度の濃い酒に切り替えた。顔がいくらか赤くなってそこらのお兄さんのような口調になり、お酒がそうさせたのだろうが饒舌になった。そうなってから、ぼくの仕事ぶりをほめてくれ、ガールフレンドはいないのかと問いたずね、いないなら休日はどうして過ごすのかと、問いを増やしていく。問いに比べ、その答えを欲しているようにも思えなかったのだが。

 その執拗な問いに多感なとしごろの娘は、もう少し控えるように父をさとした。

 懲りずに父は、自分は草野球をしているので、今度一回見に来ないかとの約束が生じた。本音としては、娘が小さいときは見にきたが、いまはいろいろ忙しいとの口実を設け、足が遠のいているので一緒に見に来てほしい、ということのようだった。ぼくもその提案はいたって悪くないので、そのプランを受け入れる。彼女は、ちょっと父に対していやそうな顔をしたが、たまには仕方がないかという表情に直ぐにかわった。

 数時間たち、手には食べられなかったデザートの小さな箱をもたされ、ぼくはその家をあとにする。母は食器を洗っているらしく手が離せず、父はもうすでに眠気を覚えていて、この地上とのつながりから切り離されようとしていた。兄は、友人と電話をしていた。なので、送ってくれたのは多恵子というその家の娘だけだった。

 ぼくは、丁寧に礼を述べた。

「あの野球のけん、迷惑じゃなかった?」と彼女はきいた。今度の週末に彼女と見に行く方向で話は決まっていた。ぼくは、もちろん最大限できるだけの笑顔をつくり、楽しみにしていることを告げた。こうして、新しい恋心が自分をノックするのではないかとの予感があった。

 それで、きっちり一週間が過ぎ、その間、山本さんはこの前の約束の話をしないので、あれは社交辞令なのかなと考えていると、その日の帰りがけに、
「多恵とどこで待ち合わせしているんだ?」と、きいてきたので、ぼくは慌ててその場所を答えた。

 彼女は小さなころにその職場にきていたらしく、多くの人が彼女の存在を知っていた。それぐらい家族のような環境の小さな会社だった。

 事務をしているおばさんが、声の調節が狂ったように、「多恵ちゃんきれいになったかしら。わたしも見たいわ。一緒に野球みにいくの?」と大きな響く声で言ったので、ぼくは小さな声で「ええ」とだけ答え、すぐに上着をはおってそこを後にした。

 しかし、ぼくの心底では前の女性が根付いてしまっているのも、またまぎれもない事実だった。

繁栄の外で(16)

2014年05月03日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(16)

 17歳になろうとしている。友人の知り合いに紹介してもらい、新たなバイトをするようになった。何かの部品の一部をつくるような根気のいる仕事だった。しかし、当然のようにその間、学校にいっている友人たちよりは収入があった。だが、それも根本的にはお金に無頓着である自分には、喜びともつながったり連動したりはしていなかった。

 後日、きちんと教育を積んだ人間に抜かされることは自明の事実である。

 午後の休憩になると、短い時間ながらもキャッチ・ボールを前の駐車場の空き地でした。それはのどかな光景だった。そののどかさの一部に、自分は自然と溶け込んでいた。

 いま考えると8年周期ぐらいで自分の人生は変化していたんだな、と感じるときがある。このころから、本気で本を読むようになる。まるで、人生を探求するように、登頂するように。

 古い小説なども読み始める。それは、誰かが真剣になった姿の証拠だった。自分は、そのころ影響を受けることが多いものと直面する時代だった。もしかして、自分も「人間失格」や「こころ」(それぞれの作家の最高傑作は別のものであるという認識でいまはいる)のような小説を書くことが要求されているのではないか、という錯覚も生じる。そして、ワープロがまだ普及する前だったと思うので、ペンを白い紙にすべらす。

 こうして、紙に自分の思いをぶつけると、それは普遍的なにおいを帯びた。不思議なことだ。いくらか書いたものがたまると、それを公表したくなる気持ちが芽生えるのは常だが、なぜかそこは商売っ気と、コネと、世襲で出来ているという思いが捨てきれず、自分の実力も度外視して、その一部に加わる気などさらさらないことを知る。商品として、パッケージにくるまれ、人々の口々にのぼることなどイメージできない。イメージできないことは、実現できないということでもあるだろう。ある日、いくらか溜まったものを、燃えるゴミの火にまとめて捨てた。手放してしまえば、自分にはそんな才能が一片もなかったという事実も理解できるようになった。

 バイトをしたお金を手にして、表参道やいまでいう裏原宿というところに通うようになった。そこで、気に入った古着を買ったり、アンティークの小物を買ったりした。最後は渋谷の方まで歩き、輸入レコードショップに入ったりした。そこには独特のにおいがあり、当時は万引き防止のためだったのだろうか長方形の紙製の箱にCDは包まれていた。家でパッケージを破ると、そうとうのゴミが出た。

 週末は、友人に乞われ地元から少し離れた街へナンパをしに行った。当然のように自分は、最愛のものがそうした形で手に入るとは思ってもいなかったし同行している友人がハンサムでもあったので、自分に振り向いてもらうことも不可能だと感じていた。そもそも、それを補う話術もあるわけでもないので、友人のアシストをするためだけに自分は付いていった。もうちょっと、建設的なことに時間を費やしても良いのにといまの自分は思うが、時間の大切さはその年代によって全然ちがうものなので、それも仕方のないことだろう。

 友人は、それで何回かはうまくいき、そのうちのひとりの子をぼくも見た。ビリヤードを一緒に行って楽しんだ、ということもきいた。なかなか可愛い子だった。

 あるエピソードとして、彼の容貌はたしかに良かった。あるファミレスの店員に声をかけ、その店員は気持ちが動いたのだろう。ある日、彼はナンパした女の子とその店に行く。その席の担当は彼が数回、声をかけたその女の子だった。そこで、表情も変えずに水が入ったコップをテーブルに思いっきり、中の水がこぼれるほどの勢いで置いたそうで、その後気まずい思いをした、と言っていた。

 格好良い男もそれぞれ、大変で面倒なことが多いんだな、と自分はひとごとのこととして楽しく話をきく。

 自分は、古着のジーンズを履いて、新宿や渋谷の映画館に入る。あらゆる知識が欠けている、という事実を受け入れ、それを一つずつ消していきたいと考え実行する。みなが見ないような過去のハリウッド映画なども名画座で見る。

 その頃は、古い映画を安く見せる場所が都内にもいくつかあった。その映画館の場所などを通じながら都内の地図をインプットしていったのかもしれない。

 まだ、新宿の西口にも大きな空き地があり、未来を予想したり空想したりする余裕のある時代でもあった。