16歳-30
ぼくは渋谷にいた。冬の一日。横には彼女がいる。ほぼ一時間前には地元の駅にいた。数分、ぼくは彼女を待った。寒さもイライラもまったくない。期待のあらわれである。この後、女性を待つということを何度も行ったが、このときのような新鮮さを保っていたかと問われれば、その気持ちは段々と薄まっていくというのが本当の気持ちだった。そして、約束の不履行は切腹でお詫びするということを冗談でもなく、考えている自分もいる。大体は待たされる。反対の性質のひとは、大体が悪びれずに待たす。ただの待ち合わせについての話題なのに、大げさになった。まだこの頃は契約のための印鑑も自分個人のものはもっていなかっただろう。さらに、待ち合わせは契約でもなんでもない。喜びと悲しみの数分間である。では、大人の定義ははんこを持っているか否かということで分類されるのだろうか。それも、一理ある。
ぼくらは映画を見ることになっていた。その見る場所というのも重要な選択である。
映画の開映時刻というものを確認するにはそれ専用の雑誌を見るか、チケット売り場で表をながめるしかなかった。便利というものは、どこまでが到達点として設定されるべきものなのだろう。あのぐらいでちょうど良かったのかもしれない。不便さもこの程度なら目くじらを立てることもない。また、あの雑誌は当時にしては画期的に便利なものだった。
八十年代の半ば。若者は背伸びをするということでまだ若者だった。そして、大人になりきるには上限を勝手に設けて、そこを突き抜けるのは自身で戒めていたであろう。それは自分でお金を稼いでから楽しむべきこととか、もちろん、援助なんていうまやかしの言葉でやましさを正当化させることなど表面的にはなかった時代だ。こうして、いま、ぼくは単純にむかしをなつかしんでいる。かまどで炊いたご飯がいちばんおいしかったとでもいうように。
映画館に入った。ぼくは監督の作風とか、芸術的な価値を知る前の話だ。
ただの娯楽。デートのための娯楽映画。
このときの主題歌が印象的だった。ものごとを覚えさせる痕跡が散りばめられている。だから、こうして記憶を振り戻して書くこともできるのだろう。
八十年代ではなくても若者はお腹が減る。ぼくはどこで食べるか迷う。一先ず、喫茶店のところのような場所でお茶を飲む。窓のそとにはいつもながらのひとに溢れた通りがある。彼女の飽きた顔とか不服な顔をぼくはいつの日か見ることがあるのだろうか。それさえも彼女の一部なのだろうか。ぼくは、きょうは片側しか見ていない。同時に、ぼくも片側しか見せていない。愉快な自分。希望にあふれている自分。
結局、食事は、彼女が入ったことのある公園通り付近の家族向けのような店に入った。
ぼくは給仕をしてくれた男性のことを思いだす。ぼくらがどこかの外国から来た大切なお客様のようにもてなしてくれた。ぼくはもっとぞんざいに扱われることになれていた。女性の前でこのように丁寧に接してもらうことは自尊心をくすぐられることだった。ただ、彼女が誰にとっても可愛いから、ということが唯一の対応の理由かもしれない。
もっと大人になれば時間の引き延ばし方や、反対に、時間があまりにも短く夜が迫ってくるとかの感慨を抱くのだろうが、ぼくにとっては等身大の時間軸だった。夜はゆるやかに迎えてくれ、ぼくらはすることもなくなる。友人たちは自分の愛したものの身体を求めた。ぼくはなぜかそうすることをためらっていた。楽しみはもっとあとにとっておくのか、それとも、彼女のそうした一面に無意識下で目を背けたかったのだろうか。
山手線の線路をくぐり、明治通りを歩いている。ぼくの好きな道のひとつだ。彼女は歩いたことがないと言う。線路を抜けずに、代々木競技場を横目に代々木公園の方に向かって原宿に出る。ぼくは、なぜだか彼女が友だちと歩いているその姿を思い浮かべる。そのイノセントさを奪う権利が自分にはないような気がした。では、誰のものなら無下にしてよいのだろうか。答えはない。夜は、この日の夜はぼくらのものだった。この通りもぼくらが歩行するために舗装されたものだった。
ぼくは明治神宮のそばの駅にいた。
半時間後には乗換駅にいる。そこで彼女はある女性と思いがけなく会話をする。知り合いのようでもあるし、他人のような距離感でもある。
「あのひと、誰?」当然の疑問だ。
「お姉ちゃん」
ぼくはただ驚いた。彼女に妹がいることは知っていたが、姉がいるということはこの瞬間まで知らなかった。狐につままれるという例えを身に染みて感じる。彼女は三姉妹の真ん中であり、ぼくは三人のむさ苦しい男の兄弟の真ん中であった。ぼくは、彼女について何も知らないことをこうして覚らされる。そして、大事なことだが愛にとって、対象の情報などそれほど必要ではないのだろう。
ぼくらは帰るところはいっしょ(彼女と姉)だが別の車両に乗り込む。ぼくは家まで彼女を送る。その家に彼女の姉もいる。渋谷のデパートで働いていると言っていた。彼女はいずれ、どういう仕事に就くのだろう。ぼくは会ったままの姿で女性をいつまで帰しつづけるのだろう。
ぼくは渋谷にいた。冬の一日。横には彼女がいる。ほぼ一時間前には地元の駅にいた。数分、ぼくは彼女を待った。寒さもイライラもまったくない。期待のあらわれである。この後、女性を待つということを何度も行ったが、このときのような新鮮さを保っていたかと問われれば、その気持ちは段々と薄まっていくというのが本当の気持ちだった。そして、約束の不履行は切腹でお詫びするということを冗談でもなく、考えている自分もいる。大体は待たされる。反対の性質のひとは、大体が悪びれずに待たす。ただの待ち合わせについての話題なのに、大げさになった。まだこの頃は契約のための印鑑も自分個人のものはもっていなかっただろう。さらに、待ち合わせは契約でもなんでもない。喜びと悲しみの数分間である。では、大人の定義ははんこを持っているか否かということで分類されるのだろうか。それも、一理ある。
ぼくらは映画を見ることになっていた。その見る場所というのも重要な選択である。
映画の開映時刻というものを確認するにはそれ専用の雑誌を見るか、チケット売り場で表をながめるしかなかった。便利というものは、どこまでが到達点として設定されるべきものなのだろう。あのぐらいでちょうど良かったのかもしれない。不便さもこの程度なら目くじらを立てることもない。また、あの雑誌は当時にしては画期的に便利なものだった。
八十年代の半ば。若者は背伸びをするということでまだ若者だった。そして、大人になりきるには上限を勝手に設けて、そこを突き抜けるのは自身で戒めていたであろう。それは自分でお金を稼いでから楽しむべきこととか、もちろん、援助なんていうまやかしの言葉でやましさを正当化させることなど表面的にはなかった時代だ。こうして、いま、ぼくは単純にむかしをなつかしんでいる。かまどで炊いたご飯がいちばんおいしかったとでもいうように。
映画館に入った。ぼくは監督の作風とか、芸術的な価値を知る前の話だ。
ただの娯楽。デートのための娯楽映画。
このときの主題歌が印象的だった。ものごとを覚えさせる痕跡が散りばめられている。だから、こうして記憶を振り戻して書くこともできるのだろう。
八十年代ではなくても若者はお腹が減る。ぼくはどこで食べるか迷う。一先ず、喫茶店のところのような場所でお茶を飲む。窓のそとにはいつもながらのひとに溢れた通りがある。彼女の飽きた顔とか不服な顔をぼくはいつの日か見ることがあるのだろうか。それさえも彼女の一部なのだろうか。ぼくは、きょうは片側しか見ていない。同時に、ぼくも片側しか見せていない。愉快な自分。希望にあふれている自分。
結局、食事は、彼女が入ったことのある公園通り付近の家族向けのような店に入った。
ぼくは給仕をしてくれた男性のことを思いだす。ぼくらがどこかの外国から来た大切なお客様のようにもてなしてくれた。ぼくはもっとぞんざいに扱われることになれていた。女性の前でこのように丁寧に接してもらうことは自尊心をくすぐられることだった。ただ、彼女が誰にとっても可愛いから、ということが唯一の対応の理由かもしれない。
もっと大人になれば時間の引き延ばし方や、反対に、時間があまりにも短く夜が迫ってくるとかの感慨を抱くのだろうが、ぼくにとっては等身大の時間軸だった。夜はゆるやかに迎えてくれ、ぼくらはすることもなくなる。友人たちは自分の愛したものの身体を求めた。ぼくはなぜかそうすることをためらっていた。楽しみはもっとあとにとっておくのか、それとも、彼女のそうした一面に無意識下で目を背けたかったのだろうか。
山手線の線路をくぐり、明治通りを歩いている。ぼくの好きな道のひとつだ。彼女は歩いたことがないと言う。線路を抜けずに、代々木競技場を横目に代々木公園の方に向かって原宿に出る。ぼくは、なぜだか彼女が友だちと歩いているその姿を思い浮かべる。そのイノセントさを奪う権利が自分にはないような気がした。では、誰のものなら無下にしてよいのだろうか。答えはない。夜は、この日の夜はぼくらのものだった。この通りもぼくらが歩行するために舗装されたものだった。
ぼくは明治神宮のそばの駅にいた。
半時間後には乗換駅にいる。そこで彼女はある女性と思いがけなく会話をする。知り合いのようでもあるし、他人のような距離感でもある。
「あのひと、誰?」当然の疑問だ。
「お姉ちゃん」
ぼくはただ驚いた。彼女に妹がいることは知っていたが、姉がいるということはこの瞬間まで知らなかった。狐につままれるという例えを身に染みて感じる。彼女は三姉妹の真ん中であり、ぼくは三人のむさ苦しい男の兄弟の真ん中であった。ぼくは、彼女について何も知らないことをこうして覚らされる。そして、大事なことだが愛にとって、対象の情報などそれほど必要ではないのだろう。
ぼくらは帰るところはいっしょ(彼女と姉)だが別の車両に乗り込む。ぼくは家まで彼女を送る。その家に彼女の姉もいる。渋谷のデパートで働いていると言っていた。彼女はいずれ、どういう仕事に就くのだろう。ぼくは会ったままの姿で女性をいつまで帰しつづけるのだろう。