田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『1900年』

2018-11-28 20:20:59 | 映画いろいろ
『1900年』(1982.12.1.新宿シネマ2)



 最終日の最終回に飛び込み、5時間あまり立ちっ放し。年に3回の映画半額デーは、映画のはしごをすることにしているのだが、この映画の立ち見は、さすがに肉体的にはつらかった。だが、それだけの労力を要しながらも、見終わって満足感を得たということは、この映画に見る者を引き付ける力があったということなのだろう。

 この映画は、1900年のイタリアで、ほとんど同時に生を受けた地主と小作人の息子という相反する2人の家系を軸にして、第一次世界大戦、ファシズムの台頭から第二次世界大戦の終了までのイタリア現代史を語っていく。

 先に見た、クロード・ルルーシュの『愛と哀しみのボレロ』(81)が、欧米各国の近代史をうわべだけ描いて、それをラストでひとまとめにし、無理を感じさせたのに比べると、この映画は舞台をイタリアの一地方に絞ってたっぷりと見せてくれる。その中から、地主と農民、それぞれの変遷や、ファシズムの残酷さ、民衆のたくましさなどが浮かび上がってくるのだ。
 
 冒頭、赤旗の農民たちに小突き回される黒シャツ隊のドナルド・サザーランドの姿が映る。後半に映る彼のファシストとしての残虐行為をまだ見ていないわれわれにとっては、これもひどく残酷な行為に見えた。つまり黒シャツ隊も赤旗も、貧しさのあまり行き着くところは暴力であるということ。

 そして、ラストで元地主のロバート・デ・ニーロが吐く「地主は生きている」というセリフに象徴されるように、ファシズムが終わっても、特権階級と農民、支配者と被支配者という構図は変わらない。地主の代わりに、新たに解放軍という名の支配者が誕生しただけなのだ。

 この映画の舞台であるイタリア、そしてドイツと日本は、第二次大戦中にファシズムを推進した同盟国だった。それを考えると、イタリアでこの映画が作られ、ドイツでは『ブリキの太鼓』(81)が作られと、他の二国では映画の中でファシズムの本質を描いているというのに、日本ではそうした映画が見当たらないのはつくづく残念だ。

 【今の一言】横浜にあるノベチェントという映画館の名前は、この映画の原題から取られているのだとか。
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『ラストエンペラー』

2018-11-28 05:12:53 | 映画いろいろ

『ラストエンペラー』(87)(1988.1.29.松竹セントラル)



 あのベルトルッチが中国を舞台にした映画を撮ると知った時は少々戸惑った。それは、これまでの彼の作品群と中国とが全く結び付かない気がしたからなのだが、見てみると思ったほどには違和感はなく、2時間45分という大作ながら、飽きることなく見ることができた。

 何より、溥儀という人物の、数奇で悲劇的な人生、そして動乱期の中国という題材そのものが、すでにドラマとしての面白さを十分に持っている。それをイタリア人のベルトルッチがどう描いたかが問題なわけだが、多少の疑問は残るにしても、この題材をこれだけの規模で描いた映画はかつてなかったのだから、素直にベルトルッチの力量を讃えるべきだろう。

 加えて、この映画の核は子役もさることながら、溥儀役のジョン・ローンの好演にある。彼なくしてこの映画の成功はなかったと言っても過言ではない。

 さて、ひたすら歴史にもてあそばれ、皇帝から一市民へと落ちぶれた溥儀の一生とは何だったのか。その答えの一端が、ラストに映る玉座に隠されたコオロギの入った小箱に象徴される。

 かつて皇帝として住んだ紫禁城で、今は一介の庭師となった彼の自由になるものは、子供の頃に隠したこの小箱一つだけという皮肉と空しさ。最後まで孤独で、かつては栄華を極めながらも、結局は母の愛も、子供の頃の夢さえも手に入れられなかった男の一生。小箱は『市民ケーン』(41)のローズバッド(バラのつぼみ)であり、紫禁城はザナドゥだったのだ。



【今の一言】実際、この映画の音楽を担当し、甘粕正彦を演じた坂本龍一は、撮影前に製作のジェレミー・トーマスから『市民ケーン』を見るように言われたという。

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