「KyodoWeekly」11月23日号から「コロナ下で相次ぐ長時間映画の公開」共同通信のニュースサイトに転載。
https://www.kyodo.co.jp/national-culture/2020-12-23_3429393/
『巴里の屋根の下』(30)(1981.4.5.)
パリの街頭で楽譜を売って生活しているアルベール(アルベール・プレジャン)は、ルーマニア出身のポーラ(ポーラ・イレリ)と出会い、ひと目惚れをする。ところが、ある日、ひょんなことから部屋を締め出されたポーラがアルベールの部屋に居候をすることになって…。
先頃(81.3.15.)死去したルネ・クレールのトーキー第一作。1930年製作だから、今からおよそ半世紀前に作られた映画である。今ではファッションの都などと、華やかな形容詞で語られるパリも、この当時はむしろ地味な下町のように映る。
前に見た『巴里祭』(32)もそうだったが、クレールは本当にパリを愛していたんだなあと感じさせる雰囲気が映画全体に漂っているが、これは実景ではなくセット撮影だという。また、サイレントからトーキーへの移行期の映画なので音の使い方がとても面白い。主題歌も公開当時評判を呼んだというが、なるほどという感じのする名曲だった。
『華麗なるギャツビー』(13)(2013.6.29.MOVIX亀有)
豪邸に暮らす謎めいた男ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)は、毎夜のように豪華なパーティーを開くが、誰も彼の素性を知らない。ギャツビーは隣人のニック(トビー・マグワイア)に、自らの生い立ちを打ち明けるが…。アメリカ狂乱の1920年代、退廃と欲望渦巻く上流社会を舞台に、ギャツビーが人生の全てを懸けた、ある秘密を描く。原作はF・スコット・フィッツジェラルド。
1974年のジャック・クレイトン監督、フランシス・フォード・コッポラ脚本、ロバート・レッドフォード主演版は、当時のノスタルジーブームの中で作られたため、ひたすら20年代末期を再現することの方に重きを置いていたが、今回はバズ・ラーマンらしく、背景にも音楽にも、今を感じさせる趣向を端々に凝らしている。そのため、時代掛かっていない分、現代にも通じる話として示すことに成功している。
また、ギャツビーの屈折や狂気の表現という意味では、レッドフォードよりもディカプリオの方が合っていたかもしれない。デイジーも前作のミア・ファローよりも、今回のキャリー・マリガンの方がピンときた。今は、この映画が描いたような男の純情は「だからどうした」と思われてしまうのか…。新旧作とも、まるで全てを見透かしているかのような眼鏡の看板が印象に残る。