幕末の志士 田中光顕や井原応助らが脱藩していった旧松山街道を同じく北に歩いて横畠にある「大山祇神社」(薬師堂)を目指した。八里塚、樺休場、合中、九里塚とあるのだが八里塚のあたりは、段々畑で蜜柑やらピーマンやらを栽培していて人が通った後がまだあった。


往時を偲んで眼下の景色を眺めながら進む。樺休場から薬師堂までは2.5キロとあった。

ここから道は誰にも踏まれてないのかふかふかだ。人の営みってすごいなと思うのは、かつてここは生活道だったから踏みしめられて固い道であっただろうに毎日毎日ここを歩くことがなくなれば道は元に戻ってふかふかとなるのだ。歩きながら人が生きるということを考えさせられた。道を降りたところに薬師堂という標示があって道路に向かって斜めに示されていたから石上神社でお参りしてその後ろにある狭い道を降りて行った。どこにも薬師堂なんてないぞと思いながら降りきると土地の人がちょうどいて聞くと「降りてきたらいかんぞね」と言われた。それでも自分達が昔通ったのだろうか学校へ抜ける道があると教えてくれた。「学校の隣が薬師堂やきね」ありがとうと礼を言ってその道を登るとこれが半端じゃないほどのキツイ坂。むかしの小学生はエライと感心した。着いた。小学校の横なのに薬師堂がわからない。通りかかった人に聞くと「大山祇神社」のことだという。ついでに帰り道を尋ねると丁度下の町へ行くから見学が終わったら乗せて行ってくれると言うありがたい。早速、急な参道を登って見学。

誰もいないけど戸をあけて社殿におじゃまする。ここは、36歌仙の絵が天井に描かれていて当時のままで保存状態がいいと聞いていたから見たかったんだ。

また、奥の院の周辺の彫り物もすごいとのことだったが、いまでは許可なくみることはできないらしい。車を待たせているので再来を誓って降りる。親切なご婦人の運転で下の宮まで運んでくれた。土佐は親切。ありがとうございました。またお伺いします。


往時を偲んで眼下の景色を眺めながら進む。樺休場から薬師堂までは2.5キロとあった。

ここから道は誰にも踏まれてないのかふかふかだ。人の営みってすごいなと思うのは、かつてここは生活道だったから踏みしめられて固い道であっただろうに毎日毎日ここを歩くことがなくなれば道は元に戻ってふかふかとなるのだ。歩きながら人が生きるということを考えさせられた。道を降りたところに薬師堂という標示があって道路に向かって斜めに示されていたから石上神社でお参りしてその後ろにある狭い道を降りて行った。どこにも薬師堂なんてないぞと思いながら降りきると土地の人がちょうどいて聞くと「降りてきたらいかんぞね」と言われた。それでも自分達が昔通ったのだろうか学校へ抜ける道があると教えてくれた。「学校の隣が薬師堂やきね」ありがとうと礼を言ってその道を登るとこれが半端じゃないほどのキツイ坂。むかしの小学生はエライと感心した。着いた。小学校の横なのに薬師堂がわからない。通りかかった人に聞くと「大山祇神社」のことだという。ついでに帰り道を尋ねると丁度下の町へ行くから見学が終わったら乗せて行ってくれると言うありがたい。早速、急な参道を登って見学。

誰もいないけど戸をあけて社殿におじゃまする。ここは、36歌仙の絵が天井に描かれていて当時のままで保存状態がいいと聞いていたから見たかったんだ。

また、奥の院の周辺の彫り物もすごいとのことだったが、いまでは許可なくみることはできないらしい。車を待たせているので再来を誓って降りる。親切なご婦人の運転で下の宮まで運んでくれた。土佐は親切。ありがとうございました。またお伺いします。