完全な輪として結ばれるためには知識の輪のほかにもう半分のものがいる。この円が心の中に生きていなければ強く生きることは出来ない。豊な人生とはならない。それは、決して便利なものがいっぱい揃っている生活のことを言っているのではない。大切なことは、毎日の暮らしの些細なことの中にある。それは、深遠でもなければ、華々しくも無い。
昨日の悲しみは、昨日と言う日に任せて暮らしてはいるのですが、最近この言葉の意味を何回も考えています。「感謝」と一言でいうのは簡単なんですが、何故か、構えてしまうようなところがあると思います。自分達が、小さいときから躾られてきた生活の中の立ち居振舞いから自然と身についたものが、大きくなってからの知識と渾然となって自然体でにじみでてきたものが感謝という概念ではないだろうか。感謝をするってはるか彼方からの時間を旅してきた感情なんだなと改めて思う。でも、僕らのように、盲目的ではあるにしろ厳しく躾られなかった子供たちは感謝をどうやって知るのだろう。感謝が、知識の中にあるだけで乾いた心の壷を潤す術を知らない人々が彷徨しているように思えてならない。完全な円、この言葉は、ネイティヴアメリカンの言葉であるが、何故か、仏教の言葉でもあるのが不思議だ。対立ではなく、慈悲の文化が世界で融合しているようだとフェンネル氏は思いました。
昨日の悲しみは、昨日と言う日に任せて暮らしてはいるのですが、最近この言葉の意味を何回も考えています。「感謝」と一言でいうのは簡単なんですが、何故か、構えてしまうようなところがあると思います。自分達が、小さいときから躾られてきた生活の中の立ち居振舞いから自然と身についたものが、大きくなってからの知識と渾然となって自然体でにじみでてきたものが感謝という概念ではないだろうか。感謝をするってはるか彼方からの時間を旅してきた感情なんだなと改めて思う。でも、僕らのように、盲目的ではあるにしろ厳しく躾られなかった子供たちは感謝をどうやって知るのだろう。感謝が、知識の中にあるだけで乾いた心の壷を潤す術を知らない人々が彷徨しているように思えてならない。完全な円、この言葉は、ネイティヴアメリカンの言葉であるが、何故か、仏教の言葉でもあるのが不思議だ。対立ではなく、慈悲の文化が世界で融合しているようだとフェンネル氏は思いました。
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