近所で発生した火災からひと月。幸い負傷する人もなく鎮火した。60年前に建てられ、数年前に休業された銭湯、倒壊の恐れがあるからと危険の表示もされたが心配だけに終わった。そんな中、焼失の現場を見つめられる肩を落とされた持ち主の背中を見るにつけ、火の恐ろしさを改めて思い起こす。
その銭湯の取り壊しが始まった。この地域には3軒の銭湯があった。そのうちの1軒、最後まで営業されていたのがこの焼けた銭湯だった。午後4時前になると、銭湯の軒下はちょっとした集会場のようだった。そこの利用者の飾り気のないにぎやかな会話が聞こえ始める。大方が高齢の人で、軒下の会話は楽しかったのだろう、と今も思っている。
低学年くらいの子ども2人とその両親だった。「お風呂屋さんは何時に開きますか」と聞かれたのはある年の8月の終わり、猛烈な暑さの日だった。「いつも4時には開きますよ」と教えたが、それまでまだ1時間もある。聞くこともなく話になり、九州から引っ越して来て荷物の整理が一通り終わった。近所の人に銭湯があると聞き、親子で汗を流しに来た、と話す。町の銭湯、その存在感を知ったことがある。
銭湯と造り酒屋に煙突は切り離せない設備、かってはそこから上る煙は町の勢いでもあった。時代とともに変わり造り酒屋2軒の見上げるような煙突はすでに姿を消し何軒もの住居に変わった。明治になり旧家臣や士族女性のための授産事業として作られた義済堂の煙突も消え広い分譲宅地に変わった。
取り壊しと共に消える銭湯の煙突、もう姿を見ることはなくなる。これでこの地域から煙突と呼べるものは無くなる。それとともにこの地域の歴史の一つに幕が降ろされる。