日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

今年最後のお斎

2017年12月21日 | 生活・ニュース

 門徒という言葉は「宗門を同じくする信徒のことだが、特に浄土真宗の信者」とある。そんな信者として1年には春季彼岸会、親鸞聖人降誕会、永代経法要、盂蘭盆会、秋季彼岸会、親鸞聖人報恩講など数回、本堂に集う機会がある。出来るだけ山門をくぐるようにはしているが全てにお参りできないでいる。ここ数年、本堂という特定の場所柄かもしれないが、信徒の姿に高齢化の波が世間一般より早いと感じている。

 12月は恒例の「親鸞聖人報恩講」が開かれる。これは「親鸞聖人のご命日を縁に宗祖の遺徳を偲ぶ集い」で3日間続く。正装の住職に合わせ「正信偈」「五十六億和讃」を勤行集を繰りながら読経する。数十人を超す信徒の声が一つになるとその重みが伝わるといつもそう感じる。法話は日々の生活のなかの小事も宗祖の教えの中にあると説く。

 人の背中が見え始めたら考えようという趣旨の話が印象に残った。今まで顔を見て話していた人が背を向けて遠ざかるようになったら、自己のふるまいを顧みろというシグナルだという。相手が背を向けるのは相手にされなくなった、関心を示さない無関心な態度になる。世間に背を向ける、と人様の行状は口にするが、我が身がいつそうなるかも知れぬ。

 集いに参加すると、お昼は仏教婦人会の皆さんが作られるお斎をいただく。季節に見合った料理は健康への原点を思い至らせる精進、時節柄、地産のレンコンと人参のさんばい、勿論酢魚はなし。終戦のころ野菜づくしでも満腹した食卓を思い出す。今年は除夜会で鐘を撞き善哉をいただく会が残っている。鐘のにぶい音とゆったりした振動は冷えた体に活をくれ年明けとなる。
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今年のひと品

2017年12月20日 | 陶芸

 上手い誘い文句「世界で一つだけの作品を作ろう」に誘われ陶芸同好会に仲間入りして10年になる。教室は銭壺山にある県の施設で、山口県由宇青少年自然の家で通称「ふれパク」と呼んでいる。施設は海抜500㍍にあり、麓からは急カーブを数十回、小さなカーブを含めハンドルを左右に回し続けて6㌔上って到着する。麓との気温差は4度くらいあるが、瀬戸内海を見下ろし、快晴の日は四国の石鎚山が遠望できる。

 会員は高齢者、それでも先日は「後期高齢者」という表現が気にくわぬというくらいの元気者ばかり。後期は高貴と置き換え自信を持つことにした。教室は月2回、で8月はお休み。指導員は会員の孫子くらいの若い人ばかりだが、指導は高齢だからといって何の隔たりもなく、実技を織り込んで親切丁寧だが、それについていけないのがはがゆい。

 1年には何十個かの焼き物が完成する。まずまずかと思える器が出来ればニンマリ、どうして波打ったのか不思議に思う皿、つぶれたような姿になったコップの高台など、ロクロの上で仕上げたと思う形通りになっていないことがほとんどといえる。粘土を捏ねるのではなく、粘土に遊ばれているのかもしれない。いつか粘土を従わせる腕になりたいものだ。
 
 そんな作りの中で今年のひと品は小さな花瓶。ちょっといびつは愛嬌で「色合いがいい」と指導員の一声にニンマリ。これは初めての作り方を教わった時のもので、今年の締めとなった。作りも楽しいが、同年配会員との会話が粘土に練りもまれているかもしれないと思うと別の価値があるかも、瀬戸内海を見下ろし昼食をとりながら思う。
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岩国駅 番外

2017年12月19日 | 回想

 市内にはJRの駅が山陽線で岩国、南岩国、藤生、通津、由宇、岩徳線で西岩国、川西、柱野、欽明路、玖珂、高森、米川と12駅ある。このほかに3セクターの清流線12駅加えると驚くほどの列車用駅がある。来年にはイベント専用駅も清流線に完成する

 多くは無人駅。その中の代表格、国登録有形文化財の西岩国駅を覗いてみる。同駅は岩徳線始発の岩国駅の次の駅、その由来は1979(昭和54)年4月、駅舎入り口に建てられた掲示板にあり、その概要は16日に記した。1922(平成4)年無人化され、現在はNPO法人が管理している。

 無人化前の改札がそのまま残っている。朝日に照らされたその影は、人影のない待合室の奥まで長く伸びている。少しばかりやるせない。それでも、高い天井のアンティークな照明灯は残されており、その天井に届きそうな細長い窓は昔を知る人を安堵させる。当時の事務室は無料の展示スペースとして貸し出され、多くの市民が利用している。

 駅舎は1929(昭和4)開業と同時に建てられ、人でいえば米寿にあたる。大正末期から昭和にかけての木造洋風建築で、錦帯橋にちなんだアーチが玄関の軒に見られる。二谷英明と由美夫婦のフルムーンのCMの背景となった赤い屋根瓦の駅、といえば思いだしてもらえるかも。岩国駅さんから怒られそうな拙文への訪問に感謝します。
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健康守って社会人に

2017年12月18日 | エッセイサロン
2017年12月18日 中国新聞「広場」掲載

 
 13日付ヤングスポットの「就職まで学業も全力」は、就職試験前の緊張と内定の喜び、卒業までの心構えと周囲への感謝などが簡潔に書かれていた。
 読みながら、現役の頃、高卒採用担当として受験生に接し、強く印象に残っていることを思い出した。
 それは手を膝の上で握りしめ、顔を紅潮させ、正面を向いて懸命に答えてくれる面接試験での姿だ。
 背筋を伸ばし、真摯な姿に接すると、全員を採用したいと思ったこともある。
 筆記試験の感想を問われると、謙遜か学校の指導なのか分からないが、高得点なのに自信たっぷりの答えはあまりなかった。
 投稿者は「残りの学生生活は学業も手を抜かず全力で楽しむ」と結んでいる。
 経験からこれに一つ加えるなら、健康管理を十分に果たしてほしい。今年の就職内定率はこれまでにない高さという。みんな健康で明るく第一歩を踏み出してほしい。
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岩国駅 その3

2017年12月17日 | 回想

 大きな駅は町を分断する、故意ではないだろうがそういわれる。最近、南北を結ぶ自由通路か近代的になったことで広島駅がこの難題を大きく改善し話題になった。岩国駅もそうなった。行き来できる地下道や線路上に掛かる跨橋(こせんきょう)はあったが暗く不便だったりした。橋上駅となり長さ110㍍ほどの自由通路が完成した。眺めも良く明るい、地元の人はもとより通勤通学の人にも喜ばれるだろう。

 新幹線が開通するまで東京出張には夜行寝台特急「あさかぜ」を多く利用した。昼は通常通り勤務、夕食を済ませ夜9時ころ岩国駅から乗車し座席兼用のベッドで寝る。浜松あたりでベッドから出て食堂車で朝食。仕事を済ませると下りの「あさかぜ」に乗ると翌朝7時ころ岩国駅に着く。一旦帰宅して出社する。こんな繰り返しの出張だった。新幹線が開通すると東京出張は日帰りに変わる。あさかぜ引退の時にはさみしい気持ちがした。

 会社の規模拡大で関東地区に新工場建設が計画された。建設が始まると連日のように新工場へ転勤する同僚や知人、役職の人らも含め見送った。その多くは「あさかぜ」を利用した。時には墨痕鮮やかに「武運長久を祈る」と模造紙に記した見送りもあった。当初は単身赴任も多くしばしの別れだが、動き出したあさかぜを追っかけた男の子の姿を今も記憶している。

 新幹線が通り、最近は岩国ー羽田間を民間機が飛び、広島市中心部への直行バスもあり、私が心配することではないが岩国駅の利用者はどう推移しているのだろう。駅は地域の顔、地域の玄関というが陸の玄関として橋上駅は発展して欲しい。
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岩国駅 その2

2017年12月16日 | 回想

 新装なったと感じさせるのは外観だけでなくいくつかある。エレベーター、エスカレーターの設置は以前から求められていた設備、ようやく適ったというところ。出張で各地の橋上駅を経験したが、やっと垢ぬけしたホームへの入り口らしくなった。

「岩国駅」は開業から120周年、街の玄関口の役割をになってきた。その駅名は変わったことがある。1929(昭和4)年4月に岩徳線の一部、麻里布町ー岩国町間が開通して現西岩国駅が「岩国駅」となり、それまでの岩国駅は「麻里布駅」に改称された。1934年12月に岩徳線全線が開通し山陽本線となる。1942年4月、従前はローカル線であった柳井線が複線化され山陽本線に昇格、それまでの本線は岩徳線に改称されローカル線となる。これにより麻里布駅は「岩国駅」に岩国駅は「西岩国駅」と改称された。

 駅名だけでなく駅舎も変わった。その1で書いた終戦前日の岩国駅周辺の猛爆撃で被害を受けた駅舎は、1945年12月に仮駅舎で復旧のスタートを切った。しかし、その2年後の7月に仮駅舎は火災により全焼した。それは昭和22年、学制改革により国民学校から新制小学校変わった年で、私は新しい制度で小学1年に入学したした年に当たるが仮駅舎全焼の事は全く覚えていない。

 全焼から1年余、1949(昭和24)年4月、大きな切り妻屋根の新駅舎が完成し営業を始めた。橋上化工事開始までの66年間に渡って駅前の変遷を見つめとおした。岩国駅周辺の爆撃直後、父は救援隊の一人として参加し、多くの負傷者に接したと話していた。きな臭い極東情勢を思うとき、あの惨禍を繰り返してはならない。
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自転車廃車

2017年12月15日 | エッセイサロン
2017年12月15日 中国新聞セレクト「ひといき」掲載


 似合いのヘルメットをかぶった子どもたちが家の前を自転車で行き来する。その姿を見ながら、自転車がわが家から消えてまもなく1年たつことに気付く。
 結婚後に購入した婦人用に、妻は二十数年乗った。2台目も婦人用、やはり20年くらい使った。どちらも定期的に油拭きをし、回転部に注油して大切にした。パンクは一度もなかった。
 それが訳あって数年使わなくなり、掃除もほこり拭き程度になった。もう乗ることはないと、妻と相談して廃車を決めた。大型ごみとして市に回収を依頼。手続きは電話、最後に「利用可能な部品は使わせてもらえますか」という問いに「喜んで」と返事した。
 回収の前日、最後の油拭きをし、タイヤに空気を満たす。チェーンや回転部に注油する。スタンドを立ててペダルを回す。久しぶりに回る後輪は静かな回転音を発しながら軽快である。ペダルを反対方向に回すと「シャー」というチェーンと歯車の協和音もいい。ひょっとして「再登場か」と自転車を喜ばせたかも、と思いながら回収票を貼る。
 朝、再びどこかで自転車の役目を授かってほしいと願いながら、玄関前に持ち出した。
 見届けようと注意していたが、玄関から離れたほんの5分ほどの間に消えていた。「回収票があればお留守でも持ち帰ります」という電話の声を思い出す。見送れば未練が残ったかも。
 今、どこかで走っているだろうか。子どもたちを見ながら想像した。
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岩国駅 その1

2017年12月14日 | 回想

 JR山陽本線岩国駅が橋上駅となって3週間余り経つ。最近は列車を利用する機会は減り同駅を利用するのは年に1度か2度くらいになった。それでも橋上化工事中に2度ほど隣駅まで利用したが、その時、どのように変わるのか楽しみにした。1部工事は続いているが、出かけたときに立ち寄ってみた。外観はすっかり変わり「街の駅らしくなった」という知人の話しに納得した。

 駅の開業は1897(明治30)年9月25日、山陽鉄道(現山陽本線)の広島ー徳山間の開通を機に、今の地にスタートした。建設当時の駅舎は天井の高い殿堂のようであったと古い記事に残っている。駅周辺は今津村といい、のどかな田園地帯だが高貴な方の乗る人力車が行き交っていたとある。

 太平洋戦争開戦の電信が市内の柱島泊地から発せられたのは1941(昭和16)年12月8日で、終戦は1945(昭和20)年8月15日。終戦の前日14日午前11時ころから岩国駅一帯はB29の40分間にわたる猛爆撃を受けた。投下された500ポンド爆弾は1446個といわれ、その様子は夕立のごとくであり、直径15㍍ほどの大穴がハチの巣のように空いた。爆弾穴は昭和30年代半ば頃まで散見された。

 戦後の世相は灰色だったが並木路子の「りんごの歌」が光明を与えたと古老は話す。再建の槌音も聞かれるようになり、終戦の年の12月に待ちに待った仮駅舎が完成した。駅前には爆弾穴があり、また、竹の子生活にあえぐ主婦の背中には、米や麦、大豆に食油などの統制品を背中に負い家路を急ぐ姿があったと残されている。
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寒暖計

2017年12月13日 | 生活・ニュース

 朝7時半ころ、低学年の児童数人が登校している。いつもの元気な会話が聞こえないし歩幅はちょこちょこ歩き、寒さ冷たさをこらえながら学校へ向かう姿、大昔の自分と重なる。それでも半ズボンに短い靴下はこれまで通り、寒くないかと声を掛けたいが、頑張っている姿に「お早う」だけで見送る。

 児童らを見送って外気温は何度だろうと車庫に吊り下げている寒暖計を確認するとマイナス2.3度。その時、古い古い棒状寒暖計だがマイナス10度から50度まで測れることに初めて気づいた。子どものころ、夏休みの日記帳に記す気温を測っていたもので、2回の引っ越しにも処分されずこうして現役で活躍していることに驚く。

 入手した経緯は分からないが企業名「NIKKEI]の文字がくっきり残っていて、そこは現在も寒暖計を販売している。寒暖計は「気温の高低をはかるための温度計」で単に温度計といえば「物体の温度を測る装置」ということで寒暖計は温度計の一種になる。赤い液体はエチルアルコール、水銀寒暖計に比べれば目盛りも管も大きく見やすい。

 風雪に耐えて何十年、赤いアルコールが上下する管に異常はないが、温度目盛りを刻んだ板は塗装が剥げ落ち「傷だらけ」の感じもするが、自然を見つめてきた風格を滲ませる。メンテも電池も要らず、寒暑を問わず測定を続けるアナログの測定器は故障を知らない優れ物といえる。デジタルはアナログを基に生まれ成長進化したもの、古い寒暖計を見ながらいろいろ思う。
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寒波到来する

2017年12月12日 | 回想

 各地の雪、それも例年にない早期の大雪による暮らしや車社会などへの影響が報じられる。瀬戸内に住むと想像もできない光景ばかりで北国の厳しさを思う。穏やかな瀬戸内だが昨夕「風雪注意報」が発表された。身に付くというか浸み込んだというか、寒波の情報が出ると思いだすことがある。

 現役で化学製品製造プラント運転員のころので40年以上も前になる。工場の測定気温がある温度になりさらに低下が予想されると「寒冷注意報」だ出る。プラント内の一部装置で凍結が発生するとトラブルに連なる。担当セクション内の凍結防止対策個所をチェックリストにより確認する。少量の放水、蒸気保温個所の通蒸など寒冷期限定の作業をする。防寒着の助けを借りてトラブル防止に努めた。

 冬対策の家事として屋外の水道栓2カ所に保温をする。保温というには恥ずかしい内容だが、古タオルを3枚くらい水道栓に巻き付け固定する。その上をポリフイルムで雨水が侵入しないように丁寧に覆い縛り付ける簡単な施し。これのお陰で我が家は凍結による破損や亀裂に合わずに済んでいる。



 新聞を取りに朝5時ころ玄関を出る。小雪がちらほら舞っている。ブッロク塀が化粧を始めたばかりのようで予報は当たっているが、街中では雪景色にはなりそうにないと自己観測する。風に連れられて来た枯葉が車庫の片隅で冷たいのだろうか一塊になっている。その枯葉の心境に似ている「落ち葉の舞い散る停車場は」で始まる奥村チヨの歌を何故か思い出し、掃き集めるのを止める。
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