森高千里ばかり聴いているうちに、季節は巡り、桜が咲いて、もう散りそうだ。
その間に、AKBグループや坂道グループの新曲も沢山発売されている。慌ててそれらの曲を入手して、順番に聴いていくことにする。乃木坂46に関して言えば、年末に発売された『ここにはないもの』について感想を書かないうちに、もう次のシングル『人は二度夢を見る』が発売されていた。さすが、秋元康が一番力を入れていることがうかがえる。
『ここにはないもの』。
乃木坂46が得意な「自分探しソング」の一環と言えるだろう。曲調はいい。ピアノソロのイントロで始まり、ラップ調のAメロ、Bメロからサビにかけてはメロディアスに盛り上がっていく。孤独な旅立ちの悲壮感が美しく歌われていると思う。
ただし、歌詞のところどころに腑に落ちない点があるのは残念だ。
まず歌い出しでは、夜になって喧噪も消え、大人たちに虚勢を張るため着ていた鎧を脱ぎ捨て、無防備な自分と向き合う場面から始まっている。そして、その思考の結論として、この歌の主人公「僕」は、現状の安全な生活に飽き足らず、孤独で困難な道に旅立とうと決心をしている。この結論と、歌い出しの状況が噛み合っていないのがモヤモヤする。現在の彼も、大人たちに抵抗して闘っているのではないのか?それを「安全な生活」と捉えているのがしっくり来ないのだ。
もう1つ、途中から「君」が出て来るのだが、その「君」がどういう存在なのか、理解が難しいのだ。
「君」はサヨナラを言うべき相手で、「僕」の決心に気づき、微笑みながら涙を隠している。
「君」は「僕」を甘えさせてくれる存在だ。
「君」は「僕」に生きる理由を教えてくれた。
そして「君」がいてくれたから素敵なサヨナラを言える。
「君」は現在の生活に満足しているのか?それとも「僕」に外の世界があることを教えてくれたのではないか?「僕」はなぜ「君」と共に旅立とうとは思わないのか?
考えているうちに1つの解釈に辿り着いた。「僕」はいわゆる宗教二世で、「君」は母親だとすれば辻褄が合う。
母親が信じる宗教の教えに守られ、その教えの範囲内で、時には周囲に反発したりしながらも安全な生活を過ごして来たが、どうしても外の世界に飛び出したくなったのだ。
母親には感謝している。これまでの生活や信仰を全否定するわけではない。しかし、それを超えて、自分自身で信じるものを見つけたいという渇望を抑えきれなくなった、そういう心情を歌っていると思えて仕方ない。
タイムリーな時事ネタ過ぎる気もするが、こういう解釈もできるのではないか。アイドルソングの蓑を被った、悩める宗教二世の背中を押す歌なのだ。
「後ろ髪」「じたばた」「答え合わせ」など、秋元康の定番ボキャブラリーが彩を添えている。
『人は二度夢を見る』。
この曲もまた「自分探しソング」だ。
曲調は『ここにはないもの』の方が好きだが、歌詞はこの曲の方が共感できる。かつての『逃げ水』と相通じるようなテーマだ。
若い頃見ていた夢はいつか諦めてしまっていたけれど、長い歳月を経て、もう一度見てもいいんじゃないか、そんな内容だ。還暦を過ぎて未だに夢みたいなことばかり考えている私にとって、勇気づけられる歌だ。
夢を叶えるためには様々な力が要る。若い頃はそういう力がなくて叶えられず、忘れたと思っていたけれど、年を取って思い出したら、叶えることができるかもしれない。そんな希望を歌っている。
この歌では10年経ったと歌っているが、そこは10年でも20年でも、私のように40年でも、何でもいいのだ。何なら二度でなくても三度、四度、何回でも見ればいい。
再び夢見ることを「ベッドの中で二度寝する」ことに喩えているのが秋元康らしい。「夢を見る回数が減って大人になっていくなら 私は瞼開けながら夢を見続けられる」(『清純フィロソフィー』)と、かつてチーム4が歌ったように、夜見る夢と昼間に見る夢は違うのだが、敢えて同一視しているのが、彼らしいレトリックだ。
その間に、AKBグループや坂道グループの新曲も沢山発売されている。慌ててそれらの曲を入手して、順番に聴いていくことにする。乃木坂46に関して言えば、年末に発売された『ここにはないもの』について感想を書かないうちに、もう次のシングル『人は二度夢を見る』が発売されていた。さすが、秋元康が一番力を入れていることがうかがえる。
『ここにはないもの』。
乃木坂46が得意な「自分探しソング」の一環と言えるだろう。曲調はいい。ピアノソロのイントロで始まり、ラップ調のAメロ、Bメロからサビにかけてはメロディアスに盛り上がっていく。孤独な旅立ちの悲壮感が美しく歌われていると思う。
ただし、歌詞のところどころに腑に落ちない点があるのは残念だ。
まず歌い出しでは、夜になって喧噪も消え、大人たちに虚勢を張るため着ていた鎧を脱ぎ捨て、無防備な自分と向き合う場面から始まっている。そして、その思考の結論として、この歌の主人公「僕」は、現状の安全な生活に飽き足らず、孤独で困難な道に旅立とうと決心をしている。この結論と、歌い出しの状況が噛み合っていないのがモヤモヤする。現在の彼も、大人たちに抵抗して闘っているのではないのか?それを「安全な生活」と捉えているのがしっくり来ないのだ。
もう1つ、途中から「君」が出て来るのだが、その「君」がどういう存在なのか、理解が難しいのだ。
「君」はサヨナラを言うべき相手で、「僕」の決心に気づき、微笑みながら涙を隠している。
「君」は「僕」を甘えさせてくれる存在だ。
「君」は「僕」に生きる理由を教えてくれた。
そして「君」がいてくれたから素敵なサヨナラを言える。
「君」は現在の生活に満足しているのか?それとも「僕」に外の世界があることを教えてくれたのではないか?「僕」はなぜ「君」と共に旅立とうとは思わないのか?
考えているうちに1つの解釈に辿り着いた。「僕」はいわゆる宗教二世で、「君」は母親だとすれば辻褄が合う。
母親が信じる宗教の教えに守られ、その教えの範囲内で、時には周囲に反発したりしながらも安全な生活を過ごして来たが、どうしても外の世界に飛び出したくなったのだ。
母親には感謝している。これまでの生活や信仰を全否定するわけではない。しかし、それを超えて、自分自身で信じるものを見つけたいという渇望を抑えきれなくなった、そういう心情を歌っていると思えて仕方ない。
タイムリーな時事ネタ過ぎる気もするが、こういう解釈もできるのではないか。アイドルソングの蓑を被った、悩める宗教二世の背中を押す歌なのだ。
「後ろ髪」「じたばた」「答え合わせ」など、秋元康の定番ボキャブラリーが彩を添えている。
『人は二度夢を見る』。
この曲もまた「自分探しソング」だ。
曲調は『ここにはないもの』の方が好きだが、歌詞はこの曲の方が共感できる。かつての『逃げ水』と相通じるようなテーマだ。
若い頃見ていた夢はいつか諦めてしまっていたけれど、長い歳月を経て、もう一度見てもいいんじゃないか、そんな内容だ。還暦を過ぎて未だに夢みたいなことばかり考えている私にとって、勇気づけられる歌だ。
夢を叶えるためには様々な力が要る。若い頃はそういう力がなくて叶えられず、忘れたと思っていたけれど、年を取って思い出したら、叶えることができるかもしれない。そんな希望を歌っている。
この歌では10年経ったと歌っているが、そこは10年でも20年でも、私のように40年でも、何でもいいのだ。何なら二度でなくても三度、四度、何回でも見ればいい。
再び夢見ることを「ベッドの中で二度寝する」ことに喩えているのが秋元康らしい。「夢を見る回数が減って大人になっていくなら 私は瞼開けながら夢を見続けられる」(『清純フィロソフィー』)と、かつてチーム4が歌ったように、夜見る夢と昼間に見る夢は違うのだが、敢えて同一視しているのが、彼らしいレトリックだ。