『おおやにき』から目に付いた記事をメモ:
「首脳訪問の意味」2006年10月31日
「ナウカ、吠えないのか」2006年10月23日
○善とかの目利きは,だが信用ならんこともある。あれはバックアップ体制からして(略)。やっぱり自分でAmazonをカスタマイズするなどの必要があろう。
なおさっくり残額処理を終了,決まった枠組みの中で数字の辻褄を合わせるのは割と得意らしい私(日記)。さすが偏差値エリートのはしくれ。だが枠組み自体を問うのは苦手らしいぞ私(伝達された残額自体に計算ミスがあった由)。
「履修偽装問題」2006年10月26日
「学校の先生」として講義を如何にすべきかとか,やっぱり一定の外部評価とか,まあなきゃいかんよなぁと思うところ。業績なしとか,ひでぇ「論文」とかあるからなあ(田母神のほーがまだしも日本語を書いているといわざるを得ないくらいのとか)。といって余りに基礎的な積み重ね作業に従事しすぎの私としても,高度に応用的な科目とか持たざるを得ない現実があったりするので,イヤこわい,こわい。
「幻想の共同体」2008年7月13日
いや教育関係書読んでたりして,参考に。入学試験で篩いにかけるってのも,そこそこ機能するところがあるわよねぇという話。
私は地方の片田舎の一,二を争う進学校(つまり学区内に碌々普通高校がないという意味で)出身で,気楽に高校の授業を受け,高校の講習を受け(予備校がないのである),地元の国立に入ったのだが,まあ都会と違ってゆったり教育されたなあと思う。こーした中低位高出身者としては
「ノンエリートには,熊沢誠氏のいう「膨らませた職業教育論」…など,彼らを待ち受ける境遇へのリアルな認識とそこで必要とされる知識が,必須の学力であり教養に位置付けられなければ,生き方在り方に迫るものにはなり得ない」(平井貴美代「高校教育にとってコアとなる学力・教養は何か」『特色ある学校づくりと高校教育課程の編成』学事出版,小島弘道編著,41f.)
といわれると,スイマセン,ノンエリート高ですハァ身の丈にあった人生を送らせていただきますのでどうかお許しをとか思うわけである。ところで平井氏の引用するお上の提言として,「各高校ごとに『必読書』を三十冊ほど選び,すべてを卒業までに読破させることで,古典や異文化への理解を深める」(情報元は日経新聞2001.11.21の由)だそうですが,これに平井氏は「エリート主義的教養の典型を思わせる」と言われます。ああ30冊でエリート認定とはありがたいことです。…カント・ヘーゲル・ショーペンハウアー・ニーチェ・マルクスとか言わんよな?
…各学校別の独自の取り組み云々言われても,その結果明るみに出たのは履修単位偽装だったりして,各学校レベルの自治力ってどーかなーという疑念が出るのも尤もである。
独自の授業を組み立てようったって,(例えば地歴科の)教員の質に依存する面はあろうし,つまりとある講義で地歴科的独自授業を作るなら君たちどうすると問われて10個ほどグループ作って9つまでがテーマとして選んだのが地元特産品地元特産品地元の英雄地元の観光地地元の英雄地元特産品だとかで先生(予)からしてその程度の教養しかないんだもんどっちみち画一化するよなという話でもある(なお私のとこは河川を利用した江戸期の水運に関して調査させれば江戸との経済的関係も理解できようし前近代での河川利用の重要性に気付きもしようというものだった。うちのグループに史学科の人間は一人として入っていなかったのはいろいろどーかとは思う)。
或いは市町村合併で,全国でいくつの「みさと」市/町が誕生したのかと。
職業的義務と思って教育関係の本とかまあいろいろ漁って読んでいるわけだが,けっこうげんなりする。先生方向けマニュアル本は,なぜ対象年齢が下がるにつれ,漢字が減っていくんだろうとか思ったことである。そんな中,宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』などは極めて面白く(※私の専門がここにないという告白),見通しの確かさなど読み取れ,なるほど大学者なのであろうなあと感心した次第。
「首脳訪問の意味」2006年10月31日
「ナウカ、吠えないのか」2006年10月23日
○善とかの目利きは,だが信用ならんこともある。あれはバックアップ体制からして(略)。やっぱり自分でAmazonをカスタマイズするなどの必要があろう。
なおさっくり残額処理を終了,決まった枠組みの中で数字の辻褄を合わせるのは割と得意らしい私(日記)。さすが偏差値エリートのはしくれ。だが枠組み自体を問うのは苦手らしいぞ私(伝達された残額自体に計算ミスがあった由)。
「履修偽装問題」2006年10月26日
「学校の先生」として講義を如何にすべきかとか,やっぱり一定の外部評価とか,まあなきゃいかんよなぁと思うところ。業績なしとか,ひでぇ「論文」とかあるからなあ(田母神のほーがまだしも日本語を書いているといわざるを得ないくらいのとか)。といって余りに基礎的な積み重ね作業に従事しすぎの私としても,高度に応用的な科目とか持たざるを得ない現実があったりするので,イヤこわい,こわい。
「幻想の共同体」2008年7月13日
いや教育関係書読んでたりして,参考に。入学試験で篩いにかけるってのも,そこそこ機能するところがあるわよねぇという話。
私は地方の片田舎の一,二を争う進学校(つまり学区内に碌々普通高校がないという意味で)出身で,気楽に高校の授業を受け,高校の講習を受け(予備校がないのである),地元の国立に入ったのだが,まあ都会と違ってゆったり教育されたなあと思う。こーした中低位高出身者としては
「ノンエリートには,熊沢誠氏のいう「膨らませた職業教育論」…など,彼らを待ち受ける境遇へのリアルな認識とそこで必要とされる知識が,必須の学力であり教養に位置付けられなければ,生き方在り方に迫るものにはなり得ない」(平井貴美代「高校教育にとってコアとなる学力・教養は何か」『特色ある学校づくりと高校教育課程の編成』学事出版,小島弘道編著,41f.)
といわれると,スイマセン,ノンエリート高ですハァ身の丈にあった人生を送らせていただきますのでどうかお許しをとか思うわけである。ところで平井氏の引用するお上の提言として,「各高校ごとに『必読書』を三十冊ほど選び,すべてを卒業までに読破させることで,古典や異文化への理解を深める」(情報元は日経新聞2001.11.21の由)だそうですが,これに平井氏は「エリート主義的教養の典型を思わせる」と言われます。ああ30冊でエリート認定とはありがたいことです。…カント・ヘーゲル・ショーペンハウアー・ニーチェ・マルクスとか言わんよな?
…各学校別の独自の取り組み云々言われても,その結果明るみに出たのは履修単位偽装だったりして,各学校レベルの自治力ってどーかなーという疑念が出るのも尤もである。
独自の授業を組み立てようったって,(例えば地歴科の)教員の質に依存する面はあろうし,つまりとある講義で地歴科的独自授業を作るなら君たちどうすると問われて10個ほどグループ作って9つまでがテーマとして選んだのが地元特産品地元特産品地元の英雄地元の観光地地元の英雄地元特産品だとかで先生(予)からしてその程度の教養しかないんだもんどっちみち画一化するよなという話でもある(なお私のとこは河川を利用した江戸期の水運に関して調査させれば江戸との経済的関係も理解できようし前近代での河川利用の重要性に気付きもしようというものだった。うちのグループに史学科の人間は一人として入っていなかったのはいろいろどーかとは思う)。
或いは市町村合併で,全国でいくつの「みさと」市/町が誕生したのかと。
職業的義務と思って教育関係の本とかまあいろいろ漁って読んでいるわけだが,けっこうげんなりする。先生方向けマニュアル本は,なぜ対象年齢が下がるにつれ,漢字が減っていくんだろうとか思ったことである。そんな中,宇都宮清吉『漢代社会経済史研究』などは極めて面白く(※私の専門がここにないという告白),見通しの確かさなど読み取れ,なるほど大学者なのであろうなあと感心した次第。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます