Blogos 大学に生息する「教員」という動物~研究・事務編(後編) 新井克弥2014年12月10日 23:30
いやもう、見事に活写している!という感じである…。
さて、こういうのに絡めて、過去のメモを掘り出しておく:
「既存教員に手を加えなかったことで競争を若手世代だけに押しつけたこと」というのは重要。先日、延々長文を書いていた人物(のようなひと)の不満とするところだろう。ただ、既存教員の「問題」を若手がどう理解するか・対応するかは、若手世代の生き残りに課題となる。
どういうことか。いまこれを書く私を含む我々は、まあようやく中堅に至ったあたり。すると、「既存教員」―上の世代の人々を数種類に分析することが出来る。
1) 専門研究が大いに発展する、学会の指導者たち。研究大学出身で研究大学に勤めることが出来た人たち、といっていいか。
2) 本来の専門から脱落・離脱し、新規の領域に活路を見出したひとたち。本務校の都合で教育研究を進めていったりした人たち、とも表現できようか。
3) 学会や本務校やで事務仕事・行政の仕事に活躍されている先生方。
4) 本務校で教育に活躍する先生方。
5) 専門研究をせず・できず、新規領域を見出すこともせず・できず、と言って教育も行政も、うーん、というパターン。
務めている身からすると、1) は文句なし、2) もありがたい。3) もアタマが上がらない人々の一種であり、4) は日々の業務のために重要な位置を占める。毎日の、ほんとうに毎日のことなのだ、教育は。
5) は論外、といいたい。
で。5) みたいなのを典型例として、「既存教員」がいかにダメかと言い募りたい向きもあろうが、さてでは、よしこの5) を首尾よく一人残らず首にできたとして、どんな職場にどんなひとを採用するかねえ、と考えるのは生き残りに重要な示唆を与えるのではないか。
…だいたい、大学の先生になるには、大学院で博士をとる、ひとかどの学者になる、というコースをとるのが通例だ。
で。そういう学校は、多くは研究を主たる任務にするような大学だろう。優秀な先生がおり、素晴らしい機材があり、まあそこそこ潤沢な予算がある。そうしたインフラに支えられて、学生たちは研究に邁進するのだ。
そうして博士号を受け、で、それからどうする、どうなる。うんまあ、そのまま出身校の先生になれたりしたら、最高じゃないかなあ、とは思われる。だが、自分の卒業年度とドクターファーターの停年が一致するって、そんなにある例ではない。
といって、研究バリバリできるポストがそんなに余っているわけでもない。
となると、”こころならずも”研究大学ではない大学(等)に務めることになる例が一定数発生する。つーか、そっちのほうが数多い。こうした人たちのうち、研究能力や構想力や…に優れたひとは、着任した学校で自分の研究生活を見直し、再構築することができるだろう。これが2) のパターン。
そうして、本務校の行政的任務(総務・教務や図書館運営・国際交流などをここに分類してみよう)や教育任務(ふだんの授業、学生指導・キャリア支援などをここに分類してみよう)は(本務校の性格によって多寡はあるが)とうぜん、日々、担うべきなのであり、この点に有能さを示すというのも高度な知的訓練―分析・評価・総合の能力を発揮できる博士様の仕事ということになろう。これが3)、4)の人々。
大学院を出るか出ないか、くらいの若い衆は、”研究こそが我が本務”とばかりに、1) になれるように・なれないのは世界のほうがおかしい、とばかりに思うものではないか。そりゃ私だって、私が研究できるポストにつけないのは!とか思ったし思うし。
それはそれで構わないのだが、現実に1) のポストは(大変だし)数が少ない。多くは「教育・研究職」(教育のほうがウェイトがおおきい)のポストにありつけるだけでありがたい、と言うことになる。そうすると、そういうところは資金も資材も足りない職場であることが多く、まあ2) になるのが精々かなあ、という境遇になる(私だ、私)。
そうして、1) のポストを得たひとも、結局3) や4) を同時並行でやらざるを得ないように、この3-4の仕事は、学校が学校であり、学会が学会である以上、避けられない仕事である。こうした任務を、1) 希望の若いのんはバカにすることがあるようだが―我々の先生が我々を教育しおえたということは、彼らは1) をやったうえで3) 4) をもこなしていたということだ。
そういうわけで、若い衆は3-4の任務をあまり軽んじないほうがよい。それをこなせてこそ、職業人である、というのは一面の真実だ。
そして―
―なるほど多くの人々より長期の訓練を経ており、博士を出れば専門度は非常に高いとはいえ、実は学校教育はある種、基礎訓練なのではあり、高度な基礎力を備えた高度な人材としては、「就職したら幅を広げてってのが」求められるのだ。
でまあ、能力を発揮した結果、高く売れる人材になって他所さんに引っこ抜き…ということにでもなれば―ポストが空く。
…ポストの募集が起こればいいんですけどねー…。
まあ、そろそろ書こう、いろいろと。うん。
いやもう、見事に活写している!という感じである…。
さて、こういうのに絡めて、過去のメモを掘り出しておく:
細かい数字の話はともかく「国立大学改革の影響」には運営費交付金削減+競争的資金増加という競争主義的な改革の結果と、既存教員に手を加えなかったことで競争を若手世代だけに押しつけたことの結果が混在しているので、注意して議論する必要がある。
— Takehiro OHYA (@takehiroohya) 2017年4月9日
「既存教員に手を加えなかったことで競争を若手世代だけに押しつけたこと」というのは重要。先日、延々長文を書いていた人物(のようなひと)の不満とするところだろう。ただ、既存教員の「問題」を若手がどう理解するか・対応するかは、若手世代の生き残りに課題となる。
どういうことか。いまこれを書く私を含む我々は、まあようやく中堅に至ったあたり。すると、「既存教員」―上の世代の人々を数種類に分析することが出来る。
1) 専門研究が大いに発展する、学会の指導者たち。研究大学出身で研究大学に勤めることが出来た人たち、といっていいか。
2) 本来の専門から脱落・離脱し、新規の領域に活路を見出したひとたち。本務校の都合で教育研究を進めていったりした人たち、とも表現できようか。
3) 学会や本務校やで事務仕事・行政の仕事に活躍されている先生方。
4) 本務校で教育に活躍する先生方。
5) 専門研究をせず・できず、新規領域を見出すこともせず・できず、と言って教育も行政も、うーん、というパターン。
務めている身からすると、1) は文句なし、2) もありがたい。3) もアタマが上がらない人々の一種であり、4) は日々の業務のために重要な位置を占める。毎日の、ほんとうに毎日のことなのだ、教育は。
5) は論外、といいたい。
研究業績がないとか外部資金取れないとかいうことだけで早く退場してくれとは思わないわけです。授業も少ない上に学生の評判も悪く、社会貢献にも無関心で、学内業務も出来ず、そのくせ待遇が悪くなるのは許せんということだけは人一倍主張するような連中には早くお辞めいただきたいと言うだけです。
— 増田の准教授 (@ProfMasuda) 2017年5月20日
で。5) みたいなのを典型例として、「既存教員」がいかにダメかと言い募りたい向きもあろうが、さてでは、よしこの5) を首尾よく一人残らず首にできたとして、どんな職場にどんなひとを採用するかねえ、と考えるのは生き残りに重要な示唆を与えるのではないか。
…だいたい、大学の先生になるには、大学院で博士をとる、ひとかどの学者になる、というコースをとるのが通例だ。
で。そういう学校は、多くは研究を主たる任務にするような大学だろう。優秀な先生がおり、素晴らしい機材があり、まあそこそこ潤沢な予算がある。そうしたインフラに支えられて、学生たちは研究に邁進するのだ。
そうして博士号を受け、で、それからどうする、どうなる。うんまあ、そのまま出身校の先生になれたりしたら、最高じゃないかなあ、とは思われる。だが、自分の卒業年度とドクターファーターの停年が一致するって、そんなにある例ではない。
といって、研究バリバリできるポストがそんなに余っているわけでもない。
となると、”こころならずも”研究大学ではない大学(等)に務めることになる例が一定数発生する。つーか、そっちのほうが数多い。こうした人たちのうち、研究能力や構想力や…に優れたひとは、着任した学校で自分の研究生活を見直し、再構築することができるだろう。これが2) のパターン。
そうして、本務校の行政的任務(総務・教務や図書館運営・国際交流などをここに分類してみよう)や教育任務(ふだんの授業、学生指導・キャリア支援などをここに分類してみよう)は(本務校の性格によって多寡はあるが)とうぜん、日々、担うべきなのであり、この点に有能さを示すというのも高度な知的訓練―分析・評価・総合の能力を発揮できる博士様の仕事ということになろう。これが3)、4)の人々。
大学院を出るか出ないか、くらいの若い衆は、”研究こそが我が本務”とばかりに、1) になれるように・なれないのは世界のほうがおかしい、とばかりに思うものではないか。そりゃ私だって、私が研究できるポストにつけないのは!とか思ったし思うし。
それはそれで構わないのだが、現実に1) のポストは(大変だし)数が少ない。多くは「教育・研究職」(教育のほうがウェイトがおおきい)のポストにありつけるだけでありがたい、と言うことになる。そうすると、そういうところは資金も資材も足りない職場であることが多く、まあ2) になるのが精々かなあ、という境遇になる(私だ、私)。
そうして、1) のポストを得たひとも、結局3) や4) を同時並行でやらざるを得ないように、この3-4の仕事は、学校が学校であり、学会が学会である以上、避けられない仕事である。こうした任務を、1) 希望の若いのんはバカにすることがあるようだが―我々の先生が我々を教育しおえたということは、彼らは1) をやったうえで3) 4) をもこなしていたということだ。
そういうわけで、若い衆は3-4の任務をあまり軽んじないほうがよい。それをこなせてこそ、職業人である、というのは一面の真実だ。
そして―
でも隣接領域まで手を出してやってると、得てして「何やってるのか分からない人」になりがちで、すると人事では不利になりがち。若いときは深く掘って、就職したら幅を広げてってのが理想なんだろうけど、年取ってからやり方変えられる人もまた少ない。*元のツイートの意見には賛成です。為念。
— Hiraishi Kai (@kaihiraishi) 2017年4月10日
―なるほど多くの人々より長期の訓練を経ており、博士を出れば専門度は非常に高いとはいえ、実は学校教育はある種、基礎訓練なのではあり、高度な基礎力を備えた高度な人材としては、「就職したら幅を広げてってのが」求められるのだ。
でまあ、能力を発揮した結果、高く売れる人材になって他所さんに引っこ抜き…ということにでもなれば―ポストが空く。
さらにいうと、しかし、優秀な研究者の予備軍は多い。ポストが空くことはそういう人たちに活躍の場を与えることになるから、出て行けるひとは出て行くといいと思う。今の30代は本当に優れていて、かつ、それだけの人材の厚みはある。
— ねずみ王様 (@yeuxqui) 2017年4月12日
空いたポストに募集があるならそれで良いのですけれどもね。
— 増田の准教授 (@ProfMasuda) 2017年4月12日
…ポストの募集が起こればいいんですけどねー…。
まあ、そろそろ書こう、いろいろと。うん。
あっちに行って幸せそうかなーという絵図面に積極的になれなかったのも一因
あるいは、ここは辛いが脱出のための書類を書く気力まで溶けうせている