BBC 俳優ケイト・ブランシェットさん、「異性愛者にも同性愛者演じる権利ある」 2018年10月22日
「ハリウッドでは、性的マイノリティーの役に異性愛者の俳優を当てることについて批判が起こっており、今年前半にはスカーレット・ジョハンソンさんがトランスジェンダー(従来の性的役割に当てはまらないと自認する人)の役柄に抜てきされたものの、批判を浴びて降板した」
「「リアリティー番組はたくさんの可能性を生み出したと思うけど、否定的な側面として私たちは今、特に米国では、役に近い経験をした人だけがその役と大事なつながりを築けるという思い込みが生まれた」」
なにしろLGBTは全人口の精々10%くらいしかいないはずなのである。そこそこ大きく見積もって。
なので、諸種の才能の発生確率はシス側と同じとすると、当然、成功者も受賞者もシスに対して10%程度を占めるのが確率的に期待されることになろう。なのでこの点
「マケレンさんは、同性愛者であることを明かした俳優でアカデミー主演男優賞を取った人はいないのに、異性愛者の俳優はLGBTの役でアカデミー賞を受賞していると指摘している」
ということで、「なんか割合、変じゃない?」という主張は一定の正当性があろう。
ただ、論理が狂っているらしい点もある。1) LGBT志向は程度の強弱があり、多少志向がある程度では「私は同性愛者だ」と宣言しない可能性がわりとある。従って、これまでのアカデミー主演男優賞受賞者たちにゲイ志向があったひとがいた可能性は排除できない。
つーか、私は男性の肉体美を積極的に認めるなど、”健常”な男性陣からは明らかにホモ傾向と見做されてきたからな。
ともあれ、グラデーションがある問題なのである。
にもかかわらず、2) 「同性愛者であることを明かした」ことを条件として入れるのは、カムアウトしない・できない層のLGBTとしての存在を認めない方向性をはぐくみかねない判定基準である。
つまり、この「サー・イアン・マケレン」氏の基準だと、カムアウトしないLGBTは異性愛者扱いになり、本来の属性としては仲間である人たちから排除され、かといって真の異性愛者たちのなかでは本来の属性からしてやはり仲間との自認を得られない―という、二重の排除に置かれ、その辛さたるや―お察しいたします、と眉根を寄せて沈痛にいうことを試みよう。
「ブランシェットさんは「私は思い込みを超え、自分の経験を超えた役柄を演じる権利のために死ぬまで戦う」と話し、俳優が本当に役柄を理解するには同じ経験をしている必要があるという考えを否定した」
私としてはこちらのブランシェット氏の見解に近い・同じくする。理性的な理解、共感の範囲をできるだけ広く取っておくことにしたい。
一部運動はそうではなく、「同じ経験」などによってカーストを形成する試みをしているかのごとき状態にまでぶっとんでいるらしくもあり、その果ては、すまんが連合赤軍事件になりかねないのでお勧めしたくないのである。
関連:「トランスジェンダーの役者さんの主張とその用語法、運動の方向性について(2018-08-03)」
BBC Cate Blanchett defends straight actors playing LGBT roles 20 Oct 2018
「She said: "I will fight to the death for the right to suspend disbelief and play roles beyond my experience."」
「The Australian actress disagrees with the idea that a performer only really knows a character if they have shared experiences.」
まあその、そうだわな、と。
ハートマン軍曹みたいな例もあるが、だからといって軍人でないと軍人を演じられないということもなかろう。どうせ作りものの世界なのであって、それをもってどんなメッセージを観客に伝えるか、が求められているんだから。
「"While I would have loved the opportunity to bring Dante's story and transition to life, I understand why many feel he should be portrayed by a transgender person."」
こうして、非常に不幸な断絶が発生したわけだ。
シス女性がトランス男性を演じることで、悩み、理解しようとし、理解しかねる点を考え―そうした過程を映画雑誌等々で話すことがあっただろう。この女優さんを好きな人は、そうした彼女の真剣な役作りの苦悩から、トランスジェンダーの人々の苦悩等々への(理解の)追体験をしたことだろう。
だがその道は閉ざされた。そして残されたのは、「シスはトランスのことを理解できない」「シスがトランスの役柄を奪うことは政治的に正しくない」という新常識で、この常識はシスとトランスの間の分断を強化するだろう。これは有力女優を通じた広報活動の道を閉ざしたということで―
「In her second statement announcing she'd no longer be playing the role, Johansson said she'd "learned a lot" from the trans community and was glad there had been a "larger conversation about diversity and representation in film".」
―『いやあ、この彼女自身は大いに学んだと言っているよ。理解が深まったんだからいいよね』と言う問題ではない。
トランスの役者が、もとはその者のものではなかった役を得られる一方、『トランスにはあとからシスを責め立ててシスが得た役柄を奪う権利があるらしい』という偏見を醸成しかねない。
…カムアウトし終えた”強者”の皆さんとか、社会的な強者の皆さんはあんまりご存知ないらしいですが、カムアウトできないひとたちとか、状況が許さず辛いひとたちとか、社会的弱者の間にいるひとたちとかの恨み辛み妬み…は割とたゆたってますよ…。
「ハリウッドでは、性的マイノリティーの役に異性愛者の俳優を当てることについて批判が起こっており、今年前半にはスカーレット・ジョハンソンさんがトランスジェンダー(従来の性的役割に当てはまらないと自認する人)の役柄に抜てきされたものの、批判を浴びて降板した」
「「リアリティー番組はたくさんの可能性を生み出したと思うけど、否定的な側面として私たちは今、特に米国では、役に近い経験をした人だけがその役と大事なつながりを築けるという思い込みが生まれた」」
なにしろLGBTは全人口の精々10%くらいしかいないはずなのである。そこそこ大きく見積もって。
なので、諸種の才能の発生確率はシス側と同じとすると、当然、成功者も受賞者もシスに対して10%程度を占めるのが確率的に期待されることになろう。なのでこの点
「マケレンさんは、同性愛者であることを明かした俳優でアカデミー主演男優賞を取った人はいないのに、異性愛者の俳優はLGBTの役でアカデミー賞を受賞していると指摘している」
ということで、「なんか割合、変じゃない?」という主張は一定の正当性があろう。
ただ、論理が狂っているらしい点もある。1) LGBT志向は程度の強弱があり、多少志向がある程度では「私は同性愛者だ」と宣言しない可能性がわりとある。従って、これまでのアカデミー主演男優賞受賞者たちにゲイ志向があったひとがいた可能性は排除できない。
つーか、私は男性の肉体美を積極的に認めるなど、”健常”な男性陣からは明らかにホモ傾向と見做されてきたからな。
ともあれ、グラデーションがある問題なのである。
にもかかわらず、2) 「同性愛者であることを明かした」ことを条件として入れるのは、カムアウトしない・できない層のLGBTとしての存在を認めない方向性をはぐくみかねない判定基準である。
つまり、この「サー・イアン・マケレン」氏の基準だと、カムアウトしないLGBTは異性愛者扱いになり、本来の属性としては仲間である人たちから排除され、かといって真の異性愛者たちのなかでは本来の属性からしてやはり仲間との自認を得られない―という、二重の排除に置かれ、その辛さたるや―お察しいたします、と眉根を寄せて沈痛にいうことを試みよう。
「ブランシェットさんは「私は思い込みを超え、自分の経験を超えた役柄を演じる権利のために死ぬまで戦う」と話し、俳優が本当に役柄を理解するには同じ経験をしている必要があるという考えを否定した」
私としてはこちらのブランシェット氏の見解に近い・同じくする。理性的な理解、共感の範囲をできるだけ広く取っておくことにしたい。
一部運動はそうではなく、「同じ経験」などによってカーストを形成する試みをしているかのごとき状態にまでぶっとんでいるらしくもあり、その果ては、すまんが連合赤軍事件になりかねないのでお勧めしたくないのである。
関連:「トランスジェンダーの役者さんの主張とその用語法、運動の方向性について(2018-08-03)」
BBC Cate Blanchett defends straight actors playing LGBT roles 20 Oct 2018
「She said: "I will fight to the death for the right to suspend disbelief and play roles beyond my experience."」
「The Australian actress disagrees with the idea that a performer only really knows a character if they have shared experiences.」
まあその、そうだわな、と。
ハートマン軍曹みたいな例もあるが、だからといって軍人でないと軍人を演じられないということもなかろう。どうせ作りものの世界なのであって、それをもってどんなメッセージを観客に伝えるか、が求められているんだから。
「"While I would have loved the opportunity to bring Dante's story and transition to life, I understand why many feel he should be portrayed by a transgender person."」
こうして、非常に不幸な断絶が発生したわけだ。
シス女性がトランス男性を演じることで、悩み、理解しようとし、理解しかねる点を考え―そうした過程を映画雑誌等々で話すことがあっただろう。この女優さんを好きな人は、そうした彼女の真剣な役作りの苦悩から、トランスジェンダーの人々の苦悩等々への(理解の)追体験をしたことだろう。
だがその道は閉ざされた。そして残されたのは、「シスはトランスのことを理解できない」「シスがトランスの役柄を奪うことは政治的に正しくない」という新常識で、この常識はシスとトランスの間の分断を強化するだろう。これは有力女優を通じた広報活動の道を閉ざしたということで―
「In her second statement announcing she'd no longer be playing the role, Johansson said she'd "learned a lot" from the trans community and was glad there had been a "larger conversation about diversity and representation in film".」
―『いやあ、この彼女自身は大いに学んだと言っているよ。理解が深まったんだからいいよね』と言う問題ではない。
トランスの役者が、もとはその者のものではなかった役を得られる一方、『トランスにはあとからシスを責め立ててシスが得た役柄を奪う権利があるらしい』という偏見を醸成しかねない。
…カムアウトし終えた”強者”の皆さんとか、社会的な強者の皆さんはあんまりご存知ないらしいですが、カムアウトできないひとたちとか、状況が許さず辛いひとたちとか、社会的弱者の間にいるひとたちとかの恨み辛み妬み…は割とたゆたってますよ…。
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