こういう話をするのもどうかと思うので「電波」くらいにとらえておいて欲しいんだけど、いま日本の経済をめちゃくちゃにしている財務官僚にも「東大卒だけど体育会系でした!」というひとが少なからずいるんじゃないかと。あと企業幹部にも。であれば日本を衰退させたのは体育会系と言っていい?
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2018年5月17日
財務省が体育会系とか言ってる人は、公務員試験のことを知らないのだろう。同期で大蔵省に入った者の最低順位は、たしか50番くらいだったはず。受験者1万人以上でその成績、体育会のトレーニングなどこなして取れたとしたら、とてつもなく立派なことだと思うよ。
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年5月19日
なんでそんな古いことを憶えているかというと、「ウチは多様な人材を求めています。成績は一つの資料。特に重視はしません」とか説明会などで採用担当者が公言していたのに、蓋を開けたらその結果。「大人の嘘に騙されたらあかんで」と後輩に何度も教えたから。
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年5月19日
「体育会系」の意味がズレてる気がします。スパルタ式、軍隊式の組織風土の事を体育会系と称するのであって、体育会における身体的トレーニングをする事では無いと思うのですが…。
— beyondborders (@beyondborders8) 2018年5月19日
なぜ運動部関係を「体育会系」と称し、それで一定の意味合いを示すのかといえば、身体トレーニングをしているからではなく、その身体トレーニングを「スパルタ式、軍隊式の組織風土」のもとにしているからであり―「体育会のトレーニング」というのは、身体トレーニングのみを指すのではなく、”スパルタ式”精神風土をも含んでいると解すべきだろう。いずれにしても、その風土のもとで身体トレーニングをするというのは、相当長時間に亙ってその時間を過ごすということで(毎日3時間くらいとかザラに)、相当の精神的影響も当然入ってくるだろう。
…ひとりでトレーニングマシンに向かってるわけじゃねえんだから。
「体育会系」って実際に体育会に入っていたかどうかではないんでは…頭の中身の硬直性とか、年次で決まる序列に一生忠実とか。 https://t.co/RNEdO0h5dh
— Satoshi Ikeuchi 池内恵 (@chutoislam) 2018年5月19日
体育会系運動部のことはよく知らないのですが、一年生でも能力が高ければ4番を任されたり主戦投手になったりするのではないですか。お役人だと、能力が高くても年次を超えて次官や局長に昇進することはない。運動部が学年の上下を強調するのは、むしろそちらが役所を模倣したように見えます。 https://t.co/rvB6xiXjig
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年5月19日
遡らせれば戦前の、いわゆる軍隊的なそれでしょうが:
いやつまり、「年次」で決めるというのは藩閥の影響力を削ぐために陸軍省が始めたことで、それが官界全体に波及し、文化として定着し、維持されたまま今日に至っているのではないかと。それを模倣したのは大学運動部の側。本ツイは、そのような趣旨です。 https://t.co/fsc4O8hFTy
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年5月19日
何れにせよ、運動部はまずは能力・実績第一主義ですわね。それを目的として、それゆえにそのほかの事象は副次的な位置に位置づけられていく。人格的自由もふくめ、一定程度は自発的に放棄する。なぜ自発的かといえば、個人戦での・団体戦での勝利のため、同輩中でより優越的な位置を占めるため、一定のコストを支払う必要があり、その勝利・優越は己の利益でもあるからだ。
…でまあ、悪い指導者だと、この目的と手段の系列をうまく誤認させたり、操作したりして、選手・学生を奴隷化したりできるわけだ。
これを排するため、指導者には相当の精神的な高潔さ、人格、が求められる。そのような立派な指導者であればこそ尊敬され、(一定限度の範囲での)服従がなされ、さらにはその指導は(こちらは指導内容の優秀さに係り、人格には関わっていないが、宜しいならば)適切に高い成果を挙げるが―
―いつ・どこで踏み外すか、まあ自分でもわりとわかったもんじゃない。
今回の事件の場合、「勝利」の条件が不可能なほどに高く設定され、そのために無理をせざるを得なくなった。そこでその「無理」の形の一つとして、反則行為で相手チームの選手を潰すという手を考案した、というところではっきり逸脱が始まる。この反則行為は、そりゃもちろん違反行為で、退場とか食らう。それゆえ、試合に必ず必要なbest of bestみたいな選手にはさせられない、しかしそこそこ以上の実力でないと試合にもだせない、だが一定以上のランクの選手なら鉄砲玉として(場合によっては一回限りで)使い潰されることをよしとはするまい―
…そこで予め半年とか使って―試合に安定的に出られる水準であったが、監督としては「コイツ、まあ、切ってもいーかなー」と思っただろう―選手を精神的に追い詰め、冷静な判断力を喪失しかけたところで「以前のように試合に出たいだろう?」と、「試合にでて勝利すること」という本来の目的を「試合に出る」という目的に誤認させ―
―その上で、『もしかしたら、ちゃんとしたプレイをする機会を得られるかもしれない、自分ならその機会を作れる、そして立派なプレイを示せれば、きっと次は…!』という、補欠選手にありがちだろう夢と希望を「ヤレよ。やらないってのはないからな(お前はただの鉄砲玉だ。鉄砲玉は他人を傷害させてナンボだぞ、しっかり理解しろ、勘違いするなよ、おまえは選手じゃなく、鉄砲玉だ)」と打ち砕いて―
…あの試合の日に至ったと。
これは人間の道具化であり、しかもその本人の同意を得ない道具化であり、許容できないものなのだ(他方、例えば『若い女の子に椅子にしていただくことで快楽を得る』という変態性欲の持ち主の場合、本人の積極的意志をもって行われ、かつ他者への危害の拡散も低水準に抑えられるだろう限りにおいて許容してよいものと…私はおもう)。
ともあれ、実のところ、いわゆる体育会系的メソッドは、うまく回れば高効率なのだ。いやふつうシステムってのはそうだろうけど。旧陸軍でも一定程度以上は適切にまわっただろう。というか立派なひとたちがその行動の高潔さゆえに割とさっさと死んでいってるために、割と残りがちだったアレ組の惨状が後々に…という面もあろう。
さて、ところがこのシステムには、堕落にいたるチェックポイントがやたらあり、そこは適宜クリアする必要がある。いやこれもふつうどこでもそうだろうけど。
そして、特に指導者側で決定的に堕落すると、そりゃもうエライ悲劇・惨劇になる。旧軍の誰を思い起こすかは人の趣味による。
今回の課題は、いかにして非人間的な・不合理な支配を阻止するか、再発を防ぐシステム構築はどうか―ということであって、てきとーに問題群に「体育会系」と名づけて、そこから雑に敷衍して『よっし、じゃあ体育会系部活をしばけばいいんだな!』と短絡しても問題群への対処をしたことにならない。
適切に問題を切り分け、適宜対応をするのがなすべきことであって、自分の恨み辛み、偏見をぶちまけて、対処すべき問題群を放置するのは不効率・不経済であると私としてはメモしておこう。
しかしまあ、あまりに典型的にいわゆる体育会系的組織の悪い面が出まくった話であり、極めて教材化しやすく、理解しやすいことから皆さんのありがたいお言葉もぞくぞく採取できようというもので:
RT 日大の殺人タックル事件。これ、若い子は自分事だと思った方がいいぞ。会社とかでも、上司が犯罪行為を指示してきたら絶対に断れ。組織のためとか、組織が守るとか言うけど、いざ露見したら彼らは組織を守るためにキミを切るからな。断って辞めさせられても未来は残るが、犯罪に未来はない。
— PinkDurianZ (@PinkDurianZ) 2018年5月17日
鉛のように重い忠告である。
大学選手権9連覇を成し遂げた帝京大ラグビー部の岩出雅之監督を取材したことがある。
— 前原政之@ライター歴30年 (@gethigh316) 2018年5月19日
岩出さんは10年を費やし、「監督と上級生には絶対服従」の悪しき体育会体質を部から払拭し、その結果9連覇した。
旧日本軍的体育会は20世紀の遺物。事件を機にアメフト界も変わるべき。https://t.co/ahqe2k07nH
いやほんと、実際、そう思いますよ。
特に体育会系に顕著に出がちかとも思いますが、「目上には絶対服従」思想の人、あるいはそうした傾向をむき出しにした人は単に改善・改革の可能性を極小化する愚者であり、それゆえに害悪です。
忘れちゃいけない、目上様や先輩様、監督様…がえらいのは、その肩書き・地位・位置に相応しい能力・見識・度量…を示し得るところにあるのであり、示せない無能はその位置にいる資格がないのです。
単純な理屈です。
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