ロボの小父様のところから辿って行きついたが,これは上手い:
brighthelmerの日記 捏造された「無関心」 2012-10-12
話のもってゆきかたが非常に標準的。売れっ子になるには,今少し磨く必要がある気がするが(私はこの人ほど売れないだろう。なので,その磨くべき場所がどこかは分からない),相当の名文家になれそうな気がする。
というか,うまい講義をするような気がする。
「周囲が無関心だからこそ自分がなんとかせねば」という発想は、利他的な行動を導くうえで重要な契機となりうる。無関心な一般大衆との対比において、「苦しんでいる人たちに関心を向けることができる良心的な私」という自己アイデンティティの形成につながるからだ。こう考えれば、人びとの無関心さを誇張することには、一定のメリットがあると認めなくてはならない。しかし、そうした誇張は、先のニュースキャスターの言を借りれば「すっかりロンドンを悪者に」するような態度を生む。つまり、「良心的な私」と対比されるかたちで「利己的で自分勝手な人びとに満ちた社会」というシニカルなイメージを温存してしまうのだ。そこでようやく論点が明確になる。人は果たして、社会を悪者にすることなく、他者の苦しみへの関心を持つことができるだろうか?」
この文章などは見事な落ちだ。マスター・キートンから始まって,ローティを引いて,ここまで我々に厳しく自省を要求する言葉を持ってくる。そして月並みではあるが
「僕にはその答えがまだない」
こうして諦観のような,或いは声のトーンによっては将来を共に築いていこうという力強い呼びかけともとれる台詞で締める。
私の(今日の)講義で使ってもいいくらいだ(講義ノート用意中のメモ)。
上手い授業ができそうだというのは,学校にもよるが,結構プラスポイントですよねー。
そんなわけでどーせあそこのPDさんだろーと思われるので,もしこのblogに目を止める機会があれば私にコンタクトを取ると非常勤講師の口が行く可能性がほんの僅かだが高まる,とか言ってみるテスト。というか私の方で本気で欲しくなったら手をまわして調査するが。
いやまあ
brighthelmerの日記 アカポスとしてのホグワーツ 2012-11-05
「そもそも、魔法生物飼育学の教員として、ハグリッドを採用したこと自体が明らかに情実人事である。彼には学校地の管理という仕事が既にあり、金銭に不自由している様子もないのだから、無理に教員を兼任させる必要はない。にもかかわらず、前任者が退任したことをもって、スカウト人事でハグリッドを採用してしまった。もし適正な公募をしていれば、グラブリー=プランクかそれ以外の人物が採用された可能性はきわめて高い」
こういうことを書くひとなので,こうしたスカウト人事めいたことに乗る可能性は低いとも言い得る(苦笑)。
が,縁故,つてというのは,同じ研究室でというだけでなく,業績や論文やこーいう恰好でつくこともあるだろうなとも思う―だから論文の抜刷とか,あっちこっちにばらまいたりするわけでさ。
まー,人事はいろいろで分かんないですけどねー。
個々人の有能さにも関わらず採用されないことは大いにある。
というのも,例えば個人に属する項目で言えば,「年齢」とかが引っかかる。全体的な教員団の構成をみよう。その学科の総員15名のうち5名までが,たとえば35-36歳に5人ほども固まっていたら,どうだろう。知識の伝承等々に大いに難が出ようことは想像がつく。
となると,次の公募で34歳のひとが評定95点で28歳のひとが評定88点なら―28歳を採用する目は相当強かろう(※数字に特に意味はない。私は採用実務に関わっていない)。
最近は女性を優先して採用することがあるので,以下同様。
また,我々は各自独立の研究者であるとはいえ,共同作業をすることも大いにある(理系の人は言わずもがなのことだろうと思われるかもしれないが)。誰かと共同作業で爆発的な業績をたたき出す見込み十二分の人がいれば,多少のことには目を瞑って採用するというのも大いにあり得る。
…なので,私は掬い上げたいと思う後輩に「共同研究とかで業績上がるって言うなら多少の勝負にはなるかもよ」と声をかけてみたりはしている。
なお,「でも,同時に○○さん(※他大学出身者)が応募してきたらそっちを取るでしょう」とか言われたので,「無論そうです。当たり前です」と返答した。
……当たり前だい。私だって身内は可愛いが,明らかに業績が劣り,共同の実もさほど上がらない方を取るよう勧めるなんてこと,できるわけあるかい。
閑話休題。
だから上掲のハグリット氏も,実は共同研究か,それとも管理上の業務で,教員兼務状態は非常に生産性を高める…のかもしれない(わたしハリポタほぼしらないから,事情はしーらない)。
ところで「もし適正な公募をしていれば、グラブリー=プランクかそれ以外の人物が採用された可能性はきわめて高い」が,業績のみを基準とするような意味での厳正な公募をすると,自分以降の人事についても紹介等々を完全に否定し『完全公募であってこそ,自 分 の よ う な 優 秀 な 人 間 が採用されるのです!』と言い放つヒトが来たりするそうだが(なお15年ほど前の某旧帝某研究科の実話と聞いた),その優秀な誰かさんの分まで校務を負担するお覚悟は皆様にはおありか。
…いや,iPS山中教授にまで『あー,入試監督やってねー。なに,アメリカにいる? 帰国しなさい。校務から逃げるな』とか言うとしたら,それはそれで困るが。
……でもなあ,そこは一応,社会契約のうちではあると思うんだ。みんな研究者(の建前)で,教育者(の建前)で,もちろん校務も担う(建前)なんだから。無論,適正ということもあって,”この人は超無理”とゆーことはあるけど(校務をほぼしないひととか,そもそも任せることができないひととかいる)。
…そりゃあ”自分に有利なルールでゲーム”したいよ。でも,現実的には,この”ゲーム”に参加して徐々にルールを作りかえるくらいしかできやしない。
なお
brighthelmerの日記 リフレ派は苦難を語れ 2012-01-03
「たしかに、経済成長をすれば弱者への分配も大きくなる、とは限らない。成長した分が富裕層ばっかりに行く可能性は高い。しかし、それはそれ。とりあえずパイの取り分を大きくしておいて、そこから弱者の取り分を大きくするよう頑張るという発想があっても良いはずだ。だが、そうはならない。いろいろな理由が考えられるが、上の「物語」だと弱者救済は経済成長の「おまけ」のようなかたちになってしまうということがあるのではないだろうか。パイが大きくなったから、その「おまけ」を恵まれない人たちにも少し分けてあげる、みたいな感じだ」
この際,『みんなのためにパイを大きくするひと』へのインセンティヴが語られない傾向なのは,今現にパイを大きくしようと活動する人には難ですよね。全体に対する奉仕に,適切に報いる道を与えるべきでしょうねえ。
それは例えば,国家に大きな権威がある場合,叙勲あたりで給付できる―例えば数億の寄付に対して,物質的にはちっぽけな金属のメダルと国家元首様に直接お目見えする(※但しその他多数の一員として)機会を与えるだけでそれは間に合う。
でなければ,報酬は直接的な金銭で…ということになる。ならばその額は,大きければ大きいほどインセンティヴになる。
すると「弱者救済は経済成長の「おまけ」のようなかたちになってしまう」。「パイが大きくなったから、その「おまけ」を恵まれない人たちにも少し分けてあげる」ような。
これを貧乏な側から見ると,もっと自分たちの分け前があってもいいのに・それは可能なのに,資本家たちはそれを妨げている!ということになる(伝統的な左派的解釈)。
他方,こうして呻吟している我々は,ところで日本に住んでいる日本国の契約のなかにいる日本人であり,であるからには相互扶助・連帯の気持ちを持つはずであるが,にも拘らずあの富裕な者たちはなぜ我々に連帯しないのか―と物語を描くことができる(伝統的左派的用語をからめつつ排外主義右派的心情の萌芽状況を描写したつもり)。ここから『そーだあの権力者たちというのは売国奴で』と行くのは,ほんの数歩の差だろうな。
そして「物語には苦難が必要だ」。そのような権力者の悪徳に気付く自分たちの賢明さに酔い,戦いを始める自分たちの勇気を自画自賛するのは容易であるな(どんな団体を念頭に置くかは,そのひとの位置取りに依る)。
―でまあ,そういう物語に抵抗する側としては,さて―どうしようねえ。
brighthelmerの日記 捏造された「無関心」 2012-10-12
話のもってゆきかたが非常に標準的。売れっ子になるには,今少し磨く必要がある気がするが(私はこの人ほど売れないだろう。なので,その磨くべき場所がどこかは分からない),相当の名文家になれそうな気がする。
というか,うまい講義をするような気がする。
「周囲が無関心だからこそ自分がなんとかせねば」という発想は、利他的な行動を導くうえで重要な契機となりうる。無関心な一般大衆との対比において、「苦しんでいる人たちに関心を向けることができる良心的な私」という自己アイデンティティの形成につながるからだ。こう考えれば、人びとの無関心さを誇張することには、一定のメリットがあると認めなくてはならない。しかし、そうした誇張は、先のニュースキャスターの言を借りれば「すっかりロンドンを悪者に」するような態度を生む。つまり、「良心的な私」と対比されるかたちで「利己的で自分勝手な人びとに満ちた社会」というシニカルなイメージを温存してしまうのだ。そこでようやく論点が明確になる。人は果たして、社会を悪者にすることなく、他者の苦しみへの関心を持つことができるだろうか?」
この文章などは見事な落ちだ。マスター・キートンから始まって,ローティを引いて,ここまで我々に厳しく自省を要求する言葉を持ってくる。そして月並みではあるが
「僕にはその答えがまだない」
こうして諦観のような,或いは声のトーンによっては将来を共に築いていこうという力強い呼びかけともとれる台詞で締める。
私の(今日の)講義で使ってもいいくらいだ(講義ノート用意中のメモ)。
上手い授業ができそうだというのは,学校にもよるが,結構プラスポイントですよねー。
そんなわけでどーせあそこのPDさんだろーと思われるので,もしこのblogに目を止める機会があれば私にコンタクトを取ると非常勤講師の口が行く可能性がほんの僅かだが高まる,とか言ってみるテスト。というか私の方で本気で欲しくなったら手をまわして調査するが。
いやまあ
brighthelmerの日記 アカポスとしてのホグワーツ 2012-11-05
「そもそも、魔法生物飼育学の教員として、ハグリッドを採用したこと自体が明らかに情実人事である。彼には学校地の管理という仕事が既にあり、金銭に不自由している様子もないのだから、無理に教員を兼任させる必要はない。にもかかわらず、前任者が退任したことをもって、スカウト人事でハグリッドを採用してしまった。もし適正な公募をしていれば、グラブリー=プランクかそれ以外の人物が採用された可能性はきわめて高い」
こういうことを書くひとなので,こうしたスカウト人事めいたことに乗る可能性は低いとも言い得る(苦笑)。
が,縁故,つてというのは,同じ研究室でというだけでなく,業績や論文やこーいう恰好でつくこともあるだろうなとも思う―だから論文の抜刷とか,あっちこっちにばらまいたりするわけでさ。
まー,人事はいろいろで分かんないですけどねー。
個々人の有能さにも関わらず採用されないことは大いにある。
というのも,例えば個人に属する項目で言えば,「年齢」とかが引っかかる。全体的な教員団の構成をみよう。その学科の総員15名のうち5名までが,たとえば35-36歳に5人ほども固まっていたら,どうだろう。知識の伝承等々に大いに難が出ようことは想像がつく。
となると,次の公募で34歳のひとが評定95点で28歳のひとが評定88点なら―28歳を採用する目は相当強かろう(※数字に特に意味はない。私は採用実務に関わっていない)。
最近は女性を優先して採用することがあるので,以下同様。
また,我々は各自独立の研究者であるとはいえ,共同作業をすることも大いにある(理系の人は言わずもがなのことだろうと思われるかもしれないが)。誰かと共同作業で爆発的な業績をたたき出す見込み十二分の人がいれば,多少のことには目を瞑って採用するというのも大いにあり得る。
…なので,私は掬い上げたいと思う後輩に「共同研究とかで業績上がるって言うなら多少の勝負にはなるかもよ」と声をかけてみたりはしている。
なお,「でも,同時に○○さん(※他大学出身者)が応募してきたらそっちを取るでしょう」とか言われたので,「無論そうです。当たり前です」と返答した。
……当たり前だい。私だって身内は可愛いが,明らかに業績が劣り,共同の実もさほど上がらない方を取るよう勧めるなんてこと,できるわけあるかい。
閑話休題。
だから上掲のハグリット氏も,実は共同研究か,それとも管理上の業務で,教員兼務状態は非常に生産性を高める…のかもしれない(わたしハリポタほぼしらないから,事情はしーらない)。
ところで「もし適正な公募をしていれば、グラブリー=プランクかそれ以外の人物が採用された可能性はきわめて高い」が,業績のみを基準とするような意味での厳正な公募をすると,自分以降の人事についても紹介等々を完全に否定し『完全公募であってこそ,自 分 の よ う な 優 秀 な 人 間 が採用されるのです!』と言い放つヒトが来たりするそうだが(なお15年ほど前の某旧帝某研究科の実話と聞いた),その優秀な誰かさんの分まで校務を負担するお覚悟は皆様にはおありか。
…いや,iPS山中教授にまで『あー,入試監督やってねー。なに,アメリカにいる? 帰国しなさい。校務から逃げるな』とか言うとしたら,それはそれで困るが。
……でもなあ,そこは一応,社会契約のうちではあると思うんだ。みんな研究者(の建前)で,教育者(の建前)で,もちろん校務も担う(建前)なんだから。無論,適正ということもあって,”この人は超無理”とゆーことはあるけど(校務をほぼしないひととか,そもそも任せることができないひととかいる)。
…そりゃあ”自分に有利なルールでゲーム”したいよ。でも,現実的には,この”ゲーム”に参加して徐々にルールを作りかえるくらいしかできやしない。
なお
brighthelmerの日記 リフレ派は苦難を語れ 2012-01-03
「たしかに、経済成長をすれば弱者への分配も大きくなる、とは限らない。成長した分が富裕層ばっかりに行く可能性は高い。しかし、それはそれ。とりあえずパイの取り分を大きくしておいて、そこから弱者の取り分を大きくするよう頑張るという発想があっても良いはずだ。だが、そうはならない。いろいろな理由が考えられるが、上の「物語」だと弱者救済は経済成長の「おまけ」のようなかたちになってしまうということがあるのではないだろうか。パイが大きくなったから、その「おまけ」を恵まれない人たちにも少し分けてあげる、みたいな感じだ」
この際,『みんなのためにパイを大きくするひと』へのインセンティヴが語られない傾向なのは,今現にパイを大きくしようと活動する人には難ですよね。全体に対する奉仕に,適切に報いる道を与えるべきでしょうねえ。
それは例えば,国家に大きな権威がある場合,叙勲あたりで給付できる―例えば数億の寄付に対して,物質的にはちっぽけな金属のメダルと国家元首様に直接お目見えする(※但しその他多数の一員として)機会を与えるだけでそれは間に合う。
でなければ,報酬は直接的な金銭で…ということになる。ならばその額は,大きければ大きいほどインセンティヴになる。
すると「弱者救済は経済成長の「おまけ」のようなかたちになってしまう」。「パイが大きくなったから、その「おまけ」を恵まれない人たちにも少し分けてあげる」ような。
これを貧乏な側から見ると,もっと自分たちの分け前があってもいいのに・それは可能なのに,資本家たちはそれを妨げている!ということになる(伝統的な左派的解釈)。
他方,こうして呻吟している我々は,ところで日本に住んでいる日本国の契約のなかにいる日本人であり,であるからには相互扶助・連帯の気持ちを持つはずであるが,にも拘らずあの富裕な者たちはなぜ我々に連帯しないのか―と物語を描くことができる(伝統的左派的用語をからめつつ排外主義右派的心情の萌芽状況を描写したつもり)。ここから『そーだあの権力者たちというのは売国奴で』と行くのは,ほんの数歩の差だろうな。
そして「物語には苦難が必要だ」。そのような権力者の悪徳に気付く自分たちの賢明さに酔い,戦いを始める自分たちの勇気を自画自賛するのは容易であるな(どんな団体を念頭に置くかは,そのひとの位置取りに依る)。
―でまあ,そういう物語に抵抗する側としては,さて―どうしようねえ。
>可能性がほんの僅かだが高まる
なのかといえば,本務校で追加の非常勤講師を雇う余地が(ほぼ)ないからである。どんどん減らされるのである。減った分は常勤によって穴埋めされるのである。
昨年度限りでおひと方辞めて頂いて,その講義については今年度,私が埋めているのである。
来年度も,もしかしたらもうひとつ授業が増えるかなーとか戦々恐々とする今日この頃。