可能行動の多さが大事なのは確かだが、沖縄人の可能行動が多いかは疑問。名古屋ですら首都圏より絞られるのに。 人生の豊かさの基準は、「お金」ではなく「選択肢」があること#BLOGOS blogos.com/article/44862/
— hilowmixさん (@hilowmix) 8月 15, 2012
ここで引かれている記事が:
BLOGOS 人生の豊かさの基準は、「お金」ではなく「選択肢」があること 内藤忍 2012年08月14日 05:20
であるわけだが。
「ここで、考えなければいけないのは、豊かさとは何か?ということです。私は、豊かさとは「選択肢があること」だと考えます。たくさんのチョイスがあって、それを自分で自由に選べる環境にどれだけあるかが、豊かさの基準ではないかと思うのです」
こういう書き出しだと,いかにも物が分かった人が,非常に柔らかな穏当なささくれのない言葉で書きだしたかのようであって―大変宜しい。非常に勉強になる。
中高生の「青年の主張」などで,こうした書き出しができれば,もう太鼓判だろう。
ただまあ,次につづってゆく言葉は気にするべきであって―まあ,まあ,お金の機能について
「このように選択肢をたくさん持てる環境を作り出すために、必要なモノの1つが「お金」です。お金があると豊かになれるのは、お金をたくさん使うからではなく、お金を使おうと思えば使えるという環境にあるからです」
ここまでわかれば,『お金を使おうと思っても使えない状況』というのを考えることができる。私の地元だと,ふらっと本屋さんに行って,そこでちくま学芸文庫を買えるかといえば…まあ,買えない。しかしこれが某政令指定都市の駅前の本屋さんなら,概ね揃う。
私の地元のような田舎では,「所得は低いかもしれませんが、物価水準も低く、経済的な格差は見た目の所得差よりも小さく」なるかもしれない。
しかし諸種生活資材は,日本全国一物一価であってだな。そしてその気になれば大都市では,客が見込めるだけあって仕入れ数を増やしてその分小売値を小さく出来る可能性が広がるわけだ。してみると,おなじ1000円でも…ねえ。田舎のほうが入手できる物資が少ないってことは,大いにあり得ることでしたり。
「また物々交換で豊かな食材が手に入ったりすることもあるようです」
交換するモノが必要になるわけだが。
私なら,遠方に出張した際,こまごまと土産物を買ってきて,そちこちにあげたりしているわけだが。
タダでくれたりはしませんよ,ええ。
それと,実際農業やってる人たちは「買って食う方,安い」と言いますな。
…じつはその「豊かな食材」はけっこー「高いモノ」についたりするのであったり。物々交換し合える友好関係を維持するためにどれだけの資源が必要であるかとか。うちの兄夫婦は,まー二人とも公務員で収入も安定していることもあろうか,「そぅいぅ」関係を取り結ぶことに非常に消極的でありますね。それもひとつの正解。
あと都市部だとソレもないだろう。「豊かな食材」については,つまりそれを獲得するには農地や漁場やが必要なわけで。してみると,沖縄の都市部では,物々交換の可能性が薄いわりには都市的な生活をせざるを得ず,結構厳しい条件になる恐れが。
「東京にある高級レストランのような選択肢は、沖縄には少ないかもしれませんが、豊かな自然、新鮮な食材、のんびりとした生活といった東京では手に入らない選択肢もたくさんあります」
安売りショップの可能性もあまりないわけですが。
「お金は豊かさの尺度としてわかりやすいものですが、数字だけを追いかけると、間違った結論に陥る危険性があります。お金はあくまで「人生の手段の1つ」であり、目的ではないのです」
云々。まあ中学生の夏休み課題だったら,申し分なしの最高点をあげるべき,という理論水準である。
なお高校生のそれなら,割と減点されるはずである。というのも,高校倫理の教科書には既にロールズやアマルティア・センが入ってきているからだ。従って,「選択肢」の広さこそ豊かさの基準であると指摘する水準にあるなら,「そぅ」いう文言を入れなければなるまい。
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