データを集積し,そのデータの妥当性,信頼性を慎重に考慮し,そこから生じるそれ自体の論理を発見し,言わねばならない情報に,誤解を生まない,正確に意図の伝わるような表現を与える。
そうした作業は知的作業に携わる者に必須のものだ。
データ集積の手間を惜しんではならない。
データの評価を怠ってはならない。如何なる条件下で書かれた物か。信頼性はどれほどか。それ自体の論理に欠けるところはないか。その視野はどこまで広がるか。
結論は,そうしたデータの集積・評価自体から生まれるべきだ。既にある自己の確信,信念,思想を盛り込む器としてはならない。もとの情報が我々に語り掛ける(と考えられる)言葉を,ひたすら誠実に掬い取ることに力を尽くさねばならない。
そうした作業の結果は,誤解の余地ないことを目標に,正確,精密な表現をもって表すべきだ。誤解の原因は,読者の無知無理解にあるかもしれない。仮にそうであっても,表現者が努力を怠る理由にはならない。
この努力を欠く者は,対象への敬意を欠く者と非難されよう。
その対象を取り上げるのは,その表現者一人かもしれない。
事が重大であっても,その重大性に気付かれず,放置されている対象であるかもしれない。ならばそれに目を向け,それについて,人に知らしめようとする表現者は極めて大きな責任を負っているといえる。
あるものについて書く場合,場合によっては,人はそのあるものの代弁者の役割を担うことにもなる。力を尽くせ,能力の限りを。その質と量が,対象への敬意を表す。
某所に書いたコメントを一部再録。そこから多少,批判と自戒とを込め,文章を連ねてみた。一応,学者としての発言に読めるように配慮したつもりですが,わざわざこんな事を書くのは,まあ,また"深淵"をのぞいたからでして(関連する意図で書いた記事:ソマリアやイラクを,話題にすることについて 4月12日)。
以下愚痴。
…体制擁護者扱いされたのは初めてだなぁ…。さんざん左翼扱いされ,共産党員ないし少なくとも支持者と疑われ朝日新聞の主張の弁明を求められ中国共産党の主張の妥当性を示せと要求され…。ただの自由主義者だと思うんですけどね。「アドルノF尺度」で時々チェックしてましたけど…。
そうした作業は知的作業に携わる者に必須のものだ。
データ集積の手間を惜しんではならない。
データの評価を怠ってはならない。如何なる条件下で書かれた物か。信頼性はどれほどか。それ自体の論理に欠けるところはないか。その視野はどこまで広がるか。
結論は,そうしたデータの集積・評価自体から生まれるべきだ。既にある自己の確信,信念,思想を盛り込む器としてはならない。もとの情報が我々に語り掛ける(と考えられる)言葉を,ひたすら誠実に掬い取ることに力を尽くさねばならない。
そうした作業の結果は,誤解の余地ないことを目標に,正確,精密な表現をもって表すべきだ。誤解の原因は,読者の無知無理解にあるかもしれない。仮にそうであっても,表現者が努力を怠る理由にはならない。
この努力を欠く者は,対象への敬意を欠く者と非難されよう。
その対象を取り上げるのは,その表現者一人かもしれない。
事が重大であっても,その重大性に気付かれず,放置されている対象であるかもしれない。ならばそれに目を向け,それについて,人に知らしめようとする表現者は極めて大きな責任を負っているといえる。
あるものについて書く場合,場合によっては,人はそのあるものの代弁者の役割を担うことにもなる。力を尽くせ,能力の限りを。その質と量が,対象への敬意を表す。
某所に書いたコメントを一部再録。そこから多少,批判と自戒とを込め,文章を連ねてみた。一応,学者としての発言に読めるように配慮したつもりですが,わざわざこんな事を書くのは,まあ,また"深淵"をのぞいたからでして(関連する意図で書いた記事:ソマリアやイラクを,話題にすることについて 4月12日)。
以下愚痴。
…体制擁護者扱いされたのは初めてだなぁ…。さんざん左翼扱いされ,共産党員ないし少なくとも支持者と疑われ朝日新聞の主張の弁明を求められ中国共産党の主張の妥当性を示せと要求され…。ただの自由主義者だと思うんですけどね。「アドルノF尺度」で時々チェックしてましたけど…。
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