遠野の11月。遠野盆地を囲む遠野市を囲む山々の木々は、遠野の景色を紅や黄に染める。初雪の平均観測日は11月8日ごろ。10月下旬に紅葉のピークを迎える遠野では、そのふたつを同時に見ることができる。
急激に寒さを増す秋。真っ赤な林檎や柿の収穫に追われるのもこの時期だ。
9月には黄金に輝いてた田んぼもすっかり茶色に。黒豆畑も収穫されて寂しい風景が広がっていた。冬になるとここも真っ白になるのだろう。
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遠野の11月。遠野盆地を囲む遠野市を囲む山々の木々は、遠野の景色を紅や黄に染める。初雪の平均観測日は11月8日ごろ。10月下旬に紅葉のピークを迎える遠野では、そのふたつを同時に見ることができる。
急激に寒さを増す秋。真っ赤な林檎や柿の収穫に追われるのもこの時期だ。
9月には黄金に輝いてた田んぼもすっかり茶色に。黒豆畑も収穫されて寂しい風景が広がっていた。冬になるとここも真っ白になるのだろう。
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・・・風になりたい。早朝の中村のお堂。ふと見ると、黒ブチネコがお堂の中をチェックするように伺い、そして脇に回って見えなくなった。とっさに望遠系のレンズに交換したのだが、写真は間に合わなかった。
ここ中村のお堂では、こうした出来事が良く起こる。去年の大晦日の夕暮れには、近所の農家から逃げ出した小牛が、三脚を立てて写真をとっていたぼくのすぐ後ろまで覗きに来たし、正月には集団のすずめたちがお堂で遊ぶ姿が見られた。
・・・だが、いずれも写真に撮れてはいない。あっけにとられて、気がついてカメラを構えたときには、先ほどの黒ブチネコのように視界から忽然と消えてしまうのだ。そして、その後、悠久とも思える静かな時がやってくる。
この日は遠野まつり。秋にお堂で奉納された鹿踊りが披露されるのだろう。荒神様も忙しいのかもしれない。もっとも、神様だから、写真に撮られるようなへぼなマネはしないに違いない。
神様は人間の思惑とは無関係なのだろう。いくら祈ったところで、願いを聞いてはもらえない。
なにしろ天変地異を治めることで忙しいのだから。。
遠野。広大な面積に、歴史的なもの、いわくありげな場所、美しい風景などが無数に散らばっている。
遠野の原風景がそのまま残ってはいるものの、広大すぎるがゆえに、なかなか、人と絡めた風景の描写が難しい。そこで、かねてから人々のやさしさをテーマにした写真を撮りたいと思っていた。
全国に約9000以上伝承されている獅子舞は地域によってさまざまな特徴がある。遠野で見られる鹿踊りは、獅子舞の一種。遠野の鹿踊りは、踊り手の鹿が太鼓を持たない幕踊系の舞いと言われ、鹿の頭をかぶり顔から胸にかけて幕垂れを下げ、数頭が一組となった舞い方をする。また地域によっては、鹿踊りの他に虎舞も残っているらしいのだが、最近は演じられる機会がないようだ。
鹿踊りのいわれは、田畑を荒らす鹿を服従させる舞であり、激しく地面を踏みしめて神々に祈りをささげる。
また、鹿踊りには、東日本に分布する三匹獅子による「女鹿隠し」もある。2匹の雌獅子と雄獅子による、悪霊払いと豊穣祈願の舞だ。
動きの切れ味とパワー、そしてそれを繰り返してゆく持久力。これは技術と言うより、体力が必要のようだ。
日本のどこへいっても、東京とかわらない月並みさに変りはててしまっている。
ところが、遠野だけにはそれがない。
遠野は貧しい村だった。
江戸時代は、年貢米を中心とする「米の経済」といわれながらも、遠野地方は寒冷地なために、麦・ヒエ・アワなどの雑穀中心の農業だった。
1782年-1788年(天明2年-8年)。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉だった。
特に天明4年は、6月ごろから急に寒い日がつづき、土用の入りに袷を着なければならないというような寒波が遠野を襲っていた。
夏畑のキュウリもササゲも早枯れしてしまい、ナスも玉子ぐらいにしかならなかった。
トウモロコシや赤いトウガラシさえもが種子を作らず、米は平年の半分の収穫もなかった。
人びとは食料を求めて山に入り、クリ、トチ、シダミ、ワラビの根、木の芽や葦の葉などまで採集にかけまわった。
全国的な大飢饉であった。時の南部藩主は諸代官を通じて、非常食糧としてワラの食べ方を指示している。
「生わらの穂をとり去って水に半日つけ、それをよくきざんで蒸し、石臼へかけて粉にする。その粉一升と米の粉二合を水でこね、ゆでて塩か味噌をつけて食ぺよ。米の粉がなければ、ワラビの花(澱粉)やクズを用いるとよい」
このような大飢饉ゆえに、いくつもの悲惨な話が残されている。
・・・乳飲み子をを川に投げすてて乞食に出る女や、一家そろっていずこへともなく立ち去ってしまったもの。
遠野物語に出てくる山へ入ったまま出てこない夫や娘の話は、現実にあったことの言い伝えなのだ。
はるか遠い昔のこの地には、そのような悲惨な現実が広がっていた。
一見、のどかに見える景色には、いくつもの悲惨な出来事が埋没している。
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二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。
「クラムボンは 笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
「クラムボンは はねて笑ったよ。」
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
子供のころ、「クラムボン」が何であるのか疑問を持たずに宮沢賢治の世界に浸れた。当時のぼくにとって「感じることができるもの」が理解できるものだったような気がする。人間は成長するとともに、感じることができる範囲が狭まっていってしまうのだろうか。
今年も冷害。お盆を過ぎるというのに、夏らしい暴力的な太陽は空にない。グスコーブドリは、自らを犠牲にして冷害を防いだ。彼が命を捨てて救う農民達の中には、彼を非難し暴力を振るった人も含まれいた。「銀河鉄道の夜」のカンパネルラも然り。
こういう生き方ができるような人になりたいと子供のころずっと思っていた。そして今、果たしてここまで人のためになる事が自分には出来るだろうかと思ってしまう。
研究者への道に進んだのも本来はそのためだったのだが。
「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」
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