tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

リンゴかナッツ

2007-10-31 19:55:00 | プチ放浪 都会編

今年もJR山手線、JR大阪環状線で外国人有志数百人によるハロウィン・パーティが敢行され物議をかもしだしたようだ。
Yamanote Halloween Train 2007: October 27th!
The 2007 event is scheduled for Saturday, October 27, 2007. Festival-goers board the JR Yamanote Line at JR Shinjuku station, platform 13 (Yamanote bound for Ikebukuro). Japanese citizens as well as foreigners meet where car 10 stops, in front of the escalator from South exit. Everyone boards the 21:08 northbound train and loops around clockwise. Frequently everyone brings their own alcoholic beverages.
 (2007年のイベントは、2007年10月27日土曜日の予定です。フェスティバルに出かける人は、 JR新宿駅(13番プラットホームの池袋行きの山手線)に乗ってください。日本人も外国人も、10両目(南出口からのエスカレーターの前)で会いましょう。みんなで21:08発の北行き列車(時計回り)に乗りましょう。いつもは、みんな自分用のアルコール飲料を持って来ます。)

2006年以前の大阪でのパーティでは、棚の上で騒いだり、走行中の車内で蛍光灯を取り外したり、体を露出して走り回ったりして警察から怒られた経緯があり顰蹙をかっていたのだが、今年も電車内の蛍光灯を抜いたりして他の乗客に迷惑をかけたようだ。こうしたガイジンのいたずらを、日本文化に対する挑戦として見るのか、あるいは、国際都市Tokyoで起こるべくして起きた事件とするのか、意見が別れるところであろう。排除するのか、あるいは、暖かい目で見守るのかである。
たしかに、公共の交通機関である電車内にアルコールを持ち込んでどんちゃん騒ぎをするのは、他の乗客に迷惑がかかり良くない。だが、電車ではなく、集まる場所を新宿の中央公園あたりにしないのは、今ひとつ、公園の知名度が低く、場所の説明に苦労しそうなことと、ガイジンたちが心の底ではネイティブたち(すなわち日本人)と親密になりたいという気持ちが込められているからだろう。

どうだろう。住民たち、それから、外国人や旅行客、みんなが一体となって楽しめる仮装パーティのイベントで、しかも世界最大のやつを秋葉原あたりで開催できないものだろうか。みんなが手に手にリンゴやナッツを持って。日本古来の秋祭りや、鎮守の森の村祭りでも構わないのだが。


MARILYN MANSON :: This Is Halloween </object>

バガー・ヴァンスの伝説

2007-10-30 20:29:40 | cinema

久しぶりに、映画を観ていて心が熱くなった。数々のシーンで心が動かされた。どちらかといえば苦手なウィル・スミスとマット・デイモンの2人であるが、この映画で見せる2人の笑顔が深く心に染み入った日だった。

監督のロバート・レッドフォードが銀幕で活躍していたのは主に1970年代のことである。人生に目標を設定して「winner」「loser」を明確に区別し、個人の可能性を強く訴える最近の単純明快なハリウッド映画とは異なり、当時の映画は観客を突き放したようなやや難解な映画が多い。この映画も人生哲学の示唆に富んだゴルフの師匠が出てくるが、話すことは東洋哲学にも似た雲をつかむような教えである。あちこちのシーンに、どうにも東洋神秘主義の匂いがすると思ったら、IMDBの解説によると古代インドの難解な経典の『バガバッド・ギータ』が哲学のベースになっており、登場人物の"Bagger Vance" と"R. Junuh"はそれぞれ経典に登場するBhagavan (Krishna) and Arjunaから来ているらしい。
さて、映画は、人生のどん底にいた一人のゴルファーがみんなの希望を一身に受けて一流のプレーヤーと互角に戦っていくそんな再生の話だ。

時は1930年代。ニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落したことに端を発した世界大恐慌はアメリカジョージア州にも及んでいて、サヴァンナの町には失業者があふれていた。その不況下、ゴルフ場の経営を引き継いだアデール(シャーリズ・セロン)は、ゴルフ場を売り飛ばせと迫る債権者を尻目に、ゴルフコースの集客のため賞金1万ドルを賭けて一流ゴルファーであるウォルターへ-ゲン、球聖ボビージョーンズ招いてのエキジビションマッチを開催しようとする。アデールの軽妙な口車に乗って、弁護士などの学位を複数持つウォルターへ-ゲンボビージョーンズは生涯最後の試合として出場を決意し、女好きのボビージョーンズウォルターへ-ゲンは南部の田舎のすれていない女性が目当てで参加を表明。とここまでは、町おこしがテーマかなと思っていると・・・・・・。
サヴァンナの住民たちはエキジビションマッチに町の代表を出場させることを提案する。郷土の誇りを示せ、ついでに南北戦争の借りを返せ、という訳だ。そこで白羽の矢が立ったのは、サヴァンナ一のゴルフの腕前を持つジェナ(M・デイモン)。しかし彼は第一次世界対戦に出征し、この世の地獄を体験したために生きる気力を失っていた。彼曰く「自分のスイングを失った」。失意のどん底にいるジェナを信じて英雄の復活を祈る少年。このシーンに”世界一速いインディアン”を思い出し胸が熱くなる。
そこにバガー・ヴァンスと名乗る黒人(W・スミス)が現れ、ジュナを再びゴルフへと誘っていく・・・・・・のだが、バガー・ヴァンスのアドバイスというのがおよそゴルフとはかけ離れたことばかり。
”Yeah, I always felt a man's grip on his club...is just like a man's grip on his world.”
「スイングはグリップの位置が肝心です。人生がそうであるように」
とかなんとか。

3日間のエキジビションマッチには手に汗を握る。ゴルフの試合は人生そのものだ。自分のスイングを取り戻したジュナは、アデールとの関係も取り戻していくのだが・・・・・・。
1913年の全米オープンにおいて、無名のアマチュア・フランシス・ウィメットが時のスターで英国人のハリー・バードンとテッド・レイをプレーオフで破り、この優勝でそれまで英国の後塵を拝していた米国ゴルファーの活躍が始まった。この時のウィメット20歳、そしてそのキャディは10歳のエディ少年。そんなエピソードや、ボビー&へーゲンのライバル対決、1925年の全英オープンのあるホールでラフに入ったボールをアドレスした時にボールがほんの少し動いてしまったと一打罰の自己申告して優勝を逃してしまったボビーの実話など、アメリカンゴルフシーンがこの映画に盛り込まれている。そして、この伝説の球聖ボビー・ジョーンズは映画「グレイテスト・ゲーム」にもなっている。

自由の国アメリカでゴルフのことで教わることは、「ノーグリップ・ノーフォーム」。これは、全てが滅茶苦茶でいいと言っているのではない。グリップもフォームも固定された正解といえるものはないということ。大事なのは基本と、それにとらわれない自由な発想が必要なのだが、日本人ゴルファーは往々にして”映画の中のM・デイモンのフォームが”・・・・・・とやりがちだ。
ところで、一杯飲むごとに脳細胞が1000個ずつ死んでいくって話。思わず乾杯をあげたくなる。
ついでながら、『バガヴァッド・ギータ』(上村勝彦訳、岩波書店)は未読だが、サンスクリット語の原文を英訳したサイトを見つけた。時間を見つけて、一度じっくり読んでみようと思う。
http://www.bhagavad-gita.us/


ホワイト・プラネット

2007-10-29 19:38:42 | cinema

人の手にかかった工作物が一切ない真っ白な世界。それはあまりにも壮絶で、穢れなく潔い世界だった。生存の難しさ、生きるための戦いから命の尊さを教えられ、そして、生あるものの喜びを知った。たしかに、そこは地球とは思えないような白い世界だった。
しかし、そんな我々の日常生活から隔絶した世界も、地球は一つしかないので我々と運命を共にせざるを得ない。地球生命を生かすも殺すも、人類のこれからの行動にかかっているのはいまさら言うまでもないことだ。
国家的な取り組み(排出規制、環境基準、研究)や、企業による取り組み(環境技術の開発、ゼロ・エミッションの追求、リサイクルなど)といったかたちで、環境破壊を食い止め、もしくは復元することを目指す運動は様々な形で推進されている。しかし、我々の生活を維持するための多大なエネルギーは、地球規模の気候変動を引き起こす主要な原因であることを、もう一度認識すべきでだろう。

北極海は、気候学的にも、生態環境学的にも、多量の極の流氷から著しく影響を受けている。流氷の白色の表面は、太陽光を効率的に地上からはね返し、地球全体の温度を下げる働きをしている。しかし、ノルウェーの、ナンセン環境衛星センターの調査によると、北極海の海氷に覆われた部分は、1978年から5.5%も減少しているという。
1996年の春、これらの海氷における変化をショッキングに例証する事件が起きた。
100人以上もの経験豊富な捕鯨イヌイット達が、海岸に定着していた巨大な氷がチュクチ海へ割れ落ちた上に立ち往生し、救助されたのだ。
専門家達は、もし大気中の二酸化炭素濃度が産業革命前の2倍になったとしたら、厚い流氷がボーフォート海とチュクチ海岸で冬でさえ消えてしまい、夏には海岸から何百kmも離れたところにおいてもごく小さい島のようになってしまうと推定している。これらのことが現実になってしまったら、北極海に特有の動物達は、絶滅せざるを得ない。ホッキョクグマや、ホッキョクギツネ、セイウチ、アザラシ、そして多種多様の魚類と鳥類たちなど多くの北極特有の生き物たちは、流氷とそれをとりまく大きく薄い海氷の自然の特徴により適合するような進化を遂げてきた。氷のない世界では、彼らは生きながらえることはできないのだ。

温暖化防止を目的とした京都議定書が、2005年2月にようやく発効したものの、排出大国のアメリカは脱会して、中国は排出削減目標なしであり、効果を挙げるには程遠い。原子力発電の副産物である核廃棄物は、放射線を出し続けて、人為的に停止させる事が出来ない。密閉、保管、監視などを徹底することで対処しているが、事故や災害、長い年月に耐える保障はない。
電力が足りないから原子力発電は必要だ、と言う考えは大きな間違いだ。原子力無しで足りなければ、エネルギーの調達と消費について、厳しく改善すべきである。装飾や宣伝のための豪勢なライトアップ、巨大なリゾート・遊戯施設、あらゆる場所に設置された飲料水自動販売機など、すぐにやめても正常な生活を妨げない節約対象は少なくない。急げば、まだ、間に合うはずだ。
ボクは明日のホッキョクグマのため、テレビをできるだけ見ないで過ごすことにした。


アポカリプト

2007-10-28 22:37:48 | cinema

アポカリプトの意味をネットで調べたら、どうやらメル・ギブソン監督自身がテレビコマーシャルでその意味を明かしてたらしい。
You might have seen Gibson himself explaining in the TV commercials for the movie that "Apocalypto means 'a new beginning,'" an assertion he was making to reporters more than a year ago.
'a new beginning,'「新しい始まり」というのが答えだ。

今から約4600年前に中央アメリカの密林に誕生し、エジプトのピラミッドを上回る巨大ピラミッド文明を築きつつも、 15世紀に突然謎の消滅をとげたマヤ文明だが、小さな都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、統一されることはなかったという。川沿いの肥沃な土地でなく、川もない密林に高度な文明。その失われた文明の特徴は、高度な建築技術や暦、複雑で独特の絵文字を持つ一方、鉄器などの金属器や車輪、牛や馬などの家畜を持っていなかった点だ。
マヤの人々が、この映画で描かれたような狩猟民族であるか、あるいは、農耕民族であるかという議論は置いておいても、あの巨大なピラミッドを牛や馬などの動力を使わずに人力だけで建築したとすれば、その社会は奴隷制度、あるいは、税制に代わる労役の制度のようなものがあったに違いない。また、マヤ北部(メキシコ)のチチェン・イツァーの遺跡。ここでは、当時4万人が暮らしていたと推定される。ここに地下10mにセノーテという泉があり、水深15mの底に歯をギザギザに削った118体以上の人骨が発見されている。顔を強打された子供の頭蓋骨には、石のナイフで皮を剥がされた跡が残る。これらは神に捧げられた古代マヤの人々だ。天候不良や雨の為に生贄にされた。生贄にされた人間は戦いの捕虜たちであり、この映画で描かれたように生贄を得るため周辺諸国に戦士を送ったと考えられる。
かくして、奴隷として無理やり徴集されたとあるの人々が、自由を求めて権力と戦うというストーリーが湧き出てくるのだろう。戦いの場を密林に求めるのなら、ストーリーの関係でどうしてもマヤの人々を森の勇者にしなければならないのもうなずける。そうした世界では、女を守るため、一家を守るために、ぎりぎりの戦いを毎日のように強いられるのだろう。まさに、弱肉強食。果たして自分は、もしそのような社会に放り込まれたのなら生き延びることができるのだろうか。命は戦いの中で始めて得ることができる。生きるための戦い、生きるための忍耐。ともに、前作の「パッション」からメル・ギブソン監督が訴える人間の宿命が描かれている。

戦いに明け暮れたマヤ文明は、内乱とスペインの侵攻によって崩壊していった。1519年、スペイン人が新天地を求め、また異教徒を改宗させるために中央アメリカに到達した。当時のユカタン半島は小国家や部族の乱立状態にあった。こうした状況下においてスペイン軍は予想以上の苦戦をしいられた。だが、近代兵器を携えたスペイン軍の前に、やがてマヤの都市は次々に征服されていった。決定的だったのは、スペイン人が持ち込んだ伝染病だった。侵攻から100年の間にマヤ族のおよそ9割が疫病で死に絶えたとも言われている。
1527年から始まったユカタン地域の征服は着々と進み、1542年にはスペインの町メリダが建設され、スペインの植民地時代が始まっていく。マヤの人々はその後、キリスト教への暴力的な改宗をしいられつつも抵抗を続けたが、1697年のタヤサルの戦いを最後に、マヤ人はスペインの軍門に下ることになる。
ボナンパックの壁画に描かれた当時の戦士の様子を見ると、映画に出てきたような全身の刺青や、耳にも首にも唇にも穴を開けて数々の装飾が施されている。なぞに満ちたマヤ文明であるが、それは自然を敬い、その恵みを大切に分け合いながら暮らそうとした人々の知恵の姿なのだろう。


雨のダイビング state of mind

2007-10-27 22:00:01 | プチ放浪 海沿い編

昨日の午前9時に南大東島の南方海上で発生した台風20号は、発達しながら高速で北西に進み、今日の午後7時現在、風速25メートル以上の暴風域を伴って千葉県勝浦市の南東約90キロの海上を時速約75キロで北東に進んでいる。これで伊豆諸島は2週続けての台風の襲来となる。付近を通過する伊豆諸島の皆様の被害がないことを祈る。

実は、先日、中国大陸に抜けていった台風15号の時は、関東には全く天候に影響は無かったものの、海ではうねりが強く、透視度も下がっていて雲見も含めて伊豆方面の外洋は全部ダメでダイビングサービスはクローズされていた。そして今日。悪天候の予報から大雨の中のダイビングってどんなかなと楽しみにしていたが、台風ということでさすがにツアー中止の連絡が入った。今回も台風15号の時のように、ドライスーツをパッキングした矢先の連絡だった。

ネットを探すと、雨に日には憂鬱になるという記述が結構多い。それも、どうやら日本のブロガーのページに良く見られるようだ。アメリカの友人は小雨だったら傘をささずに濡れて歩くのが好きと言って、ぼくの差し出した傘に入らなかったことがあったが、どうも、欧米人は日本人ほど雨の天気を厭うことはないらしい。
一方、雨の日に、古傷が痛むという話は良く聞くが、これは万国共通のようだ。どうも、天候よりも、気圧の変化が影響しているようで、低気圧の通過に伴って雨が必然的に天気が崩れることから、雨の日にはリウマチが痛んだりするらしい。
また、雨の日に憂鬱になるというのも、低気圧に起因しているとの説もある。すなわち、肺の容積は普通に暮らしている分には気圧に関係なくほぼ一定であるものの、取り込まれる空気は気圧が下がればその中の酸素の絶対量は少なくなる。空気中の酸素が少ないため、副交感神経が優位になって、生体のエネルギー消費を抑える。曇りがちな日や梅雨時に、やる気がでない、体がだるいなど体調が変化するのは、副交感神経の働きで呼吸や脈がゆるやかになるためとのことだ。
だが、気圧が低ければ憂鬱になるのなら、飛行機での飛行中や高原に旅行した時とかも気圧が下がるから憂鬱になるはずだが、そうはならないから、にわかには信じがたい話だが、今のところ完全に否定するだけの材料はない。
一方、高気圧とは空気中に酸素がたくさん含まれている状態で、エネルギーを燃やす材料の酸素が豊富にあると、交感神経が優位になって体のエネルギーの代謝量を上げる。そのため晴れた日は人は積極的に活動するようになるといわれているが、これもはたしてそうだろうか。水中のダイバーは水圧にバランスさせた高圧の空気を水中で呼吸するが、これによって交感神経が優位になっているとの自覚はあまりない。むしろ、エネルギーの代謝量が上がれば、必要な呼吸量が増加するわけで、つまりはエアの消費量の増大につながる。むしろ、エアの消費量を下げるため、我々は水中でできるだけ心を静めようと努力することが多い。
気圧が人体に対する影響、特に、自律神経に対する影響について非常に興味があるが、今のところ、充分な説明がなされていないようだ。むしろ、光の量の方が自律神経に与える影響の方が大きいと思うのだが。どなたか、ご存知の方がいらっしゃったら、解説をお願いします。

雨のダイビング state of mind。チャンス being thereという映画で、亡くなったアメリカ経済の大物に大統領が”life is state of mind”と哀悼の言葉を言うシーンがある。窓を叩く暴風雨にふと、そんなことを思い出した。

New York State Of Mind