阿波の国を流れる吉野川は毎年のように稲の開花期になると豪雨で濫し、人々は米の不作に悩まされていたという。その一方で、川の氾濫によって運ばれてくる土砂が養分を運び、良い藍草ができた。阿波藍は世間に名声を高め、藍商が栄え、徳島の町は殷賑を極めた。
だが、米の不足分の解消のため、藍とひきかえに久留米絣で有名な久留米藩などから、米の買い付けをしなければならなかったのだ。
徳川幕府は権力をかさに、他藩よりの米や兵器の輸入の禁止、大船の建造禁止、金や銀の産出の制限、贅沢禁止令など、幕府安泰のための悪辣な策略を駆使していたのである。
「踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ 損々」
蜂須賀氏の入国後は安定した世が続いたが、武士や大名など支配階級は次第に税収不相応の贅沢をするようになる。その結果、藩の財政は悪化し、農民への租税は次第に重くなる。
天保年間(1830~1843)には、異常気象により不作が続き、農民たちの生活は極めて困窮した。天保12年(1842年)。ついに、徳島県三好市山城町の白川谷川流域以北で百姓一揆(山城谷一揆)が勃発する。
「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい」
といった世直しを訴えた”ええじゃないか”は、慶応3年(1867年)7月から翌明治元年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった。
「ええじゃないか」と「阿波踊り」の発祥。時代はかなり接近している。
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