tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

看護師たち

2008-03-31 20:59:15 | 日記

ナース達は日3度、勤務班が交代する。日勤と夜勤、休日を組み合わせて、だいたい2日おきにシフトするサイクルのようだ。廊下を挟んで東側と西側の病室でナースのチームが異なり、急性患者がいる東側では経験充分なナース達と若手の組み合わせが、亜急性患者が多くいる西側の病室は、冷静・沈着な中堅どころと若いナース達が担当している。また、ナースステーションに近い病室ほど、看護に手のかかる患者達が入室している。
男性の入院患者は、そのほとんどが”入院先の白衣の天使達にあこがれる”と言われても、少なくともぼくは否定はしない。ぼくは白衣の天使が、うら若き乙女だろうが、250ccの中型バイクを乗り回すバイク野郎だろうが、ヒマさえあれば声をかけまくっていた。
ナース達は本当に良き話し相手になってくれた。

そのバイク野郎のナース。女性入院患者にとって、若い男性ナースは人気のようである。彼が病室の担当になれば、その病室のあちこちのベッドの女性患者から話しかけられ、なかなか、女性の病室から脱出することができない。だから、女性のナースの場合よりも、相応に女性患者の心のケアに役立っているようだ。ただし、下の世話に関しては話は別で、この時ばかりは同性のナースの方が喜ばれるようである。
これは、男性の入院患者の場合も同じ。尿瓶の交換などをお願いする時などは、若いキャピキャピの女性ナースが来るとついつい言いそびれてしまうのだが、男性ナースの彼が来るとこの時とばかり気楽にお願いすることができる。

さて、前にも書いたが、手術の翌日に排尿のためナニの先に突っ込んだチューブを引き抜いてくれたのがM嬢。ショートカットのさらさらの髪の毛が似合う女性なのだが、チューブを引き抜く際に思わず痛いとうめいたぼくに
「痛いと言ったでしょう」
と一言で一蹴したのが彼女だ。
それ以来、ぼくは彼女に対して、一方的に絶大の信頼を寄せている。どういうめぐり合わせか、手術後の始めての入浴も彼女が面倒をみてくれた。入浴の際は、ひょっとして一緒に入るのかなとドキドキしていたのだが、全裸になった片足立ちのぼくをシャワーの前に連れて行ってくれただけ。
「何かあったらナースコールを押してね」
と言う言葉を残し、彼女はシャワー室から出て行った。


楢山節考

2008-03-30 13:31:06 | 日記

回復に伴い亜急性病棟へ移った時に、ぼくの向かいのベッドにその老人はやってきた。年齢は90歳。老人は脳外科病棟から移って来た患者だった。向かい側のベッドへ移って来たその日は、老人の次女が老人に付き添っていた。
ぼくはベッドで本を読んでいたのだが、本に落としている視線を上げるとベッドに横たわった老人と、ベッドの側のイスに腰掛けた歳の頃40歳前後の次女が目に入る。
彼女は困っていた。
「困った。困った・・・・・・」とため息とともに、なんども言葉を繰り返していた。
と言うのも、認知症気味の老人が、昔の記憶と限りなく混濁した意識の中で、娘に話しかけるからだった。どうやら、次女の彼女が20年も前にお嫁に行った頃からの記憶が飛んでいるらしい。しばし、彼女の知らないような昔のことをしゃべり、彼女はどう返事してよいものやら困っているのだった。
「困った。困った・・・・・・」
彼女は混濁した記憶の中を彷徨い、ともすれば、妄想に捕らわれ勝ちな父親の言葉に、認知症から早く回復してくれることを願う一方で、本来の父親とはまるで別人になってしまった父親にどう対応していいのか茫然自失の状態だったのだろう。
しばらく彼女と老人の会話が聞こえてきて、「おやっ?」と思ったのは、彼女がなにかにつけてナースを呼ぶことと、老人が家に帰りたがるのは彼女自身が老人の側にいるからと考えていることだった。
紙おむつを当てた老人が尿意を彼女に訴えても、彼女はナースを呼ぶだけで自分では何もしようとはしなかった。まして、後から老人の長女もやってきたのだが、2人の姉妹は、やってきたナースに老人の紙おむつの交換を任せたまま、自分達は廊下の外に出てそれが終わるまで待っていた。
たしかに、この病院では完全看護を謳っているから、「プロの看護婦に任せて、家族は手を出さない」との考えなのかもしれない。しかし、いくら意識が混濁した老人であれ、身内と他人の区別はつく。自分のオムツを交換してもらうのなら、他人である若い看護婦と我が子ではどちらが頼みやすいのだろうか。老人は病院に捨てられていた。彼女たちは自分達の手に負えないからと、若い看護婦の仕事がそれだからと病院に老人の世話を押し付けて、それ以来、ほとんど老人を見舞うことはなかった。
老人の世話に慣れていないのは仕方がない。しかし、自分の幼少の頃、さんざんオムツを交換してくれた親に対し、なぜ、オムツ交換ができないのだろうか。
他人の家庭のことをとやかく言うつもりはないが、老人は明らかに寂しがっていた。ぼくが彼のベッドを通り過ぎる際に話しかけてあげると喜んで、ただし、一本しか歯のない老人の言うことは2割ぐらいしか理解できなかったのだが、会話するのがうれしいようだった。
21時の消灯の際には老人はいつも家へ帰りたがり、不自由な体で懸命にベッドの柵を取り外そうとするのだが、声をかけてあげるうちにおとなしく寝入るのが常だった。
ナース達はさすがだった。パジャマ姿のぼくなんかよりも、白衣の彼女たちの方が老人は安心感を覚えるのだろう。彼女たちが優しく声をかけると、老人の心は落ち着くようだった。病院に捨てられた老人の寂しさを、ナース達が代わるがわる慰めていた。
老人のオムツ交換を繰り返しながら、深夜に家に帰りたいと騒ぐ老人を慰めながら・・・・・・。
いつしか、日本の病院ではこんな光景が随所で見られるようになった。姥捨て山。これが今日の病院の抱える一面だ。

昔は病院に入院すると、付添婦や家政婦が付き添ったものだ。ところが、医療法が改正されて病院は完全看護を建前とすることになったため、医療機関の看護師以外の者が看護することが禁止されることになった。だが、患者が幼児や、精神に障害がある人の場合など46時中看護を必要とする場合には、ナースの手が回らないので家族や付添婦の付き添いが認められている。一方、仕事のきついナースの数は全国的に不足がちだ。だから、一般の病院では、認知症、あるいは、痴呆の患者が入院すると、この例外規定によって病院側から付き添いが求められることもある。
ところが、介護保険も医療保険も付き添い看護は対象になっていない。看護をナースに押し付けるのか、あるいは、その労力を家族が100%負担するのか、これも大きな問題と言わざるを得ない。


老人とその娘

2008-03-29 21:58:06 | 日記

食堂で食事をするその一人に、車椅子に乗ったその老人がいた。娘が食事のたびに老人を介助していた。老人は軽い認知症のようだった。昨年の末に、自宅でフラフラ起き出して転んでしまい尾てい骨を骨折したらしい。車椅子が手放せない状態だった。
老人は夜中に娘を呼んで大声で叫んでみたりと騒がしいので、同室の入院患者たちや、そばの部屋の女性入院患者たちから好かれてはいなかった。そんなこともあって、老人の娘は毎日、朝早くから面会時間の終わる夜8時まで、途中食事に家に戻るのだが病院に何度も足を運び老人の世話をしていた。

ある日の午後、病棟の廊下の突き当たりにおいてあるベンチに腰掛けて話し相手を探していた時に、その老人と娘がリハビリのための自主トレにやってきた。その娘といろいろ話をしたのだが、老人はその昔、漁師だったらしい。海苔の養殖で生計を立てていた。現在、彼らが住んでいる駅前の一等地は、老人が現役のころは海辺だったのだそうだ。埋め立てで駅前の商業地が出来上がり、あっという間に大型店舗が立ち並んだとのこと。
老人は漁師だったこともあって、言葉が少々乱暴だ。娘の食事の介助に対しても、やれ水だとか、メシだとか軽い認知症であるにもかかわらず、不明瞭ながらも乱暴な言葉で叱り飛ばしている。
娘も老人から頻繁に怒鳴られるのが嫌で、時々、老人に対してやり返すのだが、この口論がどうやら他の入院患者たちの彼女に対する悪評につながっているようだった。だが、悪口を言う入院患者たちは、わがままな老人に対する彼女の献身的な介助を見てはいない。
食堂で彼ら親子の様子を見るにつけ、ぼくは彼女の老人に対する献身に感心していた。確かに、たまに老人に対して大声でやり返すことがあるものの、老人のわがままから発せられる言葉がその原因であり、同情を感じざるを得なかった。
娘さんにふと、
「(毎日の介護が)大変ですね。たまには温泉で1日のんびりすれば、きっと発散できますよ」
なんて、大きなお世話だろうなと思いつつも口走ったら
彼女は顔を輝かせてぼくをそっと見つめ、しばらく思いをめぐらせていたようだったが、
「でも、これだから・・・・・・」
彼女は視線を老人に戻した。

夢でも良い。彼女がひと時でも現実から逃れて、自分自身を取り戻せる時間があればとぼくは思っていた。
老人介護。少子化が進んだ現在の日本では、どこの家庭でも老人介護の問題に頭を悩ませざるを得ない状況だ。
老人介護で苦労している人がたくさんいる。そしてその多くが、病院を転々とさせられたり、介護と病院探しに明け暮れている等の生々しい実態がある。高齢者介護に関する現行の制度は、医療と福祉の縦割りの制度となっており、サービスが自由に選択できないこと、サービス利用時の負担に不公平が生じていること、介護を理由とする長期入院(いわゆる社会的入院)等医療サービスが不適切に利用されていること等の問題がある。
こうした不安や問題の解消を図り、今後、急速に増加することが見込まれる介護費用を将来にわたって国民全体で公平に賄う仕組みを早急に確立する必要があろう。
高齢化社会は、待ったなしの重要な課題としてわが国に重くのしかかっている。施設の拡充のみならず、安い外国労働力を充当するなどの早急な対策が講じられるべきだ。


笑顔がこぼれて

2008-03-28 22:50:23 | 日記

前にも書いたが、入院患者のうち8割を占めるのが腰痛を訴える患者達だ。彼らは手術を受けるのだが、入院期間は10日から14日と比較的、短期間だ。だから、顔見知りになって挨拶を交わすようになったと思ったらすぐに退院となってしまい、親しく話をする機会があまりない。
それでも、ぼくの入院と同じ時期だった腰痛の年配の男性は、食堂で一緒に食事をするうちに親しくなった一人だった。
この病院の食事は、給食センターから人数分の食事を満載した手押しワゴンが到着すると、ナースセンターから
「食事の用意ができました。歩ける患者さんは食堂へ。病室で食べられる患者さんはテーブルを片付けてください」
とのアナウンスが入る。
手術するまでは、足首に錘をぶら下げてベッドに縛り付けられて身動きできなかったぼくは、ベッドで食事をするしかなかった。だが、手術が終わって縛り付けられていたベッドから解放されるや、ぼくは食事は食堂に出向いて備え付けのテレビを見ながら食べていた。入院患者で食堂に来て食事をするのは、いつも3~4名程度で少数派だ。ほとんどの入院患者はベッドに食事を運んでもらって食べていた。彼は痛む腰をさすりながらいつも食堂へやって来ていた。
彼と一緒に食堂で食事をするうちに、お互いにいろんな話をするようになった。
彼は会社をすでに定年退職していたのだが、以前はガラス製造の会社に勤めていたらしい。ガラスの製造工程や、船積みの仕方などいろいろなことを彼は教えてくれた。聞けば家はぼくの家と同じ地区でさほど遠くはない。子供は2人。孫もいるらしい。
彼の腰椎の手術の日に、たまたま食堂で本を読んでいたら、手術に立ち会った彼の家族が食堂へやってきた。彼の奥さんがとても心配そうにしていたので、「大丈夫ですよ」なんて適当に元気づけてあげたのだが、それ以来、奥さんは彼を見舞うたびにぼくのベッドにも挨拶に来てくれていた。
特注のコルセットができるまで動けなかった彼だが、手術後、2日ぐらいで歩行器を使って歩けるようになり、また食堂で顔をあわせることができるようになった。腰をひねるのは禁じられていたものの、そのうちに、コルセットを巻いてスイスイ歩けるようになり、手術後1週間で退院。家族が付き添う中、病室で挨拶をして退院していったが、一家には笑顔がこぼれていた。彼の退院していく様子を見ていて、ぼくも幸せ一杯の気持ちを覚えていた。やはり、人は健康が一番なのだ。

ところで、腰痛。古代人の遺骨などを見ても、椎間板はかなりの割合で変性しているらしい。人類はその昔からずっと腰痛に悩まされていたようだ。ただ、人間は二足歩行を始めたことで腰痛持ちになったという説には根拠はない。椎間板の変性やヘルニアは、20歳を過ぎれば誰にでも見られるのだが、すべての人が腰痛を訴えているわけではない。現代人の病気としての腰痛や肩こりは、ひょっとしたらストレス社会での心の問題が大きくかかわっているような気がするのだがどうなのだろう。


「功名が辻」

2008-03-27 20:50:59 | 日記

総勢22名のナース達やヘルパーさん、掃除のおばちゃんたち。それから、顔見知りになった他の入院患者たちの名前を覚え、廊下ですれ違うたびにいろいろな話題を見つけて会話を楽しんだ。
実は、こうした他人への積極的な会話は、ちょうど入院して間もなく読んだ司馬遼太郎の「功名が辻」に出てくる木下籐吉郎、後の太閤秀吉の記述に感銘を受けたからだった。といっても、別に戦国時代の大名になりたかったわけではなく、ただ単に長い研究者生活で身に付いた嫌な悪癖、つまり感情を抑圧する傾向を直したかっただけなのだが。
入院患者たちは基本的にヒマだから、いつでもぼくの馬鹿話に付き合ってくれた。一方、やさしいナース達はすれちがう廊下での短い会話を楽しんでくれる人もいたのが、なかにはウザイヤツと思うナースもいたに違いない。というのも、毎日が単調な変わり映えのしない入院生活では、話のネタがどうしても尽きてしまう。だから話題は、自然とその日のナースの観察結果にならざるを得ない。団子にしていた髪の毛がある朝ポニーテールだったり、スカート派だったのにズボンをはいていたり、メガネじゃなくコンタクトに変わっていたり・・・・・・。当のナースにしてみれば、たまたま朝忙しくて髪の毛をまとめている時間がなかっただけなのに、廊下ですれ違うたびに患者から髪の形が変わっていることを指摘されるので、もうその話題は止めてと思っているのだろう。
だが、それにも増して、ナースの反応は人によって異なり個性が現れた。
人はそれぞれ違っていて、実に面白いと感じる毎日だった。

ところで、やさしいナース達に毎日一定時間ごとに血圧を測ってもらうときに、ぼくはいつも一瞬の指先の痺れを感じていた。しかもこの痺れは特に、スタジオジブリの”魔女の宅急便”のキキにそっくりのナースに測ってもらう時がひどかった。とうとう腕にまで障害がやってきたのだろうかと一時は心配していた。だが、何のことはない、ナース達の白衣にたまった静電気が原因だった。夜の検温で、カーテンの陰で薄暗くなったベッドの上で血圧を測ってもらった時に、伸ばしたぼくの腕の指先にキキの白衣の胸元が触れたその瞬間、指先から紫電が走ったのが見えた。
人はとっさの場合に、こんな衝撃的な場面であらぬことを口走るものなのかもしれない。
「胸が・・・・・・腕に触って・・・・・・」
ぼくが何を言おうとしているのか理解できないキキは、ぼくの視線の先にある自分の胸の辺りを目で追い、
「大丈夫よ。胸に触っていないし・・・・・・」
まるでボケ老人にでも言い聞かすように答えた。キキよ。「触っていないし・・・・・・」で会話を終わるなよ。続きがあると思ってしまうし。そんな会話はどうでもよく、どうやら、ぼくは血圧を測ってもらうたびにナースから電撃を受けていたようだった。彼女達が発する100万ボルトの電撃を、生で見られたのは怪我の功名というべきなのだろうか。
キキよ。うまく制御して電撃を発せられるようになれば、ぼくのような言うことを聞かない患者を懲らしめたりと、いろいろ便利だと思うのだがどうなんだ?