筑波山麓周辺で産出される雲母片岩を筑波石という。
千葉や茨城の古墳の多くは、古代の「香取の海」につながる水路で筑波石を運び、その巨石を使って石室や石棺が作られた。
「香取の海」の要衝、茨城県石岡市高浜町を流れる河口の台地縁に舟塚山古墳がある。
群馬県太田天神山古墳に次ぐ規模(186m)の前方後円墳だ。常陸国の当時の政治的社会がうかがえる有力な首長の墓。
この船塚山古墳をはじめ、馬形飾八個を付けた金銅冠を副葬していた三昧塚古墳、さらに王の存在を示す玉里船塚古墳など、「香取の海」を舞台に活躍した古代豪族たちの栄華の跡だ。彼らは、経済的な基盤を押さえたばかりでなく、軍事的な拠点を要衝として、古墳時代社会の中で優位性を保ったのだろう。
しかし、古墳終末期(7世紀代)になると、「香取の海」の古墳は、大型方墳・竜角寺岩屋古墳に集中していく。
数は力。より強力な敵に対処するため、豪族たちは結束せざるをえなかったのだろうか。
それとも、政治の発達により、中央集権化が必須となったのか。
この集約の動きは上野国、下野国も同じだ。
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