人はご馳走を前にすると、自然と笑顔がこぼれる。おいしい食事の並んだ食卓には、幸せな笑顔があふれる。場所が変わって、習慣が変わっても、おいしいものを感じる心は世界共通だ。隣の国の韓国を旅すると、食卓に無料の付けあわせが山のように出てくる。いっぱい並んだ皿を前にして自然と笑顔がこぼれると、店の人も笑顔で答えてくれる。こんな笑顔があふれるこの映画は、いまの日本で忘れていた大切なものを思い出させてくれる映画だった。
ぼくが若い頃、自宅であっても一人暮らしの外食先であっても、ぼくにはいつも食事の間じゅう見守ってくれる人がいた。食事の間特に話をするわけでもなく、食事を終えて笑顔を交換して・・・。いま、ふり返れば、なんという贅沢な時間だったのだろう。確かな幸せがそこにあった。いろいろな出来事はぼくとは無関係のところで過ぎて行き、巻き込まれもせずに無関係のままいつもみんなと顔を合わせていた。必要以上のなれなれしさがわずらわしくて、かといって新しい店のドアを次々と開ける勇気も無い。その割に、店が暇な時にかけられる一言や、試食してみてと特別な一品を出してもらえるのが嬉しくて通い続けてしまう。寂しがり屋の癖に、人との関係を疎んじるそんなわがままを許してくれる人たちがいた。ちょうど、毛づくろいをしている猫が、しょうがないわねって感じでこっちの手までなめてくれる。そのざらっとした舌の感触がくすぐったいけど、時にはそうしていて欲しいといった感じ・・・。
「パンケーキにジャムをのせて食べるひとが、そんなに危険人物であるはずがありません。」
ムーミンにはそんな言葉が出てくる。日本のテレビでムーミンのアニメーションが放送されていたのは1969年のことらしい。ガッチャマンも、その頃か。確かに主題歌の歌詞を思い出すことができない。もうその頃は、アニメはすっかり卒業していた。それでも、おぼろげにムーミン谷の雰囲気は覚えている。スナフキンとミーは「異父きょうだい」らしい。ムーミン谷にもいろいろなムーミン事情があるのだろう。
シナモンロールではなく、あえてジンジャーブレッドを作ってみる。味はどうでも、夢が詰まっている。絵本つながりでターシャ・テューダーの世界が広がる。この映画から、おばあちゃんのターシャ・テューダを連想したら失礼かな。
「人はみんな変わっていくものですから。」
「毎日真面目にやっていれば、何とかなりますよ。」
いつもその店の前を通り過ぎていて、いつか入ってみたいと思っている店が、いつのまにか知らぬ間に無くなっているのに気づいて残念に思うことが多い。開店しては閉店。それだけ、この業界は浮き沈みが激しいのだろう。その昔、しょっちゅう通っていたなじみの店が消えていくことも、寂しさを募らせる。かもめ食堂は変わらずに、ずっとそこで開いていて欲しい。そんな願いを思わずしてしまうそんな映画だ。
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