車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大日本報徳社と掛川城 in 静岡県掛川市

2019年02月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

明治初期、『二宮尊徳』の唱えた報徳思想の普及をめざして設立された「大日本報徳社」。 その建物が、かって掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しています。
【「報徳」とは、彼が生涯の生活と体験を通じて社会道徳の規範を考え、人間として社会生活を行うための行動の基本となるものをつくり、自ら実践し、それをそのまま雛形として後世に伝えられたものです。】公式HPより

明治42年に建設された花崗岩製の正門には、右に「道徳門」、左に「経済門」の刻。「天地の徳に報いるには、内にあっては天賦の良心を養成(道徳)し、外にあっては、天地の恵みである作物の育成を助ける(経済)ことである。」という『二宮尊徳』の教えに由来。

門から見える大講堂は、明治36年4月に竣工されたもので、国の重要文化財に指定。 建物は木造2階建て・入母屋作りで屋根は瓦葺き、窓の上部が半円形で、装飾が施された円柱があります。

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「仰徳学寮」は明治17年竣工の有栖川宮邸の一部で、後に霞が関離宮の一部として使われました。大正13年からは、帝室林野局仮庁舎として使われ、昭和13年に大日本報徳社に移築。

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掛川に来たのに掛川城に行かないなんて・・とかなりブーたれましたが、2011年のこの時は時間切れで、太鼓櫓を横目で眺めただけで終わり。

2016年、五年越しの希望が叶って訪問した「掛川城」の筈でしたが・・・このときも外観の見学のみ (^^;) 色々と理由はあったのですが、兎にも角にもこの時は二人旅では無いので・・(´;ω;`)ウッ…
・・数分間の下車の間に、城の遠望とその周囲を写真に収めるにとどまりました。

掛川城は室町時代中期に、駿河の守護大名『今川氏』が築城させたと伝えられています。 明治維新に廃城となりましたが、1194年に日本初の「本格木造天守閣」として復元。

大手門は天守閣に続いて復元されたもので、重厚な桜門造りの木造日本瓦葺き入母屋づくり。 白壁に板ひさしが配されており、棟上にはシャチ瓦が飾られ、勇壮な構えとなっています。

門の内に展示されていた石は1993年の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」の一つ。 大きくて重量のある門が傾いたりしないように、基礎工事には工夫が凝らされていたようです。

江戸時代末期に建てられた番所は、城内に出入りする者を監視する役人の詰め所として使われていました。 現在の建物は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再現されたものです。

車に戻る寸前に見かけた『一豊と千代』の顔出し。まぁ、せっかく見つけたものです!とりあえず写真に残しておかねば(笑)
天正18年(1590)、『徳川家康』が江戸に入ると、掛川には『山内一豊』が5万石で入封。 城主となった『一豊』は城の大改修を行い、このとき現在の形となる三層の天守が造られたそうです。

息を切らしながらデジカメに収めた掛川城遠望と、付随する周囲のあれこれ。写真を見返して「ああ、あそこはこんな風だったのか」と改めて懐かしんでいます。 東名高速道路「小笠PA」の記念スタンプは、復元された掛川城天守閣。

訪問日:2011年11月16日&2016年12月14日

 


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