昨日に続いての歴史的建築を訪ねる町歩き、今日は~其の二です。
通りで一際目を引く土蔵造り3階建ての建物は「白木屋漆器店」。店舗のHPには「大正2年(1913)に建て始め、翌年春に竣工した、洋風の外観の「土蔵造り」です。当初より、漆器の陳列と店頭販売を目的として建てたものです。」
大貫を横張りとし、素焼の敷瓦(8寸角)を釘付け。漆喰下塗りの上に、赤土とセメントを混ぜた南蛮土を塗り、モルタルで中塗りをした後に洗い出しをし・・と書いている本人、実はちっとも意味が分かっていない😱。ともあれ、建築学的にも興味深い建築物として、歴史的景観指定建造物に指定されています。
この佇まいに慣れていない観光客(私たち)には、こちらで会津漆器が購入できますよと教えられても、思わずしり込みをしてしまいそう😅
昭和11年(1936)に建てられた「旧黒河内胃腸病医院」。寄棟と切妻が併用された赤茶色の和瓦葺の屋根には、ヴォールト屋根の二つの小さなドゥーマーが載っています。市のHPには「那智黒石で造られた塀とともに存在感を醸し出す姿は、野口英世青春通りにあって貴重な建物である。」と紹介されています。
昭和11年(1936)建築の「菊池金粉製作所:黒漆喰蔵」。逆光で分かり難いのですが、珍しい横目地の入った黒漆喰の土蔵造りとなっています。
七日町通りの一角に、昭和2年に「旧郡山橋本銀行若松支店」として建築されたギリシャ建築を思わせる洋館。正面に配された6本の円柱が建物の重厚さを醸し出しています。その後、新潟に本店がある「第四銀行会津支店」となり、現在は 「滝谷建設工業(株)会津若松店社屋」として使われています
「清水家旅館跡」。幕末の嘉永5年(1852)には、吉田松陰が東北旅行の途中に宿泊。慶応4年(1868)には、戊辰戦争宇都宮の戦いで負傷した新選組副長土方歳三が宿泊。戊辰戦争後には、松平容保の義姉照姫が東京に護送される前、妙国寺から清水屋に移り、ここから東京の紀州藩青山邸に向かいました。清水屋旅館は昭和の初め頃に取り壊され、今は碑だけが残されています。
昭和2年(1927)に建てられた「第二塚原呉服店」。正面には「だいにつかはら」、上部には「Department Store」。ここからから少し離れた場所に本店がある事から「第二塚原」という名称になっています。
大正時代に建築されたと思われる「レオ氏郷南蛮館」。レオは『蒲生氏郷』の洗礼名で、二階には蒲生氏郷の資料が陳列されています。
七日町通りに一際その存在感を示すのは、昭和3年(1928)に竣工されたモルタル仕上げの洋風建築「旧鈴木洋装店」。現在は「活性炭製造輸入販売:尚伸株式会社」の看板が上がっています。
明治22年(1889)築の店蔵を利用した「会津新撰組記念館」。会津藩や新選組の資料をはじめ、来援した旧幕府軍・奥羽越列藩同盟軍、来攻した新政府軍等の貴重な資料が展示されています。
2階建てモルタル仕上げの看板建築「池田種苗店」。建物の前面を垂直に立ちあげ、モルタルや銅板・タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した看板建築は、昭和初期の商店などに見かけます。
蔵造りと言うほど厳めしくないこじんまりとした可愛らしさを感じさせてくれる「長門屋七日町店」。疲れると甘いものが無性に欲しくなるようで、手軽に口に放り込めそうな「あんこ玉」を購入。
大正期建築の「渋川問屋」。店舗や棟続きの土蔵、美しい格子の風格ある佇まいが、会津一の海産物問屋として隆盛を極めた姿を留めています。
訪問日:2015年6月29日
だって建築に関してはドを二十個くらいつけても良いくらいのド素人なんですもの。
説明を書けるだけマシだと、温かい目で見てください。
で、最後の一文で噴き出してしまいました。
思わず「同志よ!!」と(笑)
かってに同志認定をしてごめんなさい。
「tibineko先生の解説」を、生徒である私は懸命に読んでいます。
「中塗りをした後に洗い出しをし・・と書いている本人、実はちっとも意味が分かっていない😱。」
愉快で笑ってしまいました。先生の本音ですね。「笑いは人を幸福にする」という言葉があるそうですが、貴方の解説は時々私を、「幸福」にしてくれます。
だから私も、「笑い」のお返しをしましょう。
「中塗りをした後に洗い出しをし・・と読んでいる本人、実はちっとも意味が分かっていない😱。」
しかしどうでしょう。貴方は笑われるのでなく、怒られるのかもしれませんね。その時は、ご容赦ください。
「イオニア式」の円柱
疑洋風建築でもよく見られる形式です。
確かに、正面から見た時の印象は
「かっこいい!!」ですね😊
こんばんは!
今日はおたる水族館へ
遊びに行ってきました!
ギリシャ見たいな作りの柱の建物が面白い!!