車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 奈良県王寺町

2023年05月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

北葛城郡王寺町(おうじちょう)は奈良県の同郡内では北端に位置し、奈良県内における大和川水系の最下流に位置する町です。北は大和川を境に三郷町・斑鳩町と接し、東部は河合町・上牧町、南部は香芝市、 西部は大阪府柏原市に隣接。町名は、聖徳太子が建立した放光寺(片岡王寺)に由来するとされ、延喜式内・片岡神社や、聖徳太子が建立したと云われる達磨寺があります。「町の木:梅」「町の花:サツキ」を制定。

キャッチフレーズは「人にやさしい和(やわらぎ)のサイト 豊かで文化の薫り高い都市 水と緑と人がきらめく、風格ある生活環境都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により葛下郡王寺村が発足。

1926年、王寺村が町制を施行し葛下郡王寺町が発足。

1957年、香芝町大字畠田(字尼寺を除く)を編入、現在に至っています。

マンホールには、中央に「和の鐘」、左右に「町の木:梅」「町の花:さつき」がデザインされています。(王寺駅前のメイン道路歩道に設置)

王寺本町1丁目交差点の角に設置された「和の鐘」。名称は聖徳太子の「以和為貴(和をもって尊しと為す)」の精神を尊重して命名されました。

昭和32年(1957)9月28日制定の町章は「頭文字の「王」「O」を組み合わせて、平和を愛好する精神とかぎりない将来の発展を意味づけ、現代の交通機関は「○即ち車輪」であり交通に恵まれている事を表現しています。」公式HPより

近畿日本鉄道マンホール。中央の社章は「円の内側の図形は、社名の頭文字「近」と「人」の文字を図案化し、社名と「人の和」を表現。さらに、全体の図形は、コロナを発する日輪と転動ばく進する車輪をかたどった紋様図形。」公式HPより

「近畿日本鉄道 王寺駅」

撮影日:2009年4月19日&2018年5月21日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 奈良県天理市

2023年05月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

天理市(てんりし)は奈良県北中部にあり、奈良市、桜井市、大和郡山市、田原本町、三宅町、川西町と隣接。市域を東西に西名阪自動車道、名阪国道が貫き、南北軸と交わる交通の要衝となる市です。市の中心部には天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市としても知られ、市名選定の理由書には「合併を契機として宗教都市たる本質を明瞭に表現し関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく住民の意向や感情を勘案してこゝに「天理市」を選定したものであります。」と記されています。「市の木:イチョウ」「市の花:梅」を制定。

キャッチフレーズは「生きてきて良かったと実感できるまち つながり、にぎわい・未来を創造するまち~人と人とのむすびつきを大切にし、みんなでつくる活力あるまち 天理市~」多分紹介した自治体の中では最長かも・・

明治22年(1889)、町村制の施行により、山辺郡山辺村・朝和村・福住村・二階堂村、添上郡櫟本村、式上郡柳本村が発足。

1893年、山辺村が町制を施行、改称し山辺郡丹波市町となる。

1894年、添上郡櫟本村が町制を施行、櫟本町となる。

1897年、式上郡が磯城郡に変更。磯城郡柳本村となる。

1923年、柳本村が町制を施行し、磯城郡柳本町となる。

1954年、山辺郡丹波市町・朝和村・福住村・二階堂村・添上郡櫟本町・磯城郡柳本町が合併、天理市が発足。

1958年、磯城郡田原本町大字桧垣・遠田・海知・武蔵地区を編入。現在に至ります。

マンホールには、黒塚古墳から出土した「三角縁神人竜虎画像鏡」がデザインされています。

天理市トレイルセンター内「三角縁神人竜虎画像鏡」の写真

昭和29年9月24日制定の市章は「天理の「天」の文字を主に6つの円をあらわして模様化し、梅花を形づくっています。中央の円は丹波市町、外の5つの円は二階堂、朝和、福住、柳本、櫟本の合併5か町村をあらわし、和の精神を尊ぶ緊密な連携発展の意義を表わしています。」公式HPより

天理市 ガス

天理市嘉幡町の国道24号線沿い交差点で見かけたロボット。前も後ろも物凄くよくできています。交通ルールを守りましょうの文字の横に大きく「取締り中」と書かれた看板。何を取り締まっているのかは不明。(((((^_^;)

撮影日:2009年4月29日&2017年4月26日&2018年8月29日

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2017年4月3日、第4弾として全国42自治体で50種類(計151自治体170種類)の マンホールカードが配布されました。 「天理市」のマンホールカードは天理産業振興館で頂けます。(天理市トレイルセンターに変更。)

2011年に設置開始されたマンホールには「三角縁神人竜虎画像鏡」がデザインされています。

「天理市の南部、黒塚古墳から出土した「三角縁神獣鏡」の文様をデザインし、中央に市章をあしらったマンホール蓋です。 邪馬台国の女王、卑弥呼の鏡とする説を持つ三角縁神獣鏡。 背面に神獣を配し、鏡の縁が鋭く尖った三角形をしているため、そう呼ばれています。 同鏡はその文様によっていくつかの種類にわけられますが、本マンホール蓋のモチーフになった三角縁神人竜虎画像鏡は、黒塚古墳でしか出土していません。 日本最古の道として知られ、古社寺や万葉歌ゆかりの地といった名所が点在し、四季折々の趣をもつ「山の辺の道」などに、このデザインの蓋を見つけることができます。」

訪問日:2017年4月26日

 

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ご当地マンホール in 奈良県下市町

2023年05月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

吉野郡下市町(しもいちちょう)は奈良県のほぼ中央、吉野川の南側に位置する町です。五條市・大淀町・吉野町・黒滝村に隣接。平安時代の頃から吉野の入り口として栄え、市が立つようになると、日本で最初の商業手形「下市札」が発行されるなど、吉野地方の主要商業地として栄えてきました。歌舞伎「義経千本桜 三段目 すし屋の段」の舞台としても知られ、「秋野川沿いの下市の町なみ」として奈良県景観資産に登録。また「こんにゃくの発祥地」としても有名。「町の木:杉」「町の花:松葉牡丹」を制定。

キャッチフレーズは「自然と歴史が息づくやすらぎの町 いのち輝く 下市町 ~人・技・自然 見つめあい、生かしあい、育むまち~」

明治22年(1889)、 町村制の施行により吉野郡下市村・秋野村・丹生村が発足。

1890年、下市村が町制を施行し、吉野郡下市町になる。

1949年、吉野郡秋野村が黒滝村大字才谷を編入。

1956年、吉野郡秋野村、丹生村を編入。

マンホールには町章を中心に、デザイン化した「町の木:杉」と、「町の花:松葉牡丹」が描かれています。

昭和年3月12日制定の町章は「「下市」を図案化したもので、外周は「下」、内周は「市」を表現。太く逞しい線と、細く美しい線は調和、円は円満と平和を表し、左側の鋭い開放は、将来に向かって発展する町の姿を意味する。」公式HPより

ここ下市は「浪曲の父・二代吉田奈良丸」の生誕地で、顕彰碑が建立されています。「 花もよし 紅葉又よし 水清し ???の 都 下市に 」・・?が読めない(-_-;) 浪曲が大好きだった父のお陰で、名前だけは・・(^^;)

下市町新住で見かけた「吉野銘木展示場」の大きな建物。そういえば吉野は有名な銘木の産地でしたね。

撮影日:2009年6月27日

 

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ご当地マンホール in 奈良県平群町

2023年05月18日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

生駒郡平群町(へぐりちょう)は奈良県西北部にあり、生駒市、斑鳩町、三郷町に。また県を跨いで 大阪府東大阪市、八尾市に隣接。西は生駒山地・信貴山、東は矢田丘陵に囲まれた山間の小平野の町です。古代の大和国平群郡平群郷の地は、古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在。信貴山縁起絵巻で知られる「信貴山朝護孫子寺」もあり、市役所近くの護岸には、「信貴山朝護孫子寺の世界一福寅」と「平群の小菊」が描かれています。

平群町での菊の栽培は歴史的にも古く、現在では夏秋期の生産量が日本一という小菊の大産地として全国的に知られています。「町の木:樫」「町の花:菊」を制定。

キャッチフレーズは「咲かせよう命を大切にする心 安全でみどり豊かなふるさと平群」

明治22年(1889)、町村制の施行により、平群郡明治村が発足。

1896年、明治村が改称して平群郡平群村(へぐりむら)となる。

1897年、平群村の所属郡が生駒郡に変更。

1971年、平群村が町制を施行、生駒郡平群町となる。

マンホールには中央に「町の木:樫」と「町の花:菊」。周囲には町域にある古墳がデザインされています。

昭和45年12月1日制定の 町章は「平群町の「平」を勘亭流の文字にデザインしたものである。 中央の2本の太い線は発展の第一にある道路(大阪、奈良を結ぶ2本の道路)を表わし上下の矢印はゆきかうことを表現している。」公式HPより

平群町福貴にある「重要文化財・藤田家」への案内標が建つ歩道に設置されていたモミジのプレート。

マンホール収集の折に立ち寄った「道の駅・大和路へぐり」。スタンプのどんぐり君は・・・・樫の木の妖精かな?

撮影日:2009年4月19日

 

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ご当地マンホール in 奈良県大和高田市

2023年05月17日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

大和高田市(やまとたかだし)は奈良県中西部に位置し、中和・葛城地域の中核都市です。橿原市、御所市、香芝市、葛城市、広陵町に隣接。奈良盆地中西部の一角を占め、小さい面積の市域の大半は平坦地で、市の西北部は馬見丘陵の南端部に位置します。この一帯には五世紀の大型前方後円墳や築山古墳、領家山古墳が存在し馬見古墳群の南端を形成。また日本書紀に見える百済意多郎(おたら)墓は築山古墳の南に位置する岡崎に比定。近年、この付近で池田遺跡が発見され、大型の鶏、盾持ち人、巫女、盛装した男子など多数の形象埴輪が出土しています。「市の木:サザンカ」「市の花:コスモス」を制定。

キャッチフレーズは「元気な高田  誇れる高田」

大和高田駅前モニュメント「コスモス」

明治22年(1889)、町村制の施行により葛下郡高田町・浮孔村・土庫村・松塚村・磐園村・陵西村、高市郡天満村が発足。

1896年、葛下郡が北葛城郡に変更。

1901年、北葛城郡浮孔村大字三倉堂を編入。

1927年、北葛城郡土庫村・松塚村を編入。

1941年、北葛城郡浮孔村・磐園村を編入。

1948年、北葛城郡高田町が市制を施行、大和高田市となる。

1956年、北葛城郡陵西村を編入。

1957年、高市郡天満村を編入。北葛城郡広陵町大字池尻・藤森の一部を編入。

マンホールには周囲の網目に市章を散らし、中央に「市の木:山茶花」がデザインされています。(山茶花ホール、駅前の商店街等に設置)

マンホールのデザインに使われているのは、市制50周年を記念して誕生した『未来(みく)ちゃん』。山茶花の花冠をつけ、大和高田市が未来へはばたきますようにという願いを籠めて、市の魅力や情報を発信しています。

昭和7年4月1日制定の市章は「「タ・カ・ダ」を図案化したもの。」公式HPより

下の二枚は自治体名が「高田市」と記載されています。高田町が1948年に市制施行の際、既に新潟県高田市が存在し、市名の重複を避けるために、旧国名の「大和」を冠称しました。と言う事はこの二枚は市名を変更する前に作られていたものでしょうか?とすればかなり貴重な二枚と言う事になりますね。

「近鉄高田駅周辺整備事業竣工記念碑」

撮影日:2009年6月27日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 奈良県田原本町

2023年05月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

磯城郡田原本町(たわらもとちょう)は奈良盆地のほぼ中央、天理市、桜井市、橿原市、三宅町、広陵町に隣接する町です。東に初瀬川、西に飛鳥川が流れる平坦地に位置し、古代の大和国城下郡鏡作郷の地で、鏡作神社・多神社など著名な延喜式内社が鎮座します。田原本町唐古地区に、弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)を有し、出土品は国の重要文化財に指定されています。「町の木:イチイガシ」「町の花:水仙」を制定。

キャッチフレーズは「弥生文化の発信基地 自然と歴史・文化が育む新しい生活拠点たわらもと」

明治22年(1889)、町村制の施行により、十市郡田原本町・多村・平野村、式下郡川東村・都村が発足。

1897年、十市郡が磯城郡に変更。

1956年、磯城郡多村・川東村・都村と合併、改めて田原本町が発足。

1957年、大字飯高・大垣・豊田・西新堂・新口を橿原市に編入。

1958年、大字檜垣・遠田・海知・武蔵を天理市に編入、現在に至ります。

マンホールには復元された「唐古・鍵遺跡楼閣」と「町の花:すいせん」が描かれています。(田原本町駅付近の商店街に設置)

「唐古・鍵遺跡の楼閣」

道の駅 レスティ唐古・鍵の展示蓋

昭和33年7月1日制定の町章は「田原本町の上昇発展と平和隆昌を端的にシンボライズし、頭文字「タ」を簡潔優美にデフオルメし、その形は大きく爽快に表現したもの」公式HPより

「町の花:水仙」がデザインされた量水器

「唐古・鍵遺跡」へのコースを示す観光プレート

唐古鍵遺跡公園の観光用プレート

田原本町公式マスコットキャラクター『 タワラモトン』。国史跡の唐古鍵遺跡からは豚らしき動物の骨が出土したという事ですが、らしきという事はイノシシ系の動物かしら?

こちらはそのものずばり、唐古鍵遺跡のキャラクター『楼閣くん』。確かに特徴は良く表現されています(笑)

観光キャッチフレーズは「楼閣と桃太郎生誕のまち 田原本町」。田原本町には 桃太郎のモデルとされる吉備津彦の父親『7代 :孝霊天皇』の宮が置かれており、ゆえに吉備津彦はこの場所で生誕し育ったと考えられています。成人後にこの地から西に向かい吉備を平定したとされ、それをもって「桃太郎発祥の地」としているそうで・・。う~~~ん、岡山県出身の私としては納得し難い!(笑)

撮影日:2009年6月27日&2018年4月28日

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2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(累計301自治体342種類)の マンホールカードの無料配布が 開始されました。「田原元町」のマンホールカードは「道の駅レスティ唐古・鍵」で頂けます。

1994年に設置開始されたマンホールには「唐古・鍵遺蹟の楼閣」と「町の花:水仙」がデザインされています。

「田原本町は奈良盆地の中央部に当たる沖積地に位置し、豊かな田園風景が広がる町です。 北部に所在する「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」は、国内屈指の規模を誇る弥生時代の環濠集落で、当時の生活や文化に関連する土器や石器、木製品が多数出土しています。 中でも、弥生時代の高層建築である「楼閣」を描いた絵画土器は有名で、この土器片を元に復元した楼閣は田原本町のシンボルタワーとなっています。 本マンホール蓋は、この復元楼閣と町の花「すいせん」で構成されており、町の玄関口である近鉄田原本駅から唐古・鍵遺跡まで続く道に設置されています。」

訪問日:2018年4月28日

 

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當麻寺門前町~ in 奈良県葛城市當麻

2023年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

予備知識の不十分さが露呈された當麻寺の冬牡丹でしたが、それでも花は綺麗でした。私たちが何を期待しているのかなんて花には関係の無い事で、強いて言うなら調査不足だった自分たちの責任かと(笑)
それはさておき、流石に古い歴史に裏打ちされた當麻寺だけに、実は仁王門から続く門前町も中々見ごたえがあるのです。

門前町の画像は、本格的にマンホール収集を目的で歩いた時のものなので、枚数としては非常に少なく・且つお粗末なのですが、それでもお蔵入りさせるには惜しい町並(^^;)。

江戸時代以前より、多くの参拝客で賑わったであろう當麻寺門前には、そうした参拝客の為の旅籠が多くあり、今も往時を偲ばせる佇まいが残されています。『釜めし 玉や』さんは、築160年余の「元旅籠:玉屋」。建物は登録有形文化財の指定を受けています。

こちらでの一番の収穫は何と言ってもこの「鶴松図」の鏝絵!!ご亭主殿はバイクに乗ったまま待機していた為、現物を見たのは私だけ。後でたいそう悔しがっておりました(笑)

他にも「米屋・菊屋・扇屋・大坂屋」など多くの旅籠があったそうですが、今はそれを教えるものは何も残っていません。それでも立ち並ぶ家屋はどれも素晴らしく、いかにもな雰囲気を漂わせています。

黒漆喰の壁から飛び出ているのは、かなりの太さの木の枝・・・現役でいるのか、それとももう枯れてしまったのか・・ここからでは知る良しも有りません。

参道途中で見かけた天満宮のお社。素通りは憚られ、でも時間に急かれての駆け足参拝。

拝殿前より神域を守護されるのは、関西ではお馴染みの、いかめしいお顔の狛犬さん一対。足元にまかれた細い注連縄、拝殿のものとお揃いでしょうか。

マンホール撮影のためと言いながら、ついつい横道に逸れてしまう私、バイクにまたがってゆっくりと移動するご亭主殿の顔は・・想像しない事にします(笑)

當麻の里に展開される「白鳳ロマンの道」。そこには様々な歴史が今も息づいています。大津の皇子が眠る二上山。相撲取りの祖とされる『当麻蹴速(たいまのけはや)』の塚も残されています。聖徳太子中條姫・・・古代の歴史が好きな人なら、一度は耳にした事のある人たちが確かにこの場所にいて、生きて、泣いて、笑って・・・それはまさに壮大な歴史ロマンの舞台でもあった場所。

上記の看板が有る「二上ふるさと公園」の一画に、何処に続くのか分らない石段。ご亭主殿は無謀にもチャレンジしかけましたが、三十段ほどであっさりと引き下がりました(笑)。この石段、実は四百五十六段もあったそうで・・・引き返してくれて良かった(^^;)

訪問日:2009年7月11日

 

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當麻寺(たいまでら)の冬牡丹 in 奈良県葛城市當麻

2023年05月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

寒牡丹と言えば石光寺ですが、実はここからさほど遠くない場所にもう一箇所、牡丹の寺と呼ばれる寺院があります。
二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置し、開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされる「二上山:當麻寺(たいまでら)」。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」を本尊とし、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られています。

境内には数々の重要文化財級の建物を擁し、規模の大きさでは関西でも屈指の名刹。参道石段の突き当たりに建つ仁王門には、過ぎてきた歴史をじっと見据えてきた二体の仁王が阿吽の呼吸で立っています。

境内は広く、私たちの他に人影は無し。とても静かな冬景色の下に重要文化財である奥院楼門、その先にも内側にもやはり人影は無く、ひたすらに静か。

大和の国の西に位置にし、二つの頂上をもつ二上山。夕陽が二つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられてきた二上山。

その神体山を背景に建つ重要文化財の奥院本堂の欄間には、楽を奏で、天空を舞う艶やかな天女の姿。

歩を進めるごとに出会う御仏の姿・・御仏を慰める御塔の数々・・

春になったらこの木はどんな風に装いをこらすのだろう?花の下に埋もれて眠りたいと詠った西行法師も、この桜を見たら目を細めたのではなかろうか・・

どこもかしこも仏の座す場に相応しく静謐で、何もかもが研ぎ澄まされて、そのくせ心地よい柔らかさ。

・・・・・と、ここまで書き進めて思い出したのですが(笑)、私はお寺に参拝に来たのではなく、當麻寺の寒牡丹を見に来たのです。あ!もちろん参拝はいたしました。でもほら、本堂の傍らに・・

西方極楽浄土を模した庭園にも、ほんのりと優しい藁苞が見えています。

広い境内のそこかしこに散らばる藁苞を探し、綺麗に咲く牡丹に見とれていましたが・・・・、どうも石光寺で見た寒牡丹とは様子が違っています。花はどれも美しく匂うばかりですが、あの寒さに耐える独特の凛とした佇まいが感じられない。

何より、花を咲かせる為に自らそぎ落とす筈の葉が、青々と花を包んでいるではないですか。

そうか!!ここのは寒牡丹ではなくて冬牡丹だったのか・・・・こういう書き方をしたからと言って、決して冬牡丹がダメと言うのではないし、寒牡丹に比べて見劣りするわけでもありません。実際に画像で見ても分るように、こんなにもあでやかで美しく、まさに百花の王たる姿です。

けれども、厳しい冬に耐えて咲く寒牡丹を・・と思っていた為、そうではないという気持ちがついつい勝ってしまいました。よく調べれば「こもを被った愛らしい冬ボタン」の記載もあったのに・・・・・

今思えば、時間に急かされてじっくりと境内の諸々を拝観できなかった事が惜しまれる。これほどの名刹に訪れておきながら・・ああ、もう何十回繰り返したか分からない、毎度おなじみの後悔 (>_< )

訪問日:2007年12月24日

 

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石光寺(せっこうじ)の寒牡丹 in 奈良県葛城市染野

2023年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

初夏に真冬の記事というのも如何なものかと、毎度の如くご亭主殿に笑われましたが、過去に遡ったブログならではの矛盾と割り切って(^_^;)

真冬の牡丹が見たい・・・唐突な発言にご亭主殿は「鳩に豆鉄砲」(笑)。真冬の牡丹には「冬牡丹」と「寒牡丹」があるそうですが、私が見たいのは、ほっこりと藁苞(わらづと)に守られた寒牡丹。そこで寒牡丹で有名な「石光寺(せっこうじ)」まで、真冬の寒さにもめげず(笑)バイクタンデムで出かけることに。

葛城市染野にある浄土宗寺院「慈雲山:石光寺」「役小角の開山と伝えられ、出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。」Wikipediaより

関西花の寺 二十番、牡丹・芍薬・寒牡丹と中将姫伝説で知られており、屋根の瓦には鬼と共に、美しい牡丹が咲いています。

拝観受付を済ませたら早速境内の花園へ。柔らかい藁苞の群れを見ただけで寒さも吹き飛びます。中を覗けば、この寒さの中でも凛とした美しさと花の王たる気品を持った姿が。

『寒牡丹は、自然の中に咲き、子孫を残すために必死に生きています。冬は風がきつく、昆虫がいないので風に運んでもらいます。風で茎が折れないように寒牡丹は花首が柔軟に出来ています。だから、茎の色やカタチにも味わいが出るのです。自らの意思でムダな葉っぱはそぎ落とすなど、省力化しながら息を潜め、ここぞという時に一気に花を咲かせる寒牡丹。これが二季咲きの牡丹の生きる知恵なのでしょうね。』

上記は石光寺のご住職様の言葉ですが、寒牡丹の説明は、まさにこの文章につきます。あとはもう、ただひたすら、美しく咲き誇る寒牡丹を愛でることに専念して。

「石光寺」は中将姫伝説ゆかりの寺院としても有名で、境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染めの井」と、その糸を干したという「糸掛桜」が伝えられ、その為「染寺」と通称されています。

余談ですが、中将姫生誕地とされる奈良市の「誕生寺」。その境内には「中将姫産湯の井戸」もあるそうです。偶然通りかかったものの、あの時は門の前を素通りしただけ・・思い出すと・・悔しい(笑)。

名残は尽きませんがそろそろ次の目的地にむかわねば。受付奥の休憩所で頂いた熱いお茶に冷えた体もほっこり。見れば奥まった一画に『役小角』の像が安置されています。

厨子の前には、小角が伝えたとされる「肉桂」。近寄って匂いをかいで見ると、ほんのかすかですが、独特のニッキの香がします。どれほどの年月を経たものなのか分りませんが、これほどの肉桂があるのは多分、凄い事なのでしょう。

ネットや観光案内でしか知らなかった「寒牡丹」、念願かなって実際にその美しさに触れる事ができました。柔らかな藁苞は母の胎内のように深く温かく、牡丹を包み込んでそこに存在しています。

参拝日:2007年12月24日

 

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ご当地マンホール in 奈良県旧當麻町&旧新庄町(葛城市)

2023年05月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

旧北葛城郡當麻町(たいまちょう)は奈良県北西部にあり、大和高田市、香芝市、新庄町と、県を跨いで 大阪府太子町、河南町に隣接。町のランドマークでもある二上山の麓に位置。その「二上山(ふたかみやま・にじょうざん)」雄岳の山頂には、謀反の疑いをかけられ自害させられた『大津皇子』の墓があると伝えられています。また、町名の由来となった「當麻寺」のあることでも知られています。「町の木:樟」「町の花:牡丹・菊」「町の鳥:鶯」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、葛下郡(かつげぐん)當麻村が発足。

1896年、所属郡が北葛城郡に変更。

1956年、北葛城郡磐城村と合併し、改めて當麻村が発足。

1966年、 當麻村が町制を施行、北葛城郡當麻町が発足。

2004年、北葛城郡新庄町と合併、葛城市となりました。

マンホールには二上山を背景に、當麻寺の東西二つの三重塔と、町の花「牡丹」・町章が描かれています。(當麻寺の参道付近に点在)

「二上山」

昭和33年10月18日制定の町章は「「当」の字と麻を「マ」として用い葛城連山を象徴し て図案化したもので、当町は古代文化発祥の霊峯の麓に屯す静かな佇で はあるが、町章の円は和衷協同の姿を、中央の幹線は幾多の文化的遺産 を醸成した不撓不屈の逞しい想像意欲とその闘魂を、さらには上部の連 峰はその燃え滾る炎を象徴し、以って当町の明日への旺んな隆昌を約束 づけるものである。」公式HPより

撮影日:2009年7月11日&2017年4月26日

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旧北葛城郡新庄町(しんじょうちょう)は奈良県の北西部にあり、大和高田市、御所市、當麻町と、県を跨いで大阪府河南町に隣接。古代の大和国忍海郡(おしのみのこおり)の地であり、葛木御県(かつらぎみあがた)神社(葛木)・葛木坐火雷(かつらきにいますほのいかづち)神社(笛吹)・角刺(つのさし)神社(忍海)などの延喜式内社を擁す町です。「町の木:イチイガシ&副木:マツ 」「町の花:菊&副花:ツバキ」を制定。これほどの歴史的遺産が有りながら、画像にあるのは小さな橋にある「町花:菊」のレリーフのみ(^^;)。

明治22年(1889)、町村制の施行により、葛下郡新庄村、南葛城郡忍海村が発足。

1896年、所属郡が北葛城郡に変更。

1923年、新庄村が町制を施行、北葛城郡新庄町が発足。

1956年、南葛城郡忍海村を編入。

2004年、北葛城郡當麻町と合併、葛城市となりました。

デザインマンホールは無く、中央に町章があるカラーの規格蓋がありました。

昭和23年4月29日 制定の町章には「周囲の3つの三角は、それぞれ金剛、畝傍、信貴生駒の三山をあらわし、その山を連絡する円周によって、上代の葛城地方を意味しています。葛城地方のほぼ中央にある新庄町は、恵まれた気候風土と良田畑を擁し平和なまちであることを象徴し、全体の形状として旭日昇天の発展性を示しています。」公式HPより

雨水用のマンホール、中央に「雨」の文字があるだけで特定の地域名は有りません。

撮影日:2009年7月11日

 

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