車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

会津若松市~史跡巡り in 福島県会津若松市

2024年10月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

東山温泉を後に、湯川大町線(県道325号線)をテクテク👣。市内のメイン道路になるのでしょうか?中央分離帯を挟んで二車線道路が一直線に続いており、よほどでない限り、道に迷う心配はなさそう😊 そして最初の立ち寄り地は「松平家廟所」

白壁造りの建物に挟まれた細い路地を真っ直ぐに行くと「松平家廟所入口」の碑。

初代『保科正之公』の廟は猪苗代の土津神社にある為、こちらには『二代:正径公』から『九代容保公』までの歴代藩主と、藩主の御正室、側室、子女の方々の廟が並んでいます。

この「松平家廟所」は大名家の神式墓所の代表的なものとして、昭和62年(1987)に国の史跡に指定されています。失礼とは存じますが、私たちは廟所門の前で合掌礼拝をさせて頂きました。

大通りに出て直ぐに、唐破風屋根の気になる建物を見つけ、近くまで。「ネパール博物館」と書かれていますが何でしょう??。近くの案内によれば、「建物は大地主の豪邸を移築した「会津料理: 鶴井筒」。屋根裏を利用した2階~3階が、エキゾチックな資料館になっているようです。

次なる目的地「会津武家屋敷」に着きました。

手持ちの資料によれば、戊辰戦争で消失した武家屋敷のうち会津藩家老「西郷頼母邸」を復元した観光スポット。他にも代官所の旧中畑陣屋、茶室麟閣を再現した茶室領南庵、坂本龍馬を暗殺した張本人ではないかとされる『佐々木只三郎』の墓などなど、歴史的構造物や武家に関する資料が展示されているそうです。

もっと大幅に時間が有れば寄り道も悪くは無いのですが、取り合えず記念写真だけでお茶を濁します😓 

武家屋敷から5分ほどで「地蔵清水」に来ました。一角にはピンクや紅の「舘葵(タチアオイ)」が優しく色を添えています。舘葵は、梅雨の始まりと終わりを告げる事から「梅雨葵(つゆあおい)」とも呼ばれます。

「お秀茶屋」は300年ほど前、峠の腰かけ茶屋として暖簾をだしました。当時、店のあたりは河原になっており、会津藩士専用の処刑場として使われていました。処刑場に向かう罪人を不憫に思ったここの茶屋のお秀婆さんが、味噌をつけて焼いたモチを与えたと言う話や、今生最後の食として罪人たちに田楽と清水を与えたという会津藩の慈悲は今でも語り継がれています」東山温泉瀧の湯HPより

お秀茶屋の横手、細い路地を入った右手に「奴郎ヶ前(やろうがまえ)の地蔵様」。罪人として処刑された会津藩士達の供養のために建立された念仏碑や地蔵様が、塵一つない一画で整然と供養されています。

地蔵様の交差点を右折。「萱野父子奥津城入口」の碑。天寧寺の裏手の墓地には、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した「萱野権兵衛、次男:郡長正」の墓があります。また会津小鉄の異名を持つ『上坂仙吉 』 が、京都三条河原に晒された近藤勇の首を夜陰にまぎれて奪い取り、愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」と共に会津に送り届けた「近藤勇」の墓もあるとか。こちらは時間的に余裕が無く、参拝できずに終わりました。

ここから再びハイカラさんに乗車し、おおよそ5分で飯森山下停留所に到着です。ここから先は明日のブログで。

訪問日:2015年6月29日

 

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東山温泉 in 福島県会津若松市東山湯本

2024年10月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

歴史を語る寺社仏閣、史跡・町並み等々・・・見所一杯の会津若松市、私たちは二日間にわたって市内の名所旧跡を訪ねました。さて、どこから紹介を?と思案した結果、まずは東北三楽郷の一つとして、山形の「かみのやま温泉」「湯野浜温泉」と共に古くから親しまれている「東山温泉」

冒頭の画像だけ見ると、どんなに山深い場所にあるのかと思われそうですが、これがまた、すこぶる近くて便利な場所に在るのです。見所の多い会津若松市内を効率よく回れるようにと言う事で、今回は「まちなか周遊バス ハイカラさん」を利用。

流石にお着物は着ていらっしゃいませんが😅、本当に、こんな感じの素敵な運転手さんでした。

公式HPによれば、「全国約2700ヶ所の温泉地で、東山温泉ほど中心市街地から近く、しかも山間の風情を漂わせているところはありません。会津若松市の中心から車で約10分の東山温泉は約1300年前に僧・行基が発見したという歴史のある温泉。新選組の土方歳三や伊藤博文、与謝野晶子などの著名人や文人に愛された温泉でもあります。」

と言う事で、各駅停車21分のバスの旅を無事終えて、東山温泉に到着。(実は私、乗り物酔いが酷くて、自分の車以外は苦手💦)

バスターミナルからほんの数分歩けば、そこはもう、せせらぎと緑深い山間の長閑な温泉街。

風情ある佇まいの建物は「源泉と望瀧の宿・原瀧」。そう、この景色!。観光案内のページで見た時から、ずっと憧れていたのです😀

看板の横に見える窓の、何ともいえないゆかしい風情・・月並みな言葉しか出てきませんが、何もかも、本当に素敵。

ねぇ、いつか本当にお泊りで温泉を楽しんで、この場所に立って二人一緒の記念写真を撮りたいね。

とは言えお泊りが出来ない温泉街の散策では、とりあえずのお楽しみは、手軽に温泉気分が味わえる「足湯」。目の前に流れる湯川を見ながら、のんびりと足湯を楽しむ・・う~~ん、なんて素敵な贅沢。

ところで・・足場が組まれて今ひとつ詳細ではありませんが、目の前の建物の壁絵・・あれって『土方歳三』さんですよね。何で土方さんが壁画に??

と思ったら、近くに「東山温泉発祥の源泉『土方歳三』戦傷湯治の岩風呂」看板。

ここ東山温泉は、土方さん以外にも『竹久夢二』『与謝野鉄幹・晶子夫妻』なども訪れており、特に夢二は、明治・大正・昭和の三度に渡って東山温泉に逗留しています。

【会津磐梯山は~宝の山よ~♪】でお馴染みの『小原庄助さん』。名字帯刀を許された郷頭で、立派な髭をたくわえた豪傑、そして大のお酒好き、温泉好き。その庄助さんもここ東山温泉の湯を楽しんだと云い伝えられています。

温泉と言えばお馴染みの「行基と三本足の八咫烏」。伝道の旅の途次、八咫烏に導かれた行基は、野猿が源泉で湯浴びをしているのを見つけた・・野猿はときに白鷺であったり鹿であったりと様々ですが、各地に同じような伝説が語り継がれています。

「詠観橋」を渡り、改めて振り返る「原瀧」の美しい佇まいに見送られ、私たちは名残惜しさを一杯に東山温泉を後に。ここからは徒歩で、途次途次の旧跡を訪ねて市内を目指します。

「伏見観音」「昭和26年に藤身ヶ滝(伏見ヶ滝)の悲恋の伝説のような悲しい事件が二度と行こらないようにと安産を祈願して建てられた観音様。右手に徳利、左手に盃を持っているところは、何とも酒処・会津らしい観音様です」現地案内より

「石場松植碑」

温泉街らしい「包丁塚」

訪問日:2015年6月29日

 

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会津鶴ヶ城址~ in 福島県会津若松市

2024年10月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昨日に続いての「会津鶴ヶ城址」。目一杯後ろに下がって全体を写してみましたが、石垣の上に聳えていない(ように見える)天守閣って、陸に上がったカッパみたい。 6月の青空・・と言うには雲が多すぎますが、この白さなら、間違っても雨になる事は無い筈。

行ったり来たり、お城の周りをこれだけウロウロしていれば、言わずとも「観光客」とわかるようで😅 武者姿の方からお声をかけて頂き、教えて頂いたポーズで記念写真📷 幾つになってもこういうのって単純に嬉しいものです。

広大な鶴ヶ城城址、せっせと歩いているつもりですが、振り返ってみれば、あれもこれもと見逃した場所が出てきます。まぁ、前もってリストがあったわけではないので、これはもう想定内と言う事で。昨日に続いての碑巡り諸々は、会津の民踊を全国的に普及させることに尽力した先駆者。山ノ内磐水翁 顕彰碑」。生誕120年を記念しての建立です。

「会津磐梯宝の山で 笹に黄金がなり下がる」、耳になじむこのフレーズ??と思ったのも道理。「玄如節」は、民踊「会津磐梯山」の原点となった歌。

当時の市長『横山武氏』の口癖であった「会津人の魂は天守閣だ」「会津が生き残るには観光しかない」。戊辰戦争の後に取り壊され、石垣や堀が史跡として残された城址。そこに天守閣を!その再建は決して容易な事ではありませんでした。賛成、反対・・種々の思惑と人々の想いを受けて、昭和40年(1965)9月17日、鶴ヶ城の天守閣は再建されました。横山武氏の胸像と共に、その経緯が碑に刻まれています。

外観復元された鶴ヶ城天守を背景に。

「伝·上杉謙信公仮廟所跡地」近くに鎮座される「笠間稲荷神社」。御祭神は赤い幟旗に書かれた『正一位笠間稲荷大明神』。

明治時代に笠間市の笠間稲荷神社から御霊を勧請したとあります。城址に二つの稲荷社が鎮座されるのは珍しい気もしますが、どうなんでしょう?

拝殿前の左右には、編み笠とほっかむりで仔狐さんを前足に縋らせる神狐さん。巻物を口に、宝珠に手を置く神狐さんの一対。仔狐さんは、頭からすっぽり赤い布にくるまれて「おくるみ」状態😅

さらに編み笠とほっかむりで米俵に手を置く神狐さん。仔狛を手元で遊ばせる神狐さんの一対。それにしても写真がこれだけという理由が今もって不明。・・よほど急く理由がこの時あったのでしょうか??

「旧会津中学校跡 (私立日新館)」、戊辰の役にて藩校:日新館も消滅。明治12年に初めて開校した福島県二番中学校は翌年に廃止され、明治17年に地方税支弁によって設立された若松中学校も明治19年の「一県一校の定め」により再度廃校。明治23年(1890)、会津復興には教育が不可欠であると、旧藩士たちが困窮にあえぎながらも浄財を出し合い、私立会津中学を開校しました。

復元天守も素敵ですが、やっぱりお濠に影を落とす城址が好みかな😊

「桜ヶ馬場跡」。「一カ月に及んだ籠城戦ののち鶴ヶ城は開城。慶応四年(1868)九月二十二日と二十三日、ここ桜ヶ馬場で人員調べがあり、男子は猪苗代送りとなりました。この時、山本八重は男装し、弟の山本三郎と称して人員検査を通過したのでした。八重の弟の三郎は、鳥羽伏見の戦いで銃撃を受け亡くなっていました。」現地案内より

まちなか周遊バスのバス停に向かう途中に飛び込んできた煉瓦造りの建物は、「會津葵シルクロード文明館」。地元産の慶山石、磐梯石、湊町赤井にあった民家の太い梁や古材、そして耐火レンガ3万個などを再生再利用し1992年4月にオープン。

城址からさほど遠くない会津若松市東栄町にある「会津酒造歴史館」。どれも後ろ髪引かれますが・・時間が足りません。

「会津鶴ヶ城址」散策を終え、次なる目的地「東山温泉」に向かいます。

訪問日:2015年6月29日

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会津鶴ヶ城址~碑巡り in 福島県会津若松市

2024年10月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市追手町、会津若松市のシンボル的存在として観光案内などの冊子には必ずと言ってよいほど登場する「鶴ヶ城」、別名「会津若松城」。内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。

戊辰戦争の舞台となり一か月に及ぶ籠城にも持ちこたえた鶴ヶ城は、明治2年に会津藩に代わって発足した若松県の県庁となり、城の管理も県に委任されました。明治6年の廃城令により鶴ヶ城は存城処分となりましたが、若松県権令『沢簡徳』の取り壊し建言を受け、明治7年(1874)に天守をはじめとする建造物はすべて解体、石垣と堀だけが残されました。

城址の堀越しに見る「廊下橋」

城址へと至る真っ直ぐの道。

廊下橋の壁面に築かれている石垣は会津若松城で一番高い高石垣で、高さは20mもあり、上に行くに従って急こう配になっています。打ち込みハギの高石垣は加藤氏の時代に造られたものですが、長い年月を経てもその堅牢さは健在です。

「鶴ヶ城公園功労者 旧会津藩士:遠藤 敬止」碑。白虎隊士:遠藤 嘉竜二の兄。城跡を一括して保存するため、私財2,500円で払い下げを受け、旧藩主松平家に寄付しました。昭和2年(1972)に松平家から若松市へ譲り渡された鶴ヶ城跡は、城下町会津若松市のシンボルとして、市民を初め会津の人々の誇りとなっています。

「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」

城址に残された数々の碑・像、実際にはもっとあったのかもしれませんが、ここでは私たちが実際に見てきた碑を紹介します。まずは「司馬遼太郎文学碑」から・・・「容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。「君臣、相擁し、声を放って哭(な)けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録 は語っている-「王城の護衛者」より」。また裏面には、司馬遼太郎が会津に思いを寄せ、賊軍とされた「会津」の立場を後世の人々に改めて問い直した事の形跡を後世に残す為、文学碑を建てたという趣意が記されています。

仙台出身の詩人「土井晩翠先生」像。

【♪春高楼の~花の宴~・・~昔の光~今いずこ】。会津若松の鶴ヶ城をイメージして作詞したという「荒城の月」。存城処分となった鶴ヶ城はその後取り壊され城址のみが残されました。彼の詩は石垣のみとなった鶴ヶ城に捧げる鎮魂歌にも思えてきます。

「会津嶺(ね)に 葵のきずな重ねつゝ 万葉の庭に 花ほころびぬ」詠み人知らず

「山本八重・像」戊辰戦争に敗北し、鶴ヶ城を開城することになった真夜中の12時ごろ、八重は三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りにかんざしで心情を刻みます。



【 明日の夜は  何国の誰か ながむらん  なれし御城に 残す月かげ 】

万葉歌碑【 会津嶺の  国をさ遠み 逢はなはば  偲ひにせもと 紐結ばさね 】「秩父宮妃勢津子殿下御筆」

万葉歌碑の左右に「松平保定公御手植えの松」「松平勇雄:元福島県知事手植えの松」

「秋月悌次郎詩碑」-行くに輿無く 帰るに家無し 國破れて 孤城雀鴉乱る・・・会津藩が降伏した後、秋月は僧侶に変装し、旧知の長州藩士奥平謙輔に藩の寛容な処分を訴えます。その帰途、束松峠に立ち、憂う気持ちを「北越潜行」の七言絶句に残しました。

参拝日:2015年6月29日

 

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鶴ヶ城稲荷神社 in 福島県会津若松市追手町

2024年10月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市追手町に鎮座される「鶴ヶ城稲荷神社」。御祭神は『宇迦魂命(うかのみたまのみこと)』

「至徳元年(1384)、蘆名直盛公が東黒川館の築城時に勧請。寛文6年(1666)年、保科正之公が三の丸から本丸に移築。明治に入り、鶴ヶ城が取り壊されたため、城内にあった稲荷神社の御神体を合祀安置し、鶴ヶ城稲荷神社と改称。その後、遠藤啓士が鶴ヶ城跡地を買い取り消滅が免れたため、鶴ヶ城の帯郭に再建されたが、御神体 (狐を乗せた神) は残っている。」

「築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決めたと伝えられている。」

重厚な石造りの明神鳥居をくぐると「編み笠とほっかむり」をした姿が特徴的な神狐さん一対。仔狛さんはお揃いのほっかむり。巻物を咥えた神狐さんは三宝に乗せられた宝珠に手を置いています。 背中に掛けられた手編みの肩掛けも良い感じ。

福島県に入って、初めて目にした不思議なお姿に軽くカルチャーショックを与えられた二人。何と表現すればいいんでしょう??神域を守護されるだけに相当以上に怖いお顔なのですが、それと編み笠の赤い紐との対比は予想の斜め上。

よほどの寒がりなのかほっかむりだけでは足りず、背中にも赤い布を巻いてもらった仔狐さん。頭に添える手の爪の鋭さ・・にも拘らず、編み笠の下の怖い顔はどこまでも親の慈悲に満ちて見えるのです。

石段参道途中より神域を守護される、編み笠とほっかむりの神狐さん一対。仔狐に手を添える神狐さん。巻物を咥え米俵に手を置く神狐さん。この米俵も初見。稲穂を咥えた神狐さんはよく見かけますが、米俵とは規模が大きいですね😊。

仔狐さんはたっぷりと丈の有る赤い布を首に巻いて、今どき風。

拝殿ちかくより神域を守護される、編み笠とほっかむりの神狐さん一対。宝珠に手を置く神狐さん。鍵に手を添える神狐さん。

拝殿幕には会津葵の紋

拝殿の上より神域を守護される神狐さん、赤いほっかむりに赤い肩掛け。それぞれに米俵と宝珠に手を置いています。

奉納石灯籠一対

竿部分に刻まれた狛犬さん、さり気なく神域の守護をされているようです。

参拝日:2015年6月29日

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ご当地マンホール~規格蓋~ in 福島県会津若松市

2024年10月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

都市としての会津若松市の起源は、至徳元年(1384)の『蘆名直盛(あしな なおもり)』による黒川城(若松城)築城に遡ります。以降、城下町「黒川」は、蘆名氏の領国支配の拠点として、また当時奥州最大の都市として発展を遂げていきました。天正17年(1589)、伊達氏が蘆名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としましたが、翌天正18年、『豊臣秀吉』の奥州仕置により黒川には『蒲生氏郷』が入封。氏郷は出身地の滋賀県日野町にある「馬見岡綿向神社(蒲生氏の氏神)」の参道周辺にある「若松の杜」に因んで、「黒川」を「若松」へと改めました。氏郷の死後、『上杉景勝』が入封しますが、関ヶ原の戦いで『徳川家康』に敵対して敗れ、米沢へ移封。その後、蒲生秀行、加藤嘉明などの領主を経て、寛永20年(1643)に徳川秀忠の子保科正之が入封。会津松平家の祖となり、以後若松は会津藩の城下町として発展してきました。

かつて「幻の村」と呼ばれていた大戸町芦牧地区には、千数百年前の開湯と伝えられる「芦ノ牧温泉」があり、「芦名氏ゆかりの湯」として、東山温泉と共に観光客に人気のスポットです。

昭和2年(1927)4月26日制定の市章は「明治戊辰の戦役でその名を馳せた会津藩の旗印や、白虎隊士など会津藩士の肩章として使われていた「會」の字をデザイン化したもので、会津若松市の歴史と伝統の重みを表すとともに、市民の調和を象徴しています。」公式HPより

会津若松市千石町に本社を置く「若松ガス」小型蓋。

会津若松をこよなく愛する『会津侍若松っつん』。2014年6月、定例記者会見で市長が公認宣言をした事で、会津若松市PRの公認キャラクターにスピード就任したエリートキャラクター。大好きな会津若松について熱く語っていると、いつの間にか等身大の人間に変身してしまう体質。見られて燃えるタイプ、形から入るタイプ、ほめられて伸びるタイプ😅。本人曰く、ゆるキャラではなく、渋キャラなのだ😠。

会津若松市観光PRキャラクターは、市のシンボル「鶴ヶ城」がモチーフの『お城ボくん』。アニメ監督・漫画家・作家・タツノコプロ顧問などで活躍された『笹川 浩氏』が生みの親です。

某局の大河ドラマ「八重の桜」を応援すべく誕生した起き上がり小法師、ハンサムウーマンの『こぼちゃん』。ピンクの衣装を羽織って八重に扮したこぼちゃんは、頭には八重桜の冠を乗せています。

会津若松市花春町にある「御薬園」のPRキャラクター、御種人参の妖精『おたねちゃん』。頭の上にはいつも、人参🥕の赤い実が鈴なりです。

撮影日:2015年6月29日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 福島県会津若松市

2024年10月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市(あいづわかまつし)は福島県西部一帯を占める会津地方の中心都市で、市街地は会津盆地の南東部に位置します。天栄村、湯川村、郡山市、喜多方市、磐梯町、会津坂下町、下郷町、会津美里町、猪苗代町に隣接。市域の北部、西部、中心部周辺は会津盆地の南東部にあたり、市街地、商業地などのほか、水田地帯が。また、市の南部から北部に阿賀川が流れており、市域東部、南部からは湯川、溷川(不動川)、古川が。市の東部は猪苗代湖に面し、市の南部には山地が広がります。

会津の地名は、古事記の一文にある「崇神天皇の時代、諸国平定の任務を終え、越後からやってきた『大毘古命(おおひこのみこと)』と、常陸からやってきた『建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)』が出会った場所を「相津」と呼んだ」が、由来と云われます。「市の木:赤松」「市の花:たちあおい」「市の鳥:カッコウ」を制定。

キャッチフレーズは「きりりいにしえ・今輝いて未来発信」

明治22年(1889)、町村制の施行により、北会津郡若松町・町北村・湊村・一箕村・高野村・神指村・門田村・大戸村・東山村、大沼郡本郷町が発足。

明治32年(1899)、県内初の市制施行により若松市が発足。

1937年、北会津郡町北村の一部を編入。

1951年、北会津郡町北村を編入

1955年、北会津郡湊村、一箕村、高野村、神指村、門田村、大戸村、東山村を編入、市名を「会津若松市」に変更。大沼郡本郷町小谷を編入。

2004年、北会津郡北会津村を編入。

2005年、河沼郡河東町を編入、現在に至っています。

マンホールには「磐梯山」と「猪苗代湖」、「市の木:赤松」がデザインされています。(鶴ヶ城公園内に設置)

舗道のタイルに併せて、全体がオレンジ色に塗られています(野口英世青春通り設置)

昭和57年から使われている公共桝マンホール。「市の花:たちあおい」がデザインされてます。

明日はコアなファン向け規格マンホールと、一部の人に人気😅の、ご当地キャラを合わせて紹介します。

撮影日:2015年6月29日

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マンホールカード、頂きました

2016年8月1日、第2弾として全国40自治体で44種類(累計64自治体74種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「会津若松市」のマンホールカードは、「会津若松市役所建設部下水道課」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「磐梯山」と「猪苗代湖」、「市の木:赤松」がデザインされています。

「会津若松市の木「アカマツ」の間から磐梯山と猪苗代湖を望む デザイン蓋です。磐梯山と猪苗代湖は、古くから会津のシンボルとして親しまれてきました。磐梯山は会津嶺(あいづね)の異称で「会津嶺の国を さ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね」の歌が万葉集に収められています。猪苗代湖は天鏡湖とも呼ばれ、全国トップクラスの水質を誇り、 日本一になったこともあります。アカマツは会津の気候風土に合い、「若松」が「若い松」と読み替えられることから、市の木に選定されました。 カラー版のマンホール蓋は、鶴ヶ城公園内に8か所設置されているだけで大変希少です。」

 

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ご当地マンホール in 福島県天栄村

2024年10月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

岩瀬郡天栄村(てんえいむら)は福島県の南部に位置する村です。須賀川市、郡山市、矢吹町、西郷村、鏡石町、下郷町、会津若松市、白河市に隣接。村名は村の中央部の天栄山に由来。分水嶺をなす鳳坂峠を境に区分され、東部は降雪が少ない太平洋側気候で、阿武隈川支流釈迦堂川、竜田川の河川沿いに耕地が拓けています。西部は冬期間最大2mにも及ぶ日本海側気候で、那須連山の山間にあり地勢は急峻、地域の90%が山林原野となっています。「村の木:松・エンジュ」「村の花:リンドウ」「村の鳥:ウグイス」を制定。

キャッチフレーズは「~自然と共に 人・未来を創造する村~」

明治22年(1889)、町村制の施行により岩瀬郡牧本村・湯本村・大里村・広戸村が発足。

1955年、牧本村、湯本村、大里村、広戸村飯豊・白子・小川・柿之内・高林の各一部が合併、岩瀬郡天栄村が発足。

マンホールには村章を中心に「村の木:松」「村の鳥:ウグイス」。下に「村の花:リンドウ」がデザインされています。

昭和47年(1972)9月1日制定の村章は「「てんえい」の“て”と、“ん”を図案化したもので、丸い形は村民の融和・円満と平和を意味しています。また、円の中心の白地は羽鳥湖、“ん”は村のシンボル二岐山をあらわし、村の森と湖の自然、そして村の限りない躍進を象徴しています。」公式HPより

天栄村マスコットキャラクター『ふたまたぎつね』。天栄村にある二岐山に住み、湯本小学校二岐分校に通う小学生。天栄村に来てくれた人たちを手厚くもてなしてくれるそうです。

天栄村大字羽鳥。一級河川・阿賀野川水系鶴沼川に建設された「羽鳥ダム」によって形成された人造湖「羽鳥湖(はとりこ)」。財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれています。

水不足に悩む矢吹ヶ原一帯のかんがい用及び発電用として、鶴沼川をせき止め、約15年の歳月をかけて昭和31年に完成。「羽鳥湖」の名前は、ダムを造るにあたってダムの底に沈んだ羽鳥集落からつけられました。

天栄村田良にある「道の駅:羽鳥湖公園」。なるほど!『ふたまたぎつね』の頭だ!😀

ところでご亭主殿、一体私たちはどんな秘境を目指しているんでしょうか?😱😭

撮影日:2015年7月3日

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ご当地マンホール in 福島県旧岩瀬村(須賀川市)

2024年10月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

旧岩瀬郡岩瀬村(いわせむら)は福島県のほぼ中央部、岩瀬郡の西北部に位置した村です。東に須賀川市、西北に郡山市、南に長沼町に隣接。西部は奥羽山系の東斜面に属する山岳地帯で、丘陵が数条に分かれて東に走り、その間を流れる滑川・神明川・稲川・岩根川・笹原川等の各河川に沿って開けた平地が村の主要部分を成しており、総じて肥沃な耕地に恵まれ集落間の標高格差は極めて少ない自治体です。村域には約700年前に建てられた石造阿弥陀三尊来供養塔や散在する梵字の板碑を始め、今泉城跡・大久保の館跡や陣屋跡等が往時を偲ばせています。「村の木:赤松」「村の花:りんどう」「村の鳥:やまがら」「村の魚:錦鯉」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、岩瀬郡白方村と白江村(しらえむら)が発足。

1955年、白方村と白江村が合併、岩瀬郡岩瀬村が発足。

1958年、白江地区滝の一部が長沼町に編入。

2005年、長沼町とともに須賀川市に編入しました。

マンホールには「村の木:赤松」と、昭和61年に発見された八幡岳の中腹にある落差80mの「幻の大滝」がデザインされています。

今泉地区の農業集落排水のマンホールには「村の魚:錦鯉」と「村の木:赤松」がデザインされています。

矢沢地区農業集落排水マンホールには、中央に「村の木:赤松」と「村の鳥:ヤマガラ」「村の魚:錦鯉」。周囲に「村の花:リンドウ」がデザインされています。

畑田地区農業集落排水のマンホールには、仲良く泳ぐ「村の魚:錦鯉」、その下に「村の花:リンドウ」がデザインされています。

他にも滑沢地区・大久保地区・守屋地区の農業集落排水マンホールがあったようですが、私たちが探せたのは以上😥。

昭和43年(1968)11月3日制定の村章は「「い」を変形し、大きな円と小さい円を描いたもの」

「県営圃場整備事業岩瀬地区竣工記念」

撮影日:2015年7月3日

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ご当地マンホール in 福島県旧長沼町(須賀川市)

2024年10月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

旧岩瀬郡長沼町(ながぬままち)は福島県の中央よりやや南に位置した町です。北は郡山市、岩瀬村、南は天栄村、西は天栄村、東は郡山市に隣接。西部の森林部と東部の平坦部からなり、森林部は会津地方と中通り地方の分水嶺をなす奥羽山脈の一部で、1000m級の山々が連なっています。また、約2500年前(縄文晩期)の塚越遺跡からは、縄文土器や竪穴建物などが見つかっており、すでにこの地に人々が住んでいたことが解明されています。

「町の木:桜」「町の花:山百合」「町の鳥:カッコウ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により岩瀬郡長沼村・桙衝村(ほこつきむら)が発足。

1901年、長沼村が町制を施行、岩瀬郡長沼町となる。

1955年、岩瀬郡桙衝村と合併、新・長沼町が発足。

2005年、岩瀬村とともに須賀川市に編入。

マンホールには「町の鳥:カッコウ」を中心に、周囲に「町の木:桜」がデザインされています。

巴の下半分に「町の花:山百合」、上半分には「町の鳥:カッコウ」と「町の木:サクラ」がデザインされています。

江花川に架かる天神橋の親柱に、巨大なユリの花のレリーフ😅

高欄には可憐な山百合のレリーフ

昭和47年(1972)制定の町章は「「な」を円形にして図案化したもの」

「町の木:サクラ」のデザインの側溝蓋

「町の花:山百合」のデザインの側溝蓋

長沼町マスコットキャラクターは、長沼城址に住んでいる『ゆーりん姫』。町のシンボル「やまゆり」の帽子を被り、親友の『かっこう』とはいつも一緒です。

農林水産省のページに「藤沼貯水池(藤沼湖)は、長年水不足に苦しんでいた旧長沼・桙衝・稲田の1町2村の住民が、主に人力で築き上げたもので、昭和12年に着手し、 12年の歳月を経て終戦直後の昭和24年に完成しました。現在も下流の865haに及ぶ肥沃な水田に農業用水を配り、水不足のない生産性の高い営農に貢献しています。」2010年3月11日に「藤沼貯水池(藤沼湖)」の名で「ため池百選」に選定されました。

その翌年2011年3月11日 、東日本大震災により 藤沼ダムの堤体が決壊。人命を含めた多くの被害が派生しました。
農業用水の必要性から早期の復旧を望む声、用水は必要だが移転すべき、いやダムなど不要だ・・・。ダムの再建について福島県は、学識経験者で構成する「福島県藤沼ダム復旧委員会」を設置。様々な検討を重ね、2013年10月、藤沼ダム復旧工事の着工となりました。
復旧工事着工前に周辺住民らが露出した湖底を歩いた際、「山紫陽花」の群生を発見。「湖底で眠っていた株が復活したのかも知れない」と考えられたことから“奇蹟のあじさい”と呼ばれ、その後全国に株分けされました。

2017年4月24日、藤沼ダムの復旧が完了し水の供給が再開。同年6月25日、藤沼湖自然公園で「奇蹟の紫陽花」の植樹祭が行われました。

撮影日:2015年7月3日

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